プロローグ
雨が降り出していた。
恨めしげに天を仰ぎ、厚くたれこめた鉛色の雲を睨み返す。
急がなければ――。
八坂ゆいりは、負傷した脚に力をこめ、高く跳躍して脱出口をめざす。
梅田の高層ビル群の間を矢のような速さで移動する。脚を負傷していても、十メートルぐらいのジャンプが可能だった。ここ――エリア・オーサカでは、そんな超人的な能力を発揮できた。
だが、だからといって、ここが素晴らしい楽園かといえば、とんでもない。事実、ここにはだれひとり住んでいない。それどころか、周囲三キロ内にいる人間は、彼女ただひとりだった。
時間がなかった。制限時間が迫ってきていた。エリア・オーサカは外界から閉ざされた空間だ。脱出するには、指定されたゲートを通らないといけない。しかもそのゲートは、事前に知らされた場所に一定の時間だけしか開いていなかった。そのタイミングを逃したら、ここから出ることはできず、異形の生物の跋扈する町で、絶望的な戦いの末に死ぬことになる。
小雨とはいえ、雨は鬱陶しかった。雨を弾くブルゾンを着ていたのがまだ救いだった。
地下街から、大阪駅前第三ビルの出入り口を抜けて地上へ出てきたゆいりは、雨に濡れるのもかまわず、痛む足を引きずりながら、御堂筋を大阪駅方面へ向かっていた。そこに、エリア・オーサカからの脱出口――ゲートがあるはずだった。
春が近いとはいえ、この季節、雨は冷たく、落ちていた体力をさらに奪っていく。一刻も早くここから脱出しなければならない。
御堂筋を北上する。
背の高いビルの挟まれた車道には、放置されたクルマが延々とならび、走行する車は一台もない。
阪急百貨店の東側から、船の舳先のようなナビオ阪急、赤い観覧車を乗せたHEPナビオの脇を通過したとき、いくつもの黒い物体がゆいりに向かって飛びかかってきた。平らな円盤のような形状でカラスほどの大きさ。表面は雨に濡れて黒光りし、異星の生命体を連想させた。
「来たか……」
つぶやき、予想どおりの展開に、唇をゆがめて小さく苦笑すると、刀をぬいた。
いまゆいりが所持している武器は、これだけだった。刃渡り二尺の刀。しかしただの刀ではない。異星人の技術によって作られた特製の刀だ。日本刀より切れ味鋭く、硬いものを斬っても刃こぼれはしない。「斬妖丸」という名前を、ゆいりはつけていた。室町時代、物の怪を退治したとされる伝説の刀の名だった。
雨粒に光る斬妖丸の柄を両手でしっかりと握った。
「えいっ」
飛びかかってきたその黒い生き物を、十分に引きつけてから薙ぎ払うと、見事に両断されて地面に落下した。それは、ゆいりの脚の傷口から流れ出る血の匂いをかぎつけたカラスヒルだった。斬られてなおうごめく強い生命力に、吐き気さえもよおした。
つぎつぎと斬りすて、血路を開いた。
大きく跳ね、JRの高架を越え、さらに阪急イングスと阪急梅田駅の間の道路を行く。路上の錆びついた何台ものクルマの影に、またべつの異形の生物の姿を見かけたが、ゆいりは無視して通りすぎる。
異形の生物は、風のように駆け抜けるゆいりに注意を向ける様子を見せたが、それらはカラスヒルと違って元来素早くは動けず追いかけられない。
着地のたびに足が痛んだ。応急処置で止血だけはできたが、鎮痛剤を処方している暇がなかった。
痛みに顔をしかめつつ、先を急いだ。惰性で前へ進んでいた。一度立ち止まってしまったら、もう二度と動けないだろうと思った。それだけ体力が落ちていた。
雨と寒さがさらに気力を萎えさせた。それでも跳躍を重ね、茶屋町まできた。
前方――茶屋町アプローズの一階、梅田芸術劇場の壁面に巨大な穴があいているのが見えた。闇よりも黒い、不気味な穴――ゲート、脱出口だ。
しかし、その前に、一匹の生物がいた。ヒツジほどの大きさの、緑色の縞模様のある生物。何本も生えている太い足を動かし、ゆいりのほうに向かってくる。その背後に口を開けた、果てしなく黒い存在から逃れようとしているのだ。
ゆいりは唇を噛む。
立ち止まりたくはなかったが、いったん立ち止まる。敷き詰められた人工大理石のタイルが雨に濡れて光って、ゆいりの姿を反射する。
斬妖丸を一振りして雨粒をとばすと、大きく息を吐いた。残された気力を振り絞って突撃した。
戦うつもりはない。今のゆいりにあの生物を倒す力はない。脇をすり抜けて、ゲートへ飛び込む。もし行く手をふさがれたら、そのときは一太刀あびせて、道を開くのみ。
異形の獣が、接近するゆいりのほうを向く。頭部に大きな角が二本。どこかに目があるのだろうが、どこにあるかわからない。古今東西の動物図鑑を開いても、見ることはない姿だ。
ゆいりは、その形状をいちいち気にしない。ここ、エリア・オーサカ内では、それぐらいでは驚くに値しないのだ。
獣の口が威嚇するように大きく開いた。
ゆいりは、衝突する五メートルほど手前で跳躍した。
獣を飛び越えた先にゲートが口を開けている。穴のようには見えない、漆黒の出口が、明らかに通常の空間とは違うものとして存在していた。そこへ飛び込んだ。
つぎの瞬間、ゆいりの体はべつの空間にあった。
大きな河がゆっくりと流れていた。その川岸の、伸び放題の草むらのなかのコンクリートで舗装された場所に、彼女は倒れていた。
意識ははっきりしていたが、起きあがる体力が残っていなかった。冷たい雨はここでも降っており、低下した体力をさらに奪ってゆく。
ゆいりは待った。回収されるのを――。
このまま死んでしまうことはないだろうと思ったが、待っている時間は異様に長く感じられた。意識がときどき途切れた。
生える草の向こうに、梅田高層ビル群が雨にけぶって目に映った。さっきまでいた場所だが、ゲートをくぐってしか行くことのできない場所――エリア・オーサカ。
寒さが感じられなくなってきたとき、迎えが現れた。上空を、雨を切りさく高速で、しかし静かに。ゆっくりと旋回したのち、すぐそばに着地したのはマイクロバスほどの大きさの飛行機械だった。
――やっと来たか。
うつ伏せの状態でも、その気配は十分わかった。オーパム。異星の知的生命……。
ドアが開き、二つの人影が彼女を無言で飛行機械へと運び込んだ。
音もなく上昇する飛行機械は、今は使われていない鉄橋の、さびかけたシルエットの向こうへと消えていった……。