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海に生まれる  作者: 野足夏南
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朝、部屋のドアをノックする音で目を覚ました。立っていたのは倉橋さんだった。昨日と同じように仏頂面だったが、昨日はお客さんに失礼なことを、と頭を下げた。僕は何と言っていいか分からず、首を振った。倉橋さんは続けて、朝食できましたと言った。そうして階下に降りていくと、食卓には生卵とご飯と焼き鮭と味噌汁が並んでいた。あずみが調理場にいた。僕と目が合うと、笑った。それで、昨日のことが夢ではなかったと、直感した。

「朝食を食べたら、今日は私の船に乗ってください」

 僕と向かい合わせの席に座ると、倉橋さんは言った。有無を言わさぬ口調だった。僕は、はい、と応えた。

 釣り船は、波の上を飛ぶように走った。当然ながら手漕ぎボートで出る海とは感触が違った。倉橋さんは運転席で真剣な表情で、レーダーと前方を睨むように見ている。それは宿で見ていた倉橋さんとは全く別の人格のように、厳粛だった。

 僕は倉橋さんに言われるがまま、つなぎを着用し、長靴を履き、手すりに掴まっていた。鳥たちが頭上を低く飛ぶ。空を走る船のように、雲が浮かんでいる。波に揺られ少しの吐き気がせり上がってきた来た頃、船は速度を緩めた。大丈夫ですか、と訊かれた。あくまで事務的な口調ではあったが、しっかり僕を見て倉橋さんは訊いた。はい、と応えると、しばらくして、この辺です、と大きな声をあげた。船を停めると、運転席から倉橋さんが出てきた。

「ここで、妻は海に吞まれました」そう言った。

 そんな言葉が信じられないくらい、穏やかな海だった。けれど、その二面性は当然のことだった。

「実は私も捜しました。警察の捜索が打ち切られてからもね」

倉橋さんは海を見つめながら言った。

「海はそういうもんだ、なんて言いながらも、人間の心はそうはいかんのです。本当のことを言えば、今だって死んだと思い切れないところがどこかあるんですよ」

 割り切れない思いを抱えながら、生きている。僕は倉橋さんの、あずみの笑顔を思い浮かべる。その逞しさの裏に、現実の不条理が残していった傷跡が隠れていることを思った。

「あなたのお兄さんがどんな人だかは分かりません。でもね、生きてると信じてやることが、一番なんじゃないですか」

 僕は黙り込んだ。信じること、それがどんなことなのかが僕にはよく分からないのだった。全てのことは一過性のものに過ぎず、形を変えないものなど無いのではないか。好きだという感情も、生きようとする力も。

 恵那の言うとおり、僕は欠損を抱えた人間だ。着ぐるみの中で閉じこもっていて、自分が変わることを恐れている。自分すら信じられずにいる。

「今日はここで漁をします。村中さんも釣ってみてください」

倉橋さんが釣り道具を用意する。僕に用意されたのは、サビキ釣りと呼ばれる、魚を呼び寄せる餌と擬餌針の仕掛けをつけた竿だった。倉橋さんに教えられながら、見よう見まねでやってみる。しばらくは僕も倉橋さんもなかなかあたりが来なかった。その内に、倉橋さんの竿がビクビクと動き、何かが掛かった。クロダイです、と倉橋さんは言った。笑顔だった。

 その後も順調に倉橋さんの竿は魚に引かれた。クーラーボックスに、表面を輝かせた魚たちが入れられていく。村中さんにもその内来ますよ、と倉橋さんは言ったが、僕の竿は風に揺られるばかりで動かなかった。才能が無いんですよ、と言うと倉橋さんは釣りは実力もそうだけど半分以上は運ですよ、と言う。それからしばらく言いにくそうにしてから、ぽつりと言った。

「あずみの様子がおかしいんです」

 僕はどきりとする。

「あの女性が昨日来てからね」

「はぁ」

「村中さん」

「はい」

「あずみのこと、どう思いますか」

 倉橋さんの竿がまた震える。上がったのはクロダイに見えた。

「好きです」僕は覚悟を決めて、言った。倉橋さんはクロダイの口に刺さった針を苦労して取ってから「好きですか」と言った。

「知ってたんですか」僕は我ながら間の抜けたことを言ったと思った。

「一人親ですからね」倉橋さんが呟いた。「分かるもんです」

「済みません」僕は謝った。

「謝るくらいなら、好きにならないで欲しいですね」倉橋さんは厳しい声で言ってから、柔らかく調子を変えて続けた。

「あずみは良い子です。良い子に育ってくれた。あんなことがあったのに」

 倉橋さんは目にぐっと力を込めた。

「だから私は信じられるんですよ。あなたたち兄弟だってきっと乗り越えられるって」

 その時だった。僕の竿がぐいっとしなった。

「来ましたよ。巻いて巻いて」

 倉橋さんが明るい声を出す。手応えがある。生きている手応えが。手が震える。言われるままに糸を引いていく。水面に魚影が近付いて、青と白に輝く魚が宙に浮かんだ。

 あの絵本から飛び出してきたように。

「やりましたね」倉橋さんの声が弾む。

 掴む。手の中でビクビクと震える生き物がいる。

生きている。握りつぶさぬよう、適度に力を抜き口についた針をとる。三匹のアジが釣れた。僕はクーラーボックスの中のアジをしばらく眺めていた。

「海は奪うだけじゃない。与えるんだ、私たちに」

 結局僕はその後五匹のアジを釣り、倉橋さんはそれの何倍かの魚を釣り上げて、クーラーボックスは満杯になった。それを持ってクラハシへ帰ると、あずみが笑顔で出迎えた。倉橋さんはあずみの頭を軽く叩いた。

「痛い、なに?」

 あずみは父親の方を振り向いた。それでも笑っている。そして僕に目顔で問う。僕は何も言わず、笑っていた。

 その日の夕食は豪勢だった。アジやクロダイの刺身が舟盛りにされ、カレイの煮付けは大皿に乗せられた。天ぷらも揚がっている。あずみが、村中さんも手伝って、と言う。ソファに腰掛けていた僕は、テーブルを拭き、食器を運んだ。倉橋さんが、車で戻ってきた。調理場の勝手口から入ってきたその手には一升瓶が二本握られている。日本酒、いけますか、と倉橋さんが訊く。もう買ってきてるじゃない。あずみが呆れた顔で言う。

 支度が調い、全員で席に着いた。いただきます、と二人が声を合わせる。僕も両手を合わせて、しっかりと、いただきます、と言った。

 アジの刺身を頬張る。甘みが口の中で溶けた。今までに感じたことのない旨さだった。

「自分で獲った魚は、美味しいでしょう」倉橋さんが言った。僕は頷く。

「あずみも初めて釣ったのはアジだったな」

「そうだっけ」あずみが箸を咥えながら言う。

「でもこいつ、怖がって触れなくってね。取って取ってって泣くんですよ」

「しょうがないでしょ、子供なんだから」

「案外泣き虫なんですよ。卒業式だって、全部泣いて」

「お父さんもだけどね」

 二人の遣り取りを聞きながら、僕は白飯を食べた。それを飲み込んだ時、代わりにとでも言うように、言葉が出た。

「一回だけ、家族で釣りに行ったことがありました。近所の海に」

 二人の視線を浴びた。僕は、細い道を辿るように、思い出しながら喋った。

「釣り竿を借りて、餌の虫を怖がって、針が服に引っ掛かって、風が強くて。とにかく大変で、それなのに掛かったのはビニール袋が一つだけでした。僕はもう釣りはいいやと思ってました。でも、兄貴はすごく悔しそうにしていて」

 それを見ていた父は、兄の誕生日に釣り竿を買ったんです。僕は続ける。

「父は優しい人で、ほとんど怒られた記憶が無いくらいで、僕が友達を殴って怪我させた時も、一緒に相手の家に行って謝ってくれて。母は、凄い人でした。家のことを全部やって、僕たちの遊びに付き合って、義母が病気した時も、一番一生懸命お世話して。それなのに疲れた顔を見せないでいつも笑顔でした」

 僕は。声が詰まった。

「僕は、僕は、そんな二人の血を継いでるからきっとちゃんとした大人になれるってずっと思ってて。こんなうじうじした弱い男になるつもりなんか全然無くて、なのに」

 目の周りがかっと熱くなる。

「僕は、殻を作って閉じこもってる。いつも人を傷つけて、何も信じてなくて、怯えてるんです」

 涙が溢れた。

「家族が欲しいんです」

 僕は、失ったものの大きさから目を背け続けてきた。信じることの重さから逃げ続けてきた。「家族が欲しい」もう一度口を突いて出た。

「これから作ればいいんじゃないかな」

 あずみだった。あずみも泣いていた。

「これからゆっくり家族になればいいんじゃないかな」

 倉橋さんが無言でお猪口に日本酒を注いだ。自分たちの分も注いだ。それから言った。

「君の殻は破れるよ」

 そう言ってお猪口を差し出した。僕もあずみも差し出す。かちん、と音がした。吞む。喉が熱くなって、甘い匂いが鼻に抜けた。少しだけ涙の味がして、喉の奥に消えた。

 その後も僕は父の話をした。母の話をした。兄の話を、僕の話をした。お酒を吞んだ。着ぐるみの僕は居なかった。全て無くなったわけじゃないことは分かっている。けれど、今この瞬間には少なくとも、僕は、僕であると言えた。

