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第9章『堂島』

 阪神百貨店を過ぎ、大きい通路にまぎれて見過ごしてしまいそうな細い通路をさらに西へと進む。

 いつ作動したのかわからないスプリンクラーのまき散らした水が、乾ききらずに床のタイルを濡らしていた。

 五十メートルほどで少し広い場所に出た。

 右――北側はJR大阪駅の西口(桜橋口)へ行ける通路がある。正面にはハービス大阪へつながる幅の広い通路がのび、六百メートル先のパシフィックマークス西梅田へゆるやかなカーブを描きながらつづいている。

 四角い柱で見通しが悪いが、左前方に地下鉄西梅田駅の出口があった。

 周囲に亜獣はいない。

「次の鍵は西梅田駅の構内だ。また亜獣が来ないうちに破壊しよう」

「細村さん……」

 香穂は、さっき遭遇したダイバーが気になっていた。

「なんだ?」

「あの人たち、あのままでいいの?」

 細村は息をつき、

「そのことか。あいつらはたぶん、囮だ。当人たちは知らないかもしれないが、オーパムはそのつもりで彼らを送り込んでいる。なぜわかるかって? 梅田地下はこれまで鍵の破壊が一番遅れていたところなんだ。地下という視界のきかない場所である上に、亜獣の密度が高く、送り込むダイバーがことごとく失敗していた。それがどうだ、今日はここまで強力な亜獣に出くわしていない。おそらく彼らが引き受けてくれているんだ。ということなら、われわれが鍵の破壊に専念してもいいってことさ」

「……」

 香穂は二の句がつげなかった。細村の説明は頭では理解できた。しかしあまりに非情だ。

 いや、そうではなく、本当のところ香穂は人情として加勢したいだけで、立ち去ろうとする香穂と細村を呼び止めた声の主を確かめたかったのだ。

 暗視ゴーグルのため顔はよくわからなかったが、もしかしてあれは――。

「では、行くぞ」

 細村はそれ以上説明する気はなく、西梅田駅へと前進する。出口専用とされた改札があり、改札機のドアはすべて外側が閉じていた。それをひらりととび越えて構内に突入した。

 香穂は、一人でも戻って確かめるべきか、と一瞬迷ったが、思い直して細村を追った。三人もいたのだ。よもや亜獣に殺られることはないだろうと、強引に納得した。

 改札階から階段でホームに降りた。島状ホームの片方に電車が入っていた。終点なので、いつもどちらかの線に電車が入っているのだ。電車のドアはすべて開いている。

 細村は周囲を見回し、鍵を捜したが見つからず、香穂と連れだって奥へと進んだ。

 何カ所もある改札階へとつながる階段を横目で見ながら通り過ぎ、ホームの端まで来てしまった。

「おかしい。ここにあるはずなのに」

 オーパムの情報はいつも確かだった。おおよその位置しか提供されなかったが、それでもこれまで一度として鍵を発見できなかったことはなかった。

「もう一度捜そう」

 回れ右し、ホームを戻る。電車の中も丁寧に見て回った。網棚の上、座席の陰、運転席――見つからない。

 香穂も注意深く捜した。

 だが、それらしいものはない。

 ホームではなく改札階にあるのでは、と細村は階段を昇っていこうとしたとき、

 ――もしや。

 香穂は、細村といっしょに登りかけた階段から身を翻して駆け降りると、電車のいない線路へ飛び降りた。

 レールのすぐ横には電力供給用の線が走っていたが、停電している今は感電の心配はない。

 香穂は下を見ながら線路を歩く。ホームからでは死角になっているところに鍵があるのでは、と思ったのだ。

 果たして、それは的中した。

「あった! これだわ」

 空中に浮かぶかすかな靄のような、暗視ゴーグルでは見つけにくい印――それが、鍵だった。

「鍵があったわ!」

 階上の細村に聞こえるよう大声で叫んだ。静かな空間に、声が幾度も反響した。

「そうか、わかった。すぐに行くから、鍵の破壊を初めてくれ」

 細村からの返事も大声で。

 鍵を破壊している間は無防備だ。そのときに亜獣に襲われ命を落としてしまうダイバーも多かった。香穂は周囲を注意深く見回し、亜獣のいないことを確かめた。暗いトンネルが南方向に口をあけ、そこから亜獣が飛び出してきそうな錯覚を覚えた。

 鍵の破壊は、ダイバー体内のナノマシンが機能することで実行される。香穂は今回が初めてだったが、やり方はレクチャーを受けていた。ぶっつけ本番で上手くできるかどうか不安はあったが、気合いを入れるように大きくうなずくと、その場にしゃがみこんだ。

 香穂は精神を集中し、呪文のようなオーパム語を口ずさむ。それが発動キーだった。どういう仕組みか香穂にはわからないが、それでナノマシンの特定の機能が発動するのだ。

 靄のある空中に赤く柔らかな光が現れ、それが徐々に広がっていき、十数秒後、ついには香穂自身も光の中に取り込まれる。

 黒い物体が浮かんでいた。拳ほどの大きさだ。

 鍵は、香穂の目には黒い物体のように映っているが、それはナノマシンによってわかりやすく視覚化されているのを脳が感じているだけで、実際は目で見えるものではなかった。

 黒い物体は振動しだす。振動は見る見るうちに激しくなり、輪郭がぼやける。やがて限界まで達したのか、急速に縮まり、消失した。

 あっけなく鍵は破壊された――跡形もなく。

 香穂を包んで周囲に満ちていた赤い光も、それと同時に消え去った。

 香穂は緊張をといて線路にへたりこんだ。

 ホームからの細村の視線に気づいた。

「よくやったぞ」

 見上げると、右の拳を突きだし、親指を立てている。

 香穂は微笑み、細村に同じ仕草で返した。

 ドスン! という地響きがしたのはそのときだった。



 阪神百貨店の前で大立ち回りの末にフェンリルを撃退したゆいりたち三人は、立ち去った二人のダイバーを追って西へと移動していた。

 迷いそうな地下街を、れみるを先頭に足早に。

 途中、亜獣にも気をつけながら進むと、通路に生々しい亜獣の死骸が散乱して、明らかについさっきだれかがここで亜獣を惨殺したことが、まるで道しるべのようにわかった。

 少し広い場所に出た。

 通路が枝別れしていた。

「あいつら、どっちへ行ったんだ?」

 紀崎は立ち止まった。

「あっち。西梅田駅構内」

 れみるは歩を進める。

 周囲を見回し、亜獣がいないとわかった紀崎はわき目もふらず進んだ。

 短い階段を降りると、地下鉄四ツ橋線終点の西梅田駅の出口。自動改札機が並ぶ。ここは出口専用とされていたが、もちろん今はそんなことは関係なく、紀崎はひらりと飛び越える。下への階段が口を開けていて、降りるとホームだ。終点だから電車が入っているだろう。

「待って」

 れみるが呼び止めた。

 階段を駆け降りようと一歩ステップに足を乗せていた紀崎は、立ち止まって振り向く。

 改札機を挟んで、二人は向き合う。一瞬、沈黙が通り過ぎた。

 れみるが沈黙を破った。

「サイクロプスが来る」

 紀崎は数歩戻った。

「おれたちは、囮だからか」

 と、口元に笑みが浮かんだ。――だから、亜獣を退治しなくてはならない。

「よかろう。どっちだ?」

 れみるは南――堂島センター方面を指さす。

 紀崎は振り向き、ゆいりはれみると並んでその方向を見るが、遮蔽物が多くて、サイクロプスどころか動くものがなにも視界に入ってこない。

 改札を出て、

「行くか」

 と、紀崎は、いつでも発砲できるようライフルをかまえる。

 ゆいりとれみるもそれにならってそれぞれの銃をかまえ、三人で駅の横の通路を南へと前進していった。

 しばらく進むと、大きく破壊された箇所に出た。天井は崩落し、右側の駅構内との壁は戦車でも通ったかと思うぐらい激しくつぶされてしまっていた。

「やばい感じだぜ」

 紀崎のつぶやきは、全員の気持ちを代弁していた。

 ここにサイクロプスがいたのだ。そして、おそらく今もすぐ近くに。

 南改札口の手前までやってきた。

 ゆいりは思い出す。ディアモール大阪の、北新地駅近くで出会ったサイクロプスのことを。こことそう離れていない。

 ほんの少しの時間まみえ、這這の体で逃げ帰ったが、たぶんそのとき戦った同じ個体だろう。ここら近辺を根城にしているようだ……。

 今回は三人、しかも鍵を破壊した直後に不意をつかれた前回と違って十分な準備をしてきている。いくら強力な亜獣とはいえ、まさか歯が立たないことはないだろう。

 とはいえ、サイクロプスの生態は未知だ。ただの動きの速い大型亜獣だと思っていたら痛い目に合わないともいいきれない。

 ――やつはどんなだった?

 ゆいりは必死に思い出そうとしたが、ほとんど記憶に残っていなかった。

 目の前を、なにか大きな影が横切った。左方向――第一ビルの地下通用口から飛び出してきて、激しい音を立てて対面の壁に激突したそれは亜獣だった。

 ――来た!

 全員が戦闘体勢に入った。銃を向け、狙う。

 が、その亜獣は動かなかった。よく見ると皮膚のあちこちが裂け体液にまみれていた。死んでいるのかどうか、床にのびたままだ。

 心臓が止まるかというほど驚いた一瞬がすぎると、次になにが起きるかと再び身構えた。

 亜獣が自分の意思で飛び出してきたのでないのは明らかだ。ということは、何者かが放り投げた……。それは人間業ではなく、もっと大きな亜獣の仕業としか考えられなかった。――サイクロプス!

 やつはこの近辺では最強の亜獣なのだろう。亜獣同士の抗争に常に勝利し、頂点に立っているのだ。もしかするとエリア・オーサカ全体でも最強かもしれない。ダンジョンの大ボスといったところか。

 全員がサイクロプスの登場を待った。きっと現れると確信できた。

 息の詰まるような数秒がすぎて――。

 ついに、そいつは現れた。ゆっくりとした動きで。



 ゆいりは思った。

 こいつだ。たしかにサイクロプスだ。

 太い四本の脚とその上に乗る巨体はゾウかサイを思わせたが、もっと攻撃的外観を有していた。

 脚とはべつに二本の手があった。カニのようなハサミ状で、あれではさまれたら自力での脱出は不可能だろう。

 ワニのような巨大な口には鋭い歯が並び、上下の顎にそれぞれ二本ずつの牙が生えていた。

 目とおぼしき器官はない。暗闇に生きるなら目は必要ない。その代わりに周囲の環境を探るべつの器官を有しているのだろうが、目がないというのはそれだけで醜悪だった。どこを見ているかわからない。

 三メートルもない天井につかえそうな巨体は、前方の視界のほとんどを塞いだ。

 いっせいに銃撃を開始した。どこが急所なのかわからないが、とにかく撃ちまくった。距離はおよそ十五メートル。至近距離だ。間違ってもはずさない。

 ゆいりの電撃銃、紀崎の電磁ライフル、れみるの音波銃が連射される。

 いきなりの集中攻撃に、サイクロプスがひるんだ。このまま攻撃の手を休めなければ倒せそうだった。

 が、それは甘い見通しだった。

 紀崎が空になった弾倉を銃身から取り外して放り投げると、新しい弾倉をセットした。取り替え作業はわずかな時間だったが、それでも攻撃力は一時的にダウンした。

 サイクロプスは小賢しくもそれを見逃さなかった。一歩前へ踏み出した。

「いけない!」

 ゆいりは叫んだ。一度戦った相手だけに、その動きの速さはわかっていた――つもりだった。

 しかしわずかに遅かった。ゆいりは後方へ跳躍して、突き出されたサイクロプスのハサミをかわしたが、叫ぶのが遅かったせいで、れみると紀崎の反応が遅れた。それに十五メートルというのはサイクロプス相手では近すぎた。

 れみるはすんでのところで接触をまぬがれたが、紀崎は大きな体が災いした。足をはらわれて転倒した。

 しかし銃は放さなかった。転がって、銃口を上に向ける。ちょうどサイクロプスは紀崎を踏みつぶそうとしていた。

 ライフルを連射した。弾倉の装着が間に合っていた。サイクロプスの足の裏に向けて、全弾をたたきこむ。

 サイクロプスが痛みに後退した。鎧のような分厚い皮膚に小さな穴があいて、体液が滴り落ちた。

 その隙に紀崎は立ち上がるが、足に激痛が走った。転倒した際に痛めたようだ。よろめいて、ライフルを杖のように立てて体を支えた。

 紀崎が危ない。動きが鈍くなれば、当然、サイクロプスに狙われる。

 れみるはサイクロプスの動きを封じようとホール発生銃を撃った。

 するとサイクロプスは狙いをゆいりとれみるに変更した。紀崎が攻撃力を失ったとみて、先にうるさいれみるとゆいりを静かにさせようという腹積りなのか。意外と知恵がある。

 二人は後退する。低い天井に注意しながら後方へ五メートルほど跳躍して距離をあけた。

 が、サイクロプスはゆいりの予想より素早かった。

 一瞬で迫ってきた。立ちふさがる壁のようだ。腕が突き出され、先端のハサミがれみるの胴をつかんだ。

「れみるちゃん!」

 持ち上げられたれみるは、ハサミの強い圧力のため、苦痛に顔を歪めた。反撃しようにも音波銃もホール発生銃も取り落としていた。

 ゆいりは抜刀した。サイクロプスのハサミを切断する気だった。

 サイクロプスの腕はもう一本あり、それのハサミに捕まる危険を顧みず、ゆいりは跳躍すると、れみるをつかむ巨大なハサミに刀身をたたきつけた。

 ただの刀ではない、オーパムの技術が取り入れられた斬妖丸だ。

 が――。

 サイクロプスの堅い皮膚は、斬妖丸さえ寄せ付けなかった。

 刀身が、真ん中で曲がってしまったのである。

 ゆいりは瞠目した。

 愕然として、曲がった刀を投げ棄てた。

 電撃銃を向けるが、れみるに当たる危険を避けるため、ハサミから遠い場所を撃たねばならなかった。それではれみるをすぐには救えない。

 紀崎もライフルを撃てる状態ではなかった。

 打つ手がなかった。

 もはやれみるが圧死するのを黙って見ているしかないのか。

 思えばこのサイクロプスを倒すために、ここまで訓練を重ねてきたのだ。それなのに結果はこのザマ。まだまだ戦闘力が足りなかったということか。

 ゆいりは歯噛みした。情けなかった。悔しかった。無力感にひたすら苛まれた。

 ところが――。

 サイクロプスが苦痛に身をよじって後退していく。

 ハサミに小さな穴があき、そこから体液が流れだしたかと思えば、さらに煙がたち昇りだした。

 ――なに?

 さっきの二人のダイバーだった。駅のホームに降りる階段の手前で、手にした銃をサイクロプスに向けていた。見事な同時一点集中射撃だ。サイクロプスの体から煙が発生したところを見ると、一方の銃は高熱発生系の銃なのだろう。

 サイクロプスのハサミが開いた。れみるがすべり落ちた。床へ落ちたれみるをゆいりは素早く回収、抱きかかえてサイクロプスの足元より離脱する。

 れみるは気絶していた。

 ゆいりは、れみるの落としたホール発生銃をとり、サイクロプスへ発射した。動きを封じなければどうにもならない。足に向けて連続発射。

 マイクロホールがいくつも命中して、怒り狂ったように腕を振り回すサイクロプスは、ついに移動できなくなった。

 しかしのんびりしている時間はない。マイクロホールの効力は数秒で消滅する。その間にサイクロプスの息の根を止めてしまわなければならない。

 ゆいりは音波銃を撃った。

 外側からの攻撃では、装甲のような皮膚に死に至るほどのダメージを与えるのは困難だ。

 内臓を破壊するしかない、と判断した。

 最大出力で音波銃を撃ち続けた。

 もだえ苦しむサイクロプス。しかしむろん手加減はしない。

 やがてあちこちの穴から体液が噴出しだした。

 が、同時に音波銃のバッテリーも消耗しだした。出力をしめすインジケータランプの点灯数が減っていく。

 ――間に合うか? たのむ、ってくれ。

 ついにバッテリーが切れた。

 だがサイクロプスはまだ事切れていなかった。

 二人のダイバーも銃撃をつづけてくれていたが、致命傷を与えるには至っていない。

「ふせろ!」

 そのとき、紀崎の叫ぶ声がした。

「床に伏せて、頭をかばえ!」

 ゆいりは言うとおりにした。自分の頭と、気絶しているれみるの頭をかばった。なにが起きるかわかった。

 次の瞬間、耳のそばで鐘をつかれたようなすさまじい音がした。音というより衝撃だ。

 紀崎の放った手榴弾が爆発したのだ。地下の空間で、通常よりも音が大きく、その衝撃は何度も壁で跳ね返った。

 十秒ほどのち――。

 ――もう顔をあげてもいいだろうか。

 そう思って、ゆいりはゆっくりと起きあがる。

 靄のように視界がけぶっている。風もないからそれがなかなか晴れない。爆煙を透して巨大な影かうっすらと浮かび上がった。銅像のようにぴくりとも動かないそれは、サイクロプスだ。

 ――死んでいるのか?

