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翌朝早くに目を覚まし布団を片付けていると、あずみがノックして顔を覗かせた。その顔は冷たさと困惑を表していた。
「お客さん来てます」そう言った。
「お客って、僕に?」
あずみは頷いた。頷いて、そのまま階下に降りていってしまった。僕も降りていく。
訪問者は恵那だった。僕を見て、あずみを見て、薄笑いを浮かべている。
「お兄さん捜しは順調?」
「とりあえず外に出よう」僕は言った。
「倉橋さん、ボートいいですか」と僕は訊いた。倉橋さんは無言で頷いて、ボートの準備をしてくれた。
昨日の影響などまるでないように、海は穏やかさを取り戻していた。ボートの操作にもかなり慣れた。日陰を探して目的地に辿り着き、いかりを落とす。その一部始終を、恵那は黙って見ていた。二人で向かい合わせに座ると、当たり前だが随分狭くなる。
「どうしてここが」
僕は一番の疑問をぶつけた。
「GPSのアプリ。他人の携帯にこっそり入れて場所が分かっちゃうっていう怖いアプリがあるんだよ」
心当たりがあった。
「一昨日のメールか」
「そう」恵那はつまらなさそうに言った。
「なんで電話に出ないの?」
「何を話していいか分からないから」
「私が話したいから電話してるんだよ」
謝るつもりも、必要も無かった。
「突然会社辞めて、兄捜しなんて普通じゃないよ」
「僕たちはもう、付き合ってないだろ」
僕は言った。恵那の表情が一瞬止まったように見えた。けれど次の瞬間には、また喋り出した。
「それが普通じゃないって言ってんの」声が怒りで低くなっていた。
「別れるって一方的に言い出して」
恵那との出会いは二年ほど前、会社の合同研修後の飲み会だった。その研修は営業課も企画課も参加してのもので、飲み会も盛大に行われた。僕はその日、調子の悪さを感じていた。喋ったり、リアクションをとっている自分と、中の自分との乖離が激しくて、ずっと氷の上を滑っているような感覚だった。ぶかぶかの着ぐるみを着ているような感覚だった。両親の事故以来、僕は時々そうなることがあった。歪んだ着ぐるみの僕に同僚が話し掛ける。そして何か言い返す。それは遠くのこと、テレビで観るテロの速報のように他人事の気分だった。精一杯アルコールを口に運んだ。そうすることで、溝は埋まるかもしれないと思ったが、違和感は拭えなかった。
当時僕は煙草を吸っていて、恵那もそうだった。ふわふわした状態で僕は喫煙コーナーの椅子に座った。恵那が、大丈夫ですか、と話し掛けてきた。大丈夫です、と僕は答えた。意外と飲める方なんで。恵那は首を振った。そうじゃなくて。無理に合わせなくていいと思いますよ。そう言った。
僕は、僕の着ぐるみを見抜いている人に初めて出会った。というか、面と向かってそれを口にしてくれる人に。
本当は皆着ぐるみを着てるの。ある時恵那が言った。あなたは、ちょっとそれに敏感なだけだよ、と。
「恵那には、もっと相応しい人がいるよ」
僕は釣り餌のいそめを針に刺してみた。いそめは刺されたところから黄色い液体を吐き出した。
「いつまでそうやって自己憐憫に浸ってるの?」
恵那が言った。
「あなたはそうやって、自分なんか自分なんかって、本当は認めて欲しいだけなのに」
恵那はいつも正しいことを言ってくれる。
「お兄さん捜しだって、そんなの全てから逃げるための言い訳じゃない。あなたいつか言ってたよね、調子の悪い時ほど、セックスがしたくなるって。それってつまり泣いてるだけじゃない。違う体液を垂れ流してるだけじゃない。いつまで気持ちいいだけでいるつもりなの? 可哀相な自分を助けてくれる誰か。誰かいませんかって札掲げて、あなたは愛されたがってばっかり。愛することができないのよ。自分のことも、誰かのことも」
恵那の目には涙が溜まっていた。悔し涙のようなものかもしれないと思った。僕は、針に突き刺され、弱っていくいそめを見ていた。もう魚も食いつかないような、いそめを。
「それで今度は宿屋のあの子? いい加減に目を覚ましなよ」
僕はいそめの付いた釣り竿を海に垂らしてみる。水面に小さな波紋が広がって、いそめは落ちていく。リールが回り、力なく止まる。
「こんなことして何になるの?」
僕は答えられなかった。正しいのは恵那であることは分かっていた。それでもこの気持ちが、ここに居たいと思う限りは居ようと決めていた。
「本当にあなたが捜してるのは、あなたの死体かもしれないね」
沈黙の後、脱力した口調で、恵那が呟いた。その意味を、僕は理解できなかったけれど、僕たち二人にとっての別れを意味する言葉だということだけは辛うじて分かった。
ボートで岸まで戻ると、そこにはあずみが居た。あずみは僕を見て、口を引き結んだ。それから恵那に手を差し出した。恵那は口だけで笑顔を作って、ありがとう、と手を繋いだ。
そしてその手をじっと見つめて、しばらく動かなかった。それから顔を上げて、あずみを見た。
「良かったね。いい時にいい人に巡り会えて」と言った。あずみは否定も肯定もせず、じっと恵那の目を見つめ返していた。それから恵那は陸に上がり、さよなら、と言って港から去って行った。あずみはその背中を最後まで見ていた。僕はボートのロープを柱に結んで、戻ろう、と言った。
