第1章『豊中』
病院の、生活感のまるでないベッドの上で八坂ゆいりは寝返りをうつ。ミシミシとスチール製フレームのきしむ音が、物音ひとつしない病室にいやに大きく響いた。
体にはだるさが残っていたが、大量の出血による極度の体力低下も、二日も眠っていれば回復する。彼らの投与してくれた薬の効果は絶大だ。
しかし脚の傷口はまだ痛んだ。さすがに彼らの薬でも、そこまで早く治癒しない。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
首を回して返事をすると、薄桃色のユニフォームをぴしっと着こなしたナースが入ってきて、
「気分はどうですか?」
と訊ねた。投薬の時間だった。
ゆいりは軽く笑みを浮かべ、
「だいぶいいです。この調子なら、すぐにでも復帰できそうです」
「また、行かれるんですか?」
質問したナースの声音には、少し憂いが含まれていた。
「仕事だから」
素っ気なくこたえた。だが、「仕事」という言葉だけで片づけられるほど軽いことではないはずだった。
案の定、ナースは言った。
「でも、なんでそんな危険な仕事……ごめんなさい、いろいろ事情があるでしょうに」
ゆいりはうなずいた。個人的なことに立ち入るべきではない。ナースもそれに気づいたのだ。
「事情……そうね、人にはそれぞれ事情があるからね。単にお金のことだけなら、他の仕事を探してもいいんだろうけどね」
エリア・オーサカへのダイブには、多額の報酬が与えられた。むろん、それ相応の危険があり、命を落とすこともあるのはよく知られていた。よりによってそんな職業を選ぶ者には、それぞれよほどの理由があって当然である――多額の借金を抱えているというのがもっともありふれていたが。
ゆいりは、窓の外を見やった。細かな雨が降っていた。エリア・オーサカにいたおとといからずっと降り続いていた雨だった。
たとえ行きたくなくとも――とゆいりは思った。すぐに呼び出されるだろう。
袖まくりした左腕に投薬シートを張られながら、ゆいりはやみそうにない雨足をぼんやりと眺めた。
傷がすっかり治りきる前に、センターへ出頭せよ、という命令が届いた。
手続きもあわただしく退院すると、家には帰らず、直接、大阪モノレールに乗り、大阪空港駅へと向かった。
オーパムがやってきて以後、門真南が終点だった大阪モノレールは堺まで、エリア・オーサカをぐるりと囲むように延長されていた。
車内は混雑していなかった。座席にすわってときどき首を曲げ、窓外から併走している中国自動車道とそこを走るクルマを見下ろしているうちに終点・大阪空港駅についた。
駅を出ると、すっかり晴れ上がった青空を飛びかう飛行機械が大きく見えた。飛行機ではない。オーパムのテクノロジーが作り出したタチャームと呼ばれる箱型の輸送機械だ。宇宙まで行くことが可能だった。淀川の河川敷きで力つきて倒れていたゆいりを回収したのも、小型のタチャームだった。
かつての空港ターミナルビルを改装したのがオーパム行政代行センターであった。外観はさほどかわらないが、内部はかなり変えられていた。リノベーションも、ここまで大規模なものとなると例がない。オーパムは、そういうことをする種族なのだ。
ガラスの自動ドアから一歩なかへ入ると、湿度の高さにえずきそうになった。それにこの臭い。いろんな調味料が混じりあったような不快な異臭がかすかに漂っている。
天井の高い玄関ホールを、ゆいりは顔をしかめながら進む。
これがオーパムにとって最適な生存環境なのだ。もちろん、そこまで環境を作らずとも地球での生存は十分可能だったが、それが彼らの流儀なのだ。
彼ら――オーパムが、地球……いや、日本に降り立って五年。すっかり定着し、国を治めてしまっていた。行政を異星人の手にゆだねてしまうなぞ、地球上、この国だけだった。
国民が血を流して民主主義を勝ち取った歴史をもっていたなら、他国の支配を受け入れるのを許しはしなかったろうが、日本はそうではなかった。
進んだテクノロジーに目が眩み、その見返りにすべてを受け入れてしまったのだ。当然、世界中の物笑いにされた。
ところが。
もはや破綻してもおかしくない国家財政を見事に回復させ、強大な経済大国へと変貌せしめたのである。たとえばタチャーム。日本からニューヨークまで、わずか十五分で行けてしまう。その技術だけで途方もない利益を国にもたらした。
今や日本は、世界のなかで特異な位置を占めるに至っていた。だが、どんなに発展しようとも、日本人は他国から蔭で蔑まれていた。売国奴。たしかにそのとおりだった。しかし日本人のほとんどは気にしなかった。したたかに生きていた。
ゆいりはエスカレーターをあがり、目的のフロアへ。エスカレーターの上がり口を要として扇形に広がるホールは天井も高く、和やかな照明が隅々まで照らしていて安心感を与えている。壁面にはガラスの自動扉が並んでいて、それぞれにセクションが分かれていた。
混雑というほどではないが、そこそこ人がいて、あっちの扉こっちの扉と出入りしている。
そのうちのひとつ――扉に「ダイバー課」とオーパム語・日本語で併記されている――にゆいりは入った。
柱のない、四十メートルほど奥行きのありそうな大部屋――オーパムの職員が、そこにはいた。
壁と一体になっている大型スクリーンにはさまざまな文字やグラフィックが表示され、その手前に何列も並ぶコンソールでオーパム人がなにやら作業をしている。役場というより宇宙センターの管制室といったたたずまい。話し声がこそこそと聞こえる。
ゆいりがカウンターの前へ進むと、一人のオーパム人が対応に出てきた。
制服姿のそのオーパム人は、表情のとぼしい顔で、「ご苦労」とオーパム標準語でぶっきらぼうに言った。昆虫に似た顔で、愛想がない。オーパム人の、地球人に比べてさらに微妙な顔の造形の違いは、見慣れていてもなかなか個体識別がつきにくかった。今、ゆいりの相手をしているこのオーパム人が、前回会って応対したオーパム人と同一なのかどうか、ゆいりは自信がなかった。名札ぐらいつけてくれればいいのに、彼らはその必要を感じないらしい。
いつものように部屋のすみにいくつか置いてあるテーブルセットのひとつにつくと、担当官は切り出した。
「怪我はよくなったかね」
「はい。薬が効いたので、よくなりました」
ゆいりは、たどたどしくオーパム標準語でこたえる。オーパム語は高度にシステム化された教材によってマスターしていたが、地球人とオーパム人とでは、そもそも発声器官が異なるため、正確な発音はできなかった。だから正確に通じているのかどうか不安になることもしばしばである。
担当官はテーブルセットに組み込まれた端末を操作する。地球人が使うキーボードとは違う、なめらかな板の上に手を置くと、指を動かすことなく端末が動作した。二十インチほどの画面に浮き出る文字。
「今回の報酬額だ」
同世代の平均年収の二倍はあった。たった一度のダイブでそれだけの報酬が受け取れるのである。だが、成果がなければ大きく減額されるし、今回のように大怪我を負うこともある。治療費も自分持ちだ。それを考慮すれば、決して法外ともいえないだろう。
ゆいりがうなずくと、担当官はさらに端末を操作した。
「潜入記録機を見た。今回のダイブでは、新種の亜獣と遭遇したということだが、今後も出現するだろうと予想される。その対策として、どんなものが有効と考えられるか、実際に遭遇した者として意見を聞きたい」
エリア・オーサカ内での行動は、体内に埋め込まれたナノマシンによってそのすべての情報がオーパム側の手にわたった。エリア・オーサカへ入れないオーパムは、そのデータを分析して今後の計画に役立てていた。同時に、高額の報酬に見合うだけのはたらきをしているのかどうか、要するにサボっていないかどうかも監視られていた。ダイブしても、危険を怖れて一カ所にじっとしたまま動かないでいた――。そんなことでは報酬は払ってもらえない。不正防止にも使われた。ダイバーにとっては気がぬけない要素だった。
亜獣というのは、エリア・オーサカ内に巣くう異形生物の総称である。
ゆいりは画面に表示された映像に目を向ける。ゆいりが実際に見た映像がそこには表示されていた。どういう仕組みか、視神経か脳の視覚野からも情報を引き出せるらしい。奇妙な追体験だった。