 じっと様子を見守った。サイクロプスが少しでも動いたなら、すぐさま対応できるようにしながら。

 視界が徐々に明瞭になりだした。

「あっ」

 サイクロプスの胴体の四分の一ほどが消失していた。絶命しているのは明らかだった。

 ゆいりは傍らのれみるを見る。

「れみるちゃん」

 様子と見ると、れみるは目を覚ましていた。きっとさっきの爆発で正気を取り戻したのだろう。

「わたし……」

「大丈夫? どこも痛くない?」

 手をついて起きあがろうとして、「うっ」と顔をしかめる。

 サイクロプスのハサミでどこか骨折しているのかと心配した。体を支えて立ち上がらせた。

 手にぬめった感覚があって、見ると、血だった。

「怪我してるのね」

 ジャンバーの左の袖が裂けていた。今の爆発で、破片が刺さったのかもしれない。怪我の具合を確かめるために、れみるのデニムジャンバーを脱がした。

 ナイフのように尖った金属片が左の二の腕に突き刺さっていた。痛々しい。爆発によって飛び散った破片だろう。

「痛いかもしれないけど、我慢して」

 ゆいりは慎重に破片をひっこぬいた。

「うくっ」

 れみるが顔をしかめた。血が吹き出して、一生残りそうな深い傷口が現れた。

 ゆいりはポーチから痛み止めスプレーを取り出し吹き付けると、止血フィルムを張り付けた。

 と、傷の近くに、十円玉ほどの大きさの痣を見つけた。打撲でできたものではなく、そこだけ色素が集まってできたものだった。

 ゆいりは雷に撃たれたような衝撃を覚えた。

 その痣はゆいりにもあり、幼い娘にもあるのを、「遺伝ね」と気にしたものだった。

 それが、れみるにもある……。

 まさか、と思った。そんなはずはない、と。第一、年齢があわない。だがありふれた特徴でもない。偶然だろうか。

 ゆいりは混乱した頭で、れみるにジャンバーを着せる。

「とりあえずこれで大丈夫よ」

 そう言って、ゆいりはれみるの顔をのぞき込む。そこに娘の面影を探して。

 暗視ゴーグルごしで、それは見えなかった。

「ありがとう」

 とれみるは言った。

「かろうじて、おれたちの勝ちだな」

 ライフルで体を支えつつ、紀崎が歩み寄ってきた。

「無事か?」

「うん、平気」

 れみるがこたえた。「手当てしてもらったから」

「でも、できれば早くエリア・オーサカを脱出して、病院へつれていってもらったほうがいいわ。そっちもでしょ?」

 ゆいりは銃を杖がわりに立つ紀崎を上から下までさっと見て、

「ひとりで歩ける?」

「歩くさ。嘗めてかかってたわけじゃなかったんだがな。しくじったぜ」

 そこへ、二人の見知らぬダイバーが近づいてきたのにゆいりは気づいた。体格からやはり男と女だとわかった。どこも怪我をした様子はなく、手榴弾の爆発には巻き込まれずにすんだようだ。

「まずは礼を言うわ。ありがとう。この子を救けてくれて」

「こんな亜獣がいたとはな」

 サイクロプスの亡骸を一瞥し、男のほうが言った。

「とにかく外へ出よう。ミッションは終了した」

「ちょいと待てよ」

 紀崎が割って入った。

「いくらオーパムの指令だったとはいえ、フェンリルと戦っているおれたちに加勢せずにスルーしといて、なんもなしかよ」

「紀崎くん、やめて。れみるちゃんを救けてくれたんだし」

「紀崎……豪さん……!」

 女のほうが声を発した。その声は、高まる感情に震えていた。

 全員が注目するなか、しばらくして紀崎が言った。

「まさか……」

 信じられず、女を凝視する。

「わたしよ、香穂よ」

 女は暗視ゴーグルを額まであげた。

「香穂か……! ほんとに!」

 紀崎は驚き、瞬間、言葉が出なかった。これまでの人生で、これほど驚いたことがあったろうか――。神はこの世にいたのだ。

「豪さん!」

 女は紀崎の胸に飛び込んだ。勢いを止められず、二人は倒れる。

「探したわ。もう会えないかと思って」

 起きあがるのも忘れて、香穂は紀崎にしがみつきながら、泣きながら胸に溜まっていた想いをぶちまけた。

「おれもさ。こんなイカレた世界から帰ろうと必死だった。でも香穂、きみはどうやってここへ……?」

「この人――細村さんが助けてくれたの。この世界でなにもわからなくて――」

 そのとき、地震がおき、香穂は口をつぐんだ。それほど大きな揺れではなく、細かい振動。崩れかけていた天井が、それでさらに崩れだした。ぱらぱらとコンクリート片が床に落ちる嫌な音がした。

「感動の再会を果たしているところ悪いが、とりあえず外へ出よう」

 と男――細村が言った。

 すぐに地下街が崩落する気配はなかったが、いつまでも真っ暗で空調も止まって息苦しい地下にいることもない。

 地上へ通じている出口を求めて堂島地下センターへ移動した。無数にある地上への出入口のうち、ふさがっていて通れないところも多かった。

 細村と香穂が紀崎に肩を貸しながらゆっくりと進み、その歩みに合わせて、ゆいりはれみるの肩を抱きながら歩む。

 地震は、おさまったと思うと、しばらくするとまた揺れだした。いずれも大きな規模ではない。しかしその度に足元が頼りなくなり、立ち止まらざるを得なくなった。

「どうなってるんだ、この地震」

 紀崎がだれにともなくつぶやいた。

 が、期待していなかったこたえを、細村が言った。

「エリア・オーサカが崩壊しかかってるんだ。この地震はその前兆だ」

「なんだと? そりゃどういうこった」

「梅田地下には最後まで残っていた鍵があったんだ。それがついに破壊された。エリア・オーサカ内のすべての鍵が破壊された結果、エリア・オーサカは消滅しようとしている」

「なんでそんなことを知っている?」

「それじゃ、大阪市内は、だれもが行ける普通の空間に戻るってことなの?」

 紀崎の台詞に、ゆいりの声がかぶった。

「そうさ。そして、オーパムは地球を去るだろう。ついに我らの念願は達成された」

 そう言って、細村はくつくつと笑った。

「それじゃ、わたしが壊した鍵が最後だったってことなの?」

 香穂が訊いた。西梅田駅で破壊した最初の鍵。

「どうもそうらしい。おれもそこまではわからなかったがな」

「ここから出られるよ」

 れみるが左の階段を指し示している。そこから日の光が差し込んでいた。堂島アバンザの地下一階へ接続している通路だ。

 ガラス扉をあけると、掘り下げた地下一階の庭だった。高いビルの間の空は曇っており、ぽつりぽつりと小さな雨粒が落ちて、床のタイルが光っていた。

 各々、暗視ゴーグルをはずした。曇り空でも闇に慣れた目にはまぶしい。

 土煙で顔も服も薄汚れていた。

 お互いしっかり見つめ合って、抱擁する紀崎と香穂。

 そして、今一度れみるの顔を観察するゆいり。娘の美紅に違いないと思い込めば、もうそうとしか見えなかった。

 確証はなかった。それにれみるは、ゆいりを母とは、まったく認識していない。

「もうエリア・オーサカの境界は消えているのか?」

 空を見上げて、紀崎は問うた。

「見ただけじゃ、それはわからん。しかしもうすぐすごいショーが始まる。見てみるか? ついてこい。大阪城だ」

「大阪城……?」

 ゆいりはつぶやいた。それは、ゆいりになにかを思い出させようとする言葉だった。

「では行こう。ジャンプできたら、まだエリア・オーサカの特殊フィールドは存在しているってことだからな」

 細村は言うと、紀崎に肩を貸したまま、跳躍した。

 軽々と壁の上まで跳び、地上へ着地した。

「まだいける。だが急げ。いつ跳べなくなるかわからんぞ」

 超人的な跳躍能力は、エリア・オーサカ内だけで発揮される。その崩壊は、能力の消滅を意味した。



 五人は、堂島から中之島を通って天満橋に至った。その途中で、何人もの人影を地上に見た。他にもダイバーが鍵を破壊しにエリア・オーサカに入っていたのだ。すべての鍵の破壊が果たされたのは、彼らの活動があったためなのだろう。

 日本経済新聞社のビルの屋上から、大阪城の天守閣がよく見える。

 左には大阪ビジネスパークのビル群が、多少壊れているもののまだ倒壊せずに残っており、西の丸庭園は緑が深く亜獣が多そうだった。

大阪城あそこで、なにが起こるというんだ?」

 紀崎がたずねた。見たところ、なにかが起きているような様子はない。

「そもそもエリア・オーサカとは、なんのために存在するか知ってるか?」

 事情通らしい講義めいた口調で、細村は言った。ここへ来るまでの間、自分がオーパムからの解放を目指している活動家であると、ゆいりたちに告げていた。

 互いに顔を見合わせ、だれも細村の問いにこたえない。エリア・オーサカがなぜ存在するのか、オーパムはなにも語っていなかった。れみるもそのことは知らなかった。

 皆の期待を受けて、細村はこたえた。

「エリア・オーサカは安全装置なんだ。大阪城へだれも、というか、オーパムが近づかないように。特殊なフィールドを形成し、オーパムの侵入を阻んだ。フィールドを消すには、エリア・オーサカ内に散らばった鍵を壊すしかないってわけだ。ずい分大げさだが、たしかに有効で、オーパムはエリア・オーサカには入れなかった。しかしさすがオーパム人。鍵を壊す方法は知っていた。で、おれたち地球人をダイバーにしたってわけだ」

「安全装置って言ったよな? なんの安全装置なんだ?」

 紀崎が尋ねた。

 それに対し、細村は短くこたえた。

「宇宙船さ」

「宇宙船?」

 と一同がオウム返しに言った。

「正確には、大阪城の下にある宇宙船だ」

「地下に宇宙船が埋まってるっていうのか?」

 細村はうなずいた。

「いかにも」

「いつの間に、そんなところに宇宙船なんかが。大阪城が建っているのに」

 ゆいりは信じられない。

「だから、大阪城が建つ前さ」

「四百年以上も前に?」

「四百年どころか、数万年も昔の話さ。大阪城が建っている上町台地は、宇宙船の上に土砂が堆積してできあがった」

「数万年? そんな昔に?」

「え? じゃ、その宇宙船ってのは、そんなにも大きいというの!」

 口々に驚きの声。

 古代の宇宙船は、原子力空母よりも大きいということになる。

「しかし、なんで宇宙船はオーパムを拒絶するんだ?」

「宇宙船を持ち主は、オーパムじゃないからさ。いわば盗難を防いでいたのさ。しかしオーパムはどうしてもその宇宙船が欲しかった」

 オーパムの技術は地球のそれのはるか先を進んでいた。タチャームもそのひとつだ。しかしタチャームにも弱点があった。大きくは作れないのだ。いくら高速で飛行できても、大きさはジャンボジェットの半分ほどが限界だった。オーパムがその宇宙船を欲しがるのも当然だ。

「それにしたって、数万年前の宇宙船をオーパムが欲しがるというのか。というか、そんな昔の宇宙船が動くなんて」

 紀崎はそのスケールに絶句した。いったいどんな宇宙船なんだ?

 雲が切れて、陽が顔をのぞかせた。見上げると、いつの間にかもう雨の降りそうな天気ではなくなっていた。雲の色は鉛色から純白へとかわって、初夏の空へと変わりつつあった。

「エリア・オーサカが消えたようだな」

 細村がそう言ったとき、上空を影が通過した。

 タチャームだった。しかも一機だけではなかった。次々とやって来る。ものすごい数だ。それこそ、日本中のタチャームが集結したかのよう。

 細村の言ったとおり、エリア・オーサカは消滅した。ここにタチャーム――オーパムが来ているのだから、これほど確かなことはない。

 大阪城を取り囲むように、タチャームは空中停止する。

 ゆいりは思い出した。初めてタチャームを目撃したあの日――エリア・オーサカが形成された日。人生が大きく変わった、その始まりの光景を。マンションのベランダで、娘といっしょに目撃したのとそっくりな光景が、今目の前にあった。

 あの瞬間からなにもかもが狂ってしまった。それ以前に戻ることができたなら――何度そう思ったことか。

 目の前の光景を見つめ、ゆいりはれみるの細い肩を抱く手に力が入った。

「ママ……」

 か細い声に視線を向けると、れみるが首を曲げてゆいりをじっと見ている。

「ママ……」

 れみるの唇が、そう動いた。

 ゆいりの目は大きく見開かれた。そして、猛烈に涙が溢れた。

「美紅っ」

 ゆいりは、れみるを抱きしめた。涙の袋が破れたかように、とめどもなく流れつづけた。

「あなたが、美紅だったのね……」

 れみるは思い出したのだ。大阪城に集まるタチャームは、強烈な光景だった。それが封じ込められていた記憶を呼び起こした──。



 地響きが轟いて、ビルの屋上も大きく揺れた。

「見ろ!」

 細村が叫んで、天守閣を指さす。

 天守閣の下の地面が膨らみ始めている。

 太陽の広場からNHK大阪放送局までの地面がゆっくりと、しかし目に見える速度で上昇していく。その範囲にある天守閣、郭、石垣、その他の建築物も、地面とともに上昇していくが、その途中で、無数に走る地割れに飲み込まれて崩壊していった。

 映画を思わせるような大スペクタクルだ。

 上昇していくにつれて滝のように落ちていく土砂。もはやその中には天守閣の残骸すら見えない。

 そして土砂が落ちていくと、その下に隠れていた巨大な人工物がついに姿を現わした。

 乗り物、というより建築物のようだった。サッカースタジアムが空中に浮かんでいるかのよう。上昇するスピードには変化なく、やがてツイン21より高くなった。

 すると――。

 それを見守るように空中にたたずんでいたタチャームが、まるで引き寄せられるように巨大宇宙船へと向かっていった。そしてぶつかった――と思った次の瞬間、宇宙船の壁面を通り抜けて、内部へと入っていった。

 タチャームは、次々と、掃除機で吸い込まれるように巨大宇宙船に飲み込まれていった。

 すべてのタチャームが巨大宇宙船の中へ消えていくのに一分もかからなかった。おそらくタチャームは何百何千といたはずだ。それがあっという間に吸収されてしまったのである。

 巨大宇宙船の上昇速度が上がりだした。突然、ロケットのような急上昇を始めたのだ。

 たちまち空の彼方へと昇っていき、雲を突き抜け、気がつくともはや見えなくなっていた。

 なにもいなくなり、そうなると、さっきまでの出来事は幻覚ではなかったのかと疑いたくなるほど非現実的に思えた。しかし宇宙船が抜けた広大な跡にはクレーターのような窪みが残っていて、それが現実だと認めざるをえない証拠だった。

 地球上からオーパムが一人残らず地球から姿を消したと知れ渡ったのは、それからすぐのことだった――。



   ***


 今日も来ない。

 私は、ヒケが現れるのではないかと、ときどきドアに視線を送っていたのだが。

 しかしあれから一度もヒケは来ない。たぶんもう来ることはないだろう。そう思えた。

 エリア・オーサカが消滅したのがつい一週間前。同時にオーパムのタチャームが地球上から一機残らず消え去り、オーパム人もすべていなくなった。なんの予告もなかった。いったいオーパムになにが起きたというのだろう。

 ともかく地球からオーパムは去ったのだ。ひょっこりヒケがやって来る、とは考えられなかった。

「あのオーパム人、やっぱりあれから来まへんか」

 馴染みの客がそう言う。ヒケがいつもすわっていたカウンター席の隣のスツールに腰掛けて。

「えらい突然でしたなぁ。来たときも突然やったけど、帰るときもねぇ……」

 と、ホットコーヒーにミルクを垂らし、スプーンでかき混ぜた。コーヒーが香り立つ。シュガースティックを入れないのは、カロリーを気にしてのことかと、メタボな腹を見てそう想像する。

 時刻は午後三時。外回りの営業の途中で、いつも休憩に立ち寄ってくれる常連客だ。ヒケとの会話に混じったこともあった。

「ま、そんなもんかもしれませんて。なんせ宇宙人ですし」

 私はヒケの言ったことを思い返す。オーパムは宇宙を飛び回り、あっちの星こっちの星へと立ち寄っている、と。もう地球での目的が達成されたのだ。今ごろは次の星へ訪れていることだろう。なんの目的があるのか、わからないが。

「オーパムは、もう来えへんのかなぁ」

 と常連客は言を継ぐ。

「たぶん、もう来ませんでしょう」

 オーパムは二度とやってこないだろう。ヒケとの話から、そう予想できた。

 だからもうヒケには会えない――いや、と私は心の中で否定する。ヒケが言っていたように、いつか私がオーパムの母星に行くことがあるかもしれない。

 オーパムが残した数々のテクノロジーを使いこなし発展させるのに最初は苦労するだろうが、人間はきっとやってのけるに違いない。

 一般人がオーパムのように宇宙をかけめぐる日は、案外近いもしれない。

「でも彼らとは、また会えると思うんですよ」

 だから私はそう言った。それが叶えられることを期待して。

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