「泣いてたよ」あずみが呟く。僕は、いいんだ、と言った。なんだか体が重かった。
「いいかどうかは、あの人が決めることだよ」
「でも僕は君が好きだ」そう言った。あずみは眉を寄せて間を置いてから、ありがとう、と応えた。
夕食の席は、何か重苦しい空気が漂っていた。小さな食堂が、更に小さくなったような圧迫感だった。いつもは饒舌な倉橋さんが喋らなかった。何かを考えるように、魚をつついていた。
静寂は突然破られた。倉橋さんが箸を置いて、喋り出した。
「十年も前のことなのに、昨日のことのようです」
「お父さん?」あずみが不安そうに声を掛けた。倉橋さんは食卓だけを見ていた。
「家内は反対したんです。船を出すことを。でも私が無理に決めた。昼過ぎ、急に黒い雲が湧いてきて、それは夕方からという予報だったのが急に湧いてきて、海を荒らしました」
倉橋さんのいかつい肩幅が、縮こまって見えた。
「急いで網を引き上げ、碇を引き上げようとしました。碇を巻くのは妻の仕事でした。ところが根掛かりして、なかなか動かなかったんです。夫婦二人で急いで巻きました」
僕の顔を見た。
「船が大きな波にバランスを崩して、家内が転びました。次の波が、家内を海に放り出しました」
「お父さん止めて」あずみが言った。
「波の音が消えました。私の耳の中には、家内の声しか聞こえませんでした。助けて、そう言いました。声のした方に救命胴衣を投げました。家内は掴んだんだ。確かに掴んだ。でも、大きな波が家内の背後から白い泡ぶくを立てて呑み込んだんです。化け物みたいにです」
沈黙が続いた。倉橋さんの目線は、また食卓に戻っている。波の音がざざっとやけに鮮明に聞こえた。
「叫びました。とにかく叫んで、オレンジの救命胴衣を探しました。でも見つからない。船は転覆しそうな勢いでした。次に浮かんだのはあずみのことです。こいつの為に、おかしくなりそうな頭で考えました。何をすべきか。何ができるか」
父親を見つめるあずみの目から涙が溢れた。
「選ぶなんておこがましいんです。海の神様は、与えるか奪うか、どちらかしかない。それで、私は選ばされた。この子を守ることを。村中さん、あなたは」
僕は倉橋さんの目を見た。
「行方不明になった村中広樹さんの弟さんなんですか?」
恵那だ。恵那が言ったのだと思った。
「同じ苗字だとは思いました。でもまさか、弟さんがここに来るなんて、まして、自殺しに来たかもしれないお兄さんを捜してるだなんて」
「済みません。本当のことを言えずに」
「私はね、妻のことがあったから、海にわざわざ自分から死にに来るような奴を、それを選ぼうとするような傲慢な奴を許すことはできない。そして、それを捜すだなんて言ってボートで浮いてるだけのようなあなたも」
浮いているだけ。ずっとそうだ。僕はいつも表層で浮いているだけだ。底を見ようともしない。その深さも、怖さも知らないまま、ただ漂っている。
「海を舐めないでもらいたい」
倉橋さんは、言った。それは怒気というより、心からの祈りをはらんでいると思った。人は他人に何かを諭すとき、結局は祈るしかないのだと思った。恵那も、倉橋さんも、僕が変わることを祈っている。
「兄は、僕にとって唯一の肉親です」
上辺だけの言葉をまた壁に塗った。
「もう少しだけ捜させてください」
頭を下げた。倉橋さんは何も言わなかった。
海辺だった。それはどこか、記憶にない浜辺だった。兄が座っていた。海から流れ着いた太い流木の上に座っていた。僕は歩み寄っていき、近くに腰掛けた。波の音はしなかった。だから、ここは夢か何かだと思う。
どこにいってたんだよ。僕は訊く。兄は答えなかった。
ゆで卵。兄が呟いた。なに。ゆで卵、作るの上手かったよなお前。なんかちょうど中身が半熟のゆで卵。そうだっけ。そうだよ。俺が作ると固ゆでになっちゃうんだけど、お前はいつも上手いこと作ってた。忘れた。そうか。でも、あれ旨かったなぁ。いつの話だよ。
父さんと母さんが死んだ時だよ。兄は言った。俺もお前も何も食べる気がしなくて、でも二日後だったかな。お前がゆで卵作ってた。二つ。で、白い皿に無造作に置いて、お前が先に食べ始めた。そうだっけ。俺もなぜか、食べなきゃと思って食べたんだ。そうだっけ。それが旨かった。旨かったんだ。生きてるっていうのはそういうことなんだ。
兄貴に言われてもな。僕は言った。どこにいるんだよ、兄貴は。
海の底かな。そう言って笑いながら、兄は砂を掬った。砂は兄の指の間から溢れて、そのまま宙に浮かんだ。
兄貴は今でも、海が怖くないのか?僕は訊いた。兄貴はやっぱり答えなかった。
目を開けた。あずみの顔が目の前にあった。夢の続きかどうか判断がつかなかった。あずみが唇を合わせる。僕は彼女を抱き締める。どこかふわふわとして、でも彼女の感触だった。首筋にキスをする。どくどくと血が巡っている。二人とも服を脱ぐ。何枚も着ているように、もどかしい作業だった。もう一度キスをして、彼女の体に手を這わせる。股間の中に指を入れる。鼻息が頬にあたる。温かいものが僕を安心させる。僕はすっかり勃起していた。あずみの中に入っていく。動いて動いて、吸って吐いた。あずみは顔を歪めながら、それでも美しく保たれていた。ぽたりと僕の頬に落ちