エピローグ
あれから三ヶ月がすぎた――。
八坂ゆいりは、神田れみる――愛娘「美紅」と新たな生活を始めていた。
日本は、オーパムから行政のすべてを取り戻した――というより、オーパムが突然放り出してしまったために、すべてをせざるを得なくなったのだ。しかし引き継ぎもまったく行なわれなかったために当初は大混乱した。未だそれは収まってはいなかったが、おおよその見通しはついて、人々の生活も落ち着き始めた。
救いだったのは、政治は混乱していたが、それに比べると経済は安定していることだった。オーパムがもたらしたテクノロジーを日本は上手に使いこなしていた。経済さえ安定していれば人々はさほど不安がらない。
ゆいりは、エリア・オーサカの消滅とともに職を突然失ったわけだが、ダイバーで稼いだ金は資産といえるほど巨額だったので、当面困窮することはなく、豊中の高層マンションでこれまでどおりそこそこ豊かに暮らすことができそうだった。
そのエリア・オーサカは、物理的な境界は消滅したが、決して元に戻ったわけではなく、荒廃した町並みや亜獣はそのままで、それが大阪の復興を遅らせていた。なかでも亜獣の駆逐は自衛隊を投入しての大がかりなものとなり、かなりの犠牲者を出した。
そんなわけで、大阪市内は今もまだ各所で立ち入りを制限されていた。
あれから何度か、ゆいりはかつてのエリア・オーサカにふらりと入ってみた。もちろん、ダイバーだった頃のような身体能力は失われていたから、超人的な跳躍は不可能になっていた。エリア・オーサカという特殊なフィールド内だけで機能するナノマシンも、定期的な補給を受けられなくなって、老廃物とともに体外へ排出されてしまったのだろう。
梅田、中之島、難波、新世界――ぶらぶらと散策して、大阪が以前の賑わいを取り戻すのは、まだ先のことになりそうだと実感した。
それはともかく──。
美紅が、ゆいりの思った以上に成長していた理由は、細村によれば、おそらくオーパムに育てられたせいらしかった。五歳だった幼児が、五年後に十四、五歳に見えるほどに成長していたのは、与えられた食事が原因だというのだ。オーパムが、美紅を利用するために成長を促進させるべくしてそのような食事を与えたと考えられる、と。
それが事実かどうかは、もはや確かめる術はない。
ゆいりにとって、その理由はどうでもよく、今はただ、失った二人の時間を取り戻すべく全力で美紅を愛するだけだった。
心配していた学力については、高校並みまで教育されており、これもオーパムのなせる技といえば大げさだろうか。それよりむしろ学校という集団生活への適応が心配された。だが、こればかりは慣れるしかないだろう。
いろいろと教えてくれた当の細村だが、その直後から行方不明だ。オーパムからの解放という宿願がかなった今、復興に尽力をつくしているのだろうと想像できたが、どこでどんな活動をしているのかまったく知れない。まっとうに生きているなら、きっといつかなにかのメディアに登場するだろう。
紀崎豪と縦井香穂の二人の異世界人は、エリア・オーサカの消滅によって、異世界へ戻る手段を失った。ほかの方法が皆無かといえば、絶対にないとはいいきれないが、当面は無理そうである。
しかし、彼らはもはや元の世界にこだわってはいなかった。ここでの生活に適応しようとした。戸籍もないが、二人で乗り越えていくと、力強く宣言した。となれば、もう他人が口をはさむことはあるまい。ある意味うらやましいカップルだろう。エリア・オーサカで亜獣との戦いを経験したあとでは、たいていのことはなんでもない。たぶん、立派に暮らしていけるだろう。
ゆいりも、エリア・オーサカでのことを思い返せば、どんな苦労も乗り越えられそうだった。そのときの相棒だった電撃銃は、今もクローゼットの奥にしまってあった。警察もなにも言ってこないし。
玄関の錠がガチャン、と音をたてた。
「ただいまぁ」
美紅が学校から帰ってきた。まだ昼前。今日は一学期の終業式だから、早いのだ。
友だちと遊んで遅くなるのかと思っていたら、まっすぐ帰ってきた。
ゆいりは、リビングは入ってきた娘を、
「おかえり」
と出迎える。
美紅はまっすぐキッチンへ行き、冷蔵庫から二リットルペットボトルの麦茶を取り出し、つい先日買ったばかりのマグカップになみなみと注いで一気に飲み干した。
「ふー!」
と大げさに息をついた。
「ここは冷房がきいてて、ほっとするわ」
吹き出した汗をハンドタオルで拭う。
「寄り道するかと思ってたわ」
ゆいりが言うと、
「暑くって、とてもそんな気分じゃない。――なに、見てんの?」
マグカップをおき、リビングに戻ってきた。四〇インチの薄型壁掛けテレビには、ヨーロッパの観光情報が表示されていた。ゆいりはリモコンを操作し、記事を読んでは画面を切り替えていた。
「ガイド本じゃわからない、最新の情報よ」
「そっか……」
美紅はソファにすとんとすわると、テレビ画面に表示されたヨーロッパのどこかの写真に見入る。
夏休みの前半、二週間のヨーロッパ旅行を予定していた。母子二人の水入らずで。
旅行会社との打ち合わせはともかく、パスポートの取得には実はずいぶん手間取った。
というのも、美紅は戸籍上、十歳なのである。パスポートを受け取る際に、それが問題になった。係員にどう説明したものか、なかなか信じてもらえず、かなり待たされた。
それでも、夏休みにちゃんと間にあったから、ゆいりはほっとしている。