画面には、梅田の地下街が映っていた。電気は止まっていたから、正真正銘の闇である。しかし暗視ゴーグルが周囲の様子を子細に見せてくれていた。まったく光のない場所でも見えるこのゴーグルも、オーパムの技術で作られたものだった。
画面には、堂島地下センターを北――大阪駅方面に向かっているところが写し出されていた。
前方に右へ行ける通路――JR北新地駅改札口へつづく――が見えた。そこを曲がって入る。
駅への通路にとくに変わった様子はなかった。壁面や天井にひびが走り、床になにかわからない残骸のようなゴミが落ちていることをべつにすれば。
そこから見た限り、ゆるやかな下り坂の向こうに動くものの気配はない。
さらに先へ進んだ。五十メートルほどで北新地駅の改札口が右に現れる。さらに歩むと、ディアモールへの入り口が左に開いていた。そこへ入って行こうとして足が止まる。
異形の生物の死骸があった。飛び散った足や内臓、タールをぶちまけたような体液が床を濡らしていた。無惨な殺されかただ。生きていたときはどんな姿だったのかわからないほど八つ裂きにされていた。死後、それほど時間がたったわけではなさそうだ。まだ血が乾いていない。映像だけなので、そのときその場で感じた臭いまでは再現されていないが、もし再現されていたら鼻をつままなければならなかっただろう。
死骸をよけて、進む。
広い通路の途中で立ち止まった。
ゆいりはそこでオーパム語を唱えはじめた。
すると――。
闇の中に赤い光が輝きはじめた。それは球状に拡がっていき、ゆいりを飲み込む。映像は、ゆいりの視点からのものなので、赤い光がどれくらい拡大していっているのかはわからない。
すると今度は目の前に、黒い球体が出現する。それほど大きくない、片手でつかめそうなほどの大きさだ。
鍵――。
オーパムがダイバーに破壊するよう命じたもの――。「鍵」という呼称に似合わないその物体が、いかなるものなのかは説明がない。しかし破壊の方法は教えられ、ダイバーたちはそのとおりに動作した。
鍵が振動しだした。徐々に激しく震えだし、輪郭がぼやけて、ついには大きささえよくわからなくなった。
そして――。
風船の空気が抜けていくかのように急速に縮みだした。どこまでも小さくなっていき、ついに消滅した。同時にゆいりを包んでいた赤い光の球体も消滅した。
鍵が破壊されたのだ。
そう思った次の瞬間、突然画像が乱れた。
天地が何度かひっくり返り、横倒しになって止まった。
頭を起こしたゆいりは、自分をふっとばした相手を探した。
接近してくる異形の生物が視界に捉えられた。
ゾウほどの大きさだった。狭い地下空間ではそいつの全体が把握できないほど。
とっさに電撃銃を向けたが引き金を引くより亜獣のほうが早かった。足で蹴とばされ、体がまた数メートルも宙をとんだ。一瞬だったが、まるで金属のような硬質の皮膚を感じた。
床に落ちた衝撃で手から電撃銃が離れた。
ゆいりは亜獣との距離を目で測った。
そこで画面がストップした。このあと、ゆいりはこの場から逃げることになる。勝てない、と判断したからだった。暗闇でも活動できる敵と戦うのだけでもハンデがあるというのに、ろくな武器がないでは勝負にならない。
「この亜獣は新種だ。なにかが組み合わさったものなのはたしかだが、特定はまだできない。習性も明らかでない」
担当官は事実だけを述べた。
「短い遭遇でしたので、わたしにも詳しくはわかりません。体の大きさのわりに素早いので、逃げるのが精一杯でした」
電撃銃を失ったゆいりに残された武器はひと振りの太刀――斬妖丸だけだった。それを頼りにエリア・オーサカを脱した。危ういところだった。
「そのようだね」
闘っていたら、死んでいたかもしれない。担当官のあいづちは、そんな状況だったと感じさせないほどあっさりしていた。地球人の命など、とるに足らぬかのよう。
実際そうなのだろう。しかしそれはいつものことだったから、ゆいりもとくに気にしなかった。
「だが地下街の危険度が高いのはたしかなようだ。今後、地下の鍵が多く目標になってくるだろうから、なんらかの対策は必要だ」
持ち込める武器には制限があった。重量が一定以下でなければならないのだ。いくらでも強力な武器をもっていくというわけにはいかなかった。それがエリア・オーサカの物理法則だった。
「次回から三人でのダイブとする」
突然、担当官はそう言った。
「!……」
ゆいりの目が予想外の発言に見開かれる。
同じ能力を持つダイバーを三人で任務につけることは効率的ではない。鍵をひとつ壊すのに費用も三倍かかることになるからだ。
だからこれまで単独でしかダイブしたことがなかった。
「いつも通り、ダイブ日時は追って指示する」
他に説明はなかった。いつもと同じ、簡素で事務的。
「それと、新種亜獣に接触したら命名権が与えられる。なんと呼ぶ?」
新種発見者は、亜獣の名前を付けることができた。それをオーパムは、遭遇した地球人に決めさせた。ダイバーにとって、それはちょっとしたご褒美だった。
それを知っていたゆいりは入院中に考えていた。
「では、サイクロプス、と」
ゆいりは短く告げた。ギリシャ神話に登場する一ツ目巨人族の名だ。
亜獣には、想像上のモンスターの名が冠されることが多かった。しかしピントのずれたネーミングだと誰かが別のニックネームを使い出し、結局それが多用されることもあった。「カラスヒル」なんかがいい例である。
よろしい、と担当官は言って、端末へ入力した。
今回のダイブのレポートの提出を求められて、ゆいりはセンターを後にした。
豊中の自宅は、阪急豊中駅近くにあった。
五十階建てのタワーマンション。数日ぶりに帰る我が家はその三十二階にあった。百二十平方メートルの部屋は、一人暮らしには広すぎる空間だが、ゆいりの年収ならそれもうなずけた。実際、即金で購入した。近所づきあいはないから確かではないが、このマンションに住む住人には即金で購入した人が多いときく。高級マンションを即金購入なんて、まともな人間であるはずがない。なかには人に言えないようなことをやっている人間だっているだろう。
リビングの南向きの大きな開口部はインナーバルコニーにつづき、遠く大阪平野が一望できた。
淀川の向こうのエリア・オーサカもよく見えた。立ち並ぶ梅田のビル群……。これほどはっきり見通せるのに、そこへ行くことはできない。空間が歪んでいて、淀川をこえた場所へはたどり着けないのだ。まっすぐ進んでも、必ずどこか別の場所へと出てしまう。空を飛んでも地下を掘っても同様だった。
エリア・オーサカに入るには、ダイバーになるしかない。そして、オーパムの技術によりダイバーの能力を得られるのは地球人だけだった。
夕陽が空と都市を赤く染め出した。うっとりするような眺めだ。静かな絶景を見ていると、そこが危険な地域だとは思えない。しかし夜になれば、明かりひとつないエリア・オーサカは、ぽっかりそこだけ穴があいているようで、あるいは広がる海のように、人間の営みをまったく感じさせず、やはり特殊な空間なのだと思い知らされるのだった。
ゆいりは窓際を離れ、輸入家具で統一した二十畳のリビングルームに戻った。床暖房のきいたフローリングを裸足で歩いて隅のOAデスクに着き、エビアンのペットボトルをそこへ置いた。
レポートか、とつぶやくとミネラルウォーターを一口ふくみ、パソコンを起動させた。ダイバーに支給されたパソコンは、日本製のごく普通のパソコンだ。ウインドウズのデスクトップ画面が立ち上がる。
ダイバー専用の入力フォームに接続した。
遭遇した亜獣について……とタイトルをキーボードで打ち込み、そこで思案した。
それに対抗するためにチームを組む……?
パーティを組んでモンスターを倒しにいく? まるでロールプレイングゲームだ。
しかしゲームと違って、訓練をしなければ実戦では戦えまい。担当官はそこまで指示しなかった。勝手にせよ、ということか?
まともな準備なしで兵隊の頭数だけ増やしても、それだけで倒せる相手ではない――実際に対峙したゆいりはそう思う。
入力フォームに文書を打ち込み、推敲を重ねる。簡単に片づけるつもりが、気がつくと深夜になっていた。
インスタントで軽く食事を済ませると、たまっていた家事のことを考えながら床についた。