 だいぶお酒が進んで、僕はちょっと休憩してきますと言って外へ出た。大丈夫?とあずみが後ろから声を掛けたが手で制して、ガラス戸を開けた。

 風はひやりとしていて、火照った頬を撫でた。コンクリートに波が一定のリズムで押し寄せてバシャッと跳ねる。月は雲に隠れていた。明かりのない海はどこまでも平坦に闇を増幅させて、原始的な恐怖を呼び起こすようで、少しだけ僕を怯えさせる。耳の側の動脈が静脈が、どくどくと血液を流し、体の内側をおしなべて乱していき、平衡感覚は緩やかに失われていく。足音を不規則に並べながら、埠頭の先を目指す。ある程度まで歩いたところで頭痛がして、僕は座り込んだ。

 こんなことして何になるの。恵那の声がする。分からない。お兄さんは見つかったの。まだ。あなたは、あなたの死体を捜しているのかもね。分からない。分からないことだらけで僕の周囲は構成されていて、何か一つ解ければ、何か一つ分からないことが増えていく。そういうものだと思えるだろうか。僕は、そういう強さを、生きていく逞しさを持てるだろうか。

 その時、ポケットの携帯電話が震えた。何コールもやり過ごしてから、のそのそと取り出す。知らない番号だった。なぜか、躊躇無く通話ボタンを押した。

「もしもし」僕は言った。

「もしもし」声が返ってきた。その瞬間、僕はその声に心臓を掴まれた。

「・・・・・・兄貴か」

「そうだよ」声は言った。兄の声だった。奥の方が少し掠れた、独特の声。

「そうだよって」僕は憤りを覚えた。「何してんだよ」

「携帯を新しくしたんだ」

「そんなことじゃなくて」

「死のうと思ったんだ。ボートを盗んで海に出て」

 あの日、ボートを盗んで海に出たのは、やはり兄だった。

「人間は海に帰るのが定めだと思ったから」

「でも」

「海に飛び込んだんだ。そこまで出来たんだ。でも、俺は泳いでた」

「泳いだ?」

「知ってるだろ、俺泳ぎが上手いんだ」

「死ぬ気あるのか?」

「あったんだよ。でも、気付いたら必死で泳いでた。で、岸に辿り着いて、富士山に登ってた」

「富士山?」訳が分からなかった。

「それから色々あって、生きることにした」兄は淡々と言った。

「まだ死ぬなってことみたいだ」

「兄貴」

「ん?」 

「俺も生きることにしたんだ」

「そうか」

「うまく生きていかれるかな」

「うまくなんて無理だ」

「無理か」

「必死に泳げ」

 じゃあまた、と言って、兄は電話を切った。僕はしばらく電話を耳にあてたまま、動けなかった。

 動けるようになった途端、涙が出た。そのまま仰向けに寝転がると、笑いも込み上げてきた。何が必死に泳げだ。

 不意に僕を照らす明かりが目に入った。月ではなかった。懐中電灯の光。

「もう、何してるのこんなとこで」

 あずみだ。あずみの声だ。

「一人で笑って、ちょっと気味悪いよ」

 あずみがしゃがんだ。僕は腕を引っ張った。あずみが、よろける。

「どうしたの」笑いながら、あずみが問う。そのまま抱きしめた。

「生きてた」

「え?」

「兄貴が」

「うそ」あずみの声が弾んだ。それから顔を見合わせて、泣いた。よかったとあずみは言って泣いていた。僕はそんなあずみを愛おしいと思う。心から信じられそうな気がした。あずみを。自分を。

「愛してる」僕は言った。

 こんなに白々しくて、不格好で、でも他に代替の利かない言葉は無い。

 生きていこう。小さな嘘をつき、時々着ぐるみになり、怒り、笑い、泣いて、そうやって生きていこうと思った。

 雲に隠れていた月が不意に顔を覗かせた。その時、遠くで魚が跳ねた。高く高く跳ねた。

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