苦労したといえば、美紅を通わせる学校だった。十歳だからといって小学校へ行かせるはどうだろうかとゆいりは迷った。美紅は、背丈も学力も小学校では不釣り合いで、だが中学校へ通わせるとなると年齢的な問題があった。そこで飛び級制度のある私立中学へ試験を受けて入学することにしたのだった。美紅本人もそれで納得した。
「ママは、ヨーロッパ旅行、二回目なんでしょ」
「そうよ。パパとの新婚旅行以来」
パパ――父親はオーパム降臨とエリア・オーサカ生成時の混乱で行方不明ということにしていた。
嘘ではない。父親はエリア・オーサカに飲み込まれたわけではなく、生きてはいるが、連絡先すら知らないのだ。知っていても、美紅のことを知らせようとは思わなかった。あれから五年……すでに新しい生活が始まっているだろうし、もしかしたら家庭を築いているかもしれない。それを乱してしまうおそれがあった。
それに、経済的にもゆいりは堂々と自立していた。養育費を求めなければならないほど困ってはいなかった。
が、美紅にはわかっているのかもしれない。薄々感づいているかもしれない。それでいて、なにも訊かずゆいりに合わせてくれているのかもしれなかった。女の子は、そういうことには聡いものだから。
「でもあのときはイタリア北部と南フランスだけだったからなぁ」
思えば当時は楽しかった。また行ってみたいな、と思い、次に行くなら、デンマーク、ベルギー、オランダからドイツあたりまで回ってみたかった。
「しかも関空から往復二十時間以上も飛行機に乗ってて、しかもエコノミーよ」
「大変だったんだ。でもこんどはタチャームで、十五分だもんね」
オーパムは地球から去ったが技術は残した。地球製のタチャームが世界の空を飛び回っていた。
時差ボケ防止の薬を搭乗前に飲めば、地球の裏側への瞬時の移動も苦痛にはならなかった。そんな旅行者のために、世界の大都市は二十四時間動くようになっていた。
「そう。その分、現地にながくいられるし、疲れないしね」
ゆいりは学校の制服を着たままの美紅に、
「着替えて旅行の用意でもしたら?」
「うん、汗かいたし、シャワーでもあびるわ」
ソファから立ち上がるとテレビを指して、そのページあとで見せて、と言い残してリビングを出ていった。
その背中を見て、ゆいりは改めて「れみる」と出会った頃を思い出す。あのときは、あまりの表情の乏しさに不気味ささえ覚えた。その顔に、美紅の面影をほんのかすかでも見いだすことはなかった。
記憶を取り戻したとはいえ、ここまで明るくごく普通の少女に戻れるなんて……と感慨にふける。
オーパム保護のもとで、神田れみるとしてどんな生活を送っていたのか、美紅は話さなかったし、ゆいりも訊ねたりはしなかった。つらい記憶をわざわざ思い出させることはない。ときどき眠っているときにうなされたり精神的に不安定になることがあったから。
ゆいりは、いずれ落ち着くだろうと考えていた。時間はかかるかもしれないが、いつかは治るだろう。なにしろオーパムが残した薬がある。
ケータイがメールの受信を知らせるチャイムを鳴らした。
ゆいりは立ち上がり、部屋の隅で充電器のクレードルに差し込んであるケータイを抜いてメールを確かめる。
紀崎からだった。
「こんにちは。
今日、俺たち、やっと国籍が取得できました。
これで、晴れてこの世界の住人となり根をおろすことになりました。窮屈なホテル暮らしからも解放されそうです。
新居が決まったら、またメールします。そのときはお祝いをするので、ぜひ来てください」
紀崎たちも頑張っているようだ。筋骨隆々の体と同じように逞しく生きている。新居に移り住むのもそう遠くないだろう。
「おめでとう」
ゆいりはつぶやき、メールの返事を打ちだした。
強い日差しを避けるカーテンに、一瞬影がさした。上空を飛ぶタチャームの影だ。
夏を迎えた空は高く、どこまでも晴れていた。平和なこの空の下には、たぶん、たくさん希望が転がっているだろう。
【完】
○参考図書
妖精辞典(編著者:キャサリン・ブルッグズ 冨山房)
世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本(監修:東ゆみこ 編著:造事務所 PHP文庫)
「エリア・オーサカ」の最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この作品は、大阪の街を好き勝手に描きたいとの発想からスタートしました。
とくによく行く梅田の地下街なんていうのは、ダンジョンとして描いたら面白いだろうな、なんて思ったりします。
次に、なにかの目的のため、隔離されて入れない特定の場所に潜入していく、というのは、ストルガツキーの小説でタルコフスキー監督が映画化した「ストーカー」(現代のストーカーとは意味が異なる)という作品から着想を得ました。
これらを元に「エリア・オーサカ」を書き出しました。
しかし街は変化していきます。
本作は、2009年に脱稿しました。よって、現在とは光景が違っているところもあります。天王寺公園なんかは、当時とはずいぶん変わってしまいました。
今、この瞬間にも新しいビルができたり、名称が変わったり、忙しいです。
この作品が古びていくのはやむを得ないな、なんて思ったりしています。
それでもお楽しみいただけたなら、作者としてとてもうれしいです。
ついでながら、他の小説を読んでいただけたらな、もっとうれしいです。
では、これにて。
2018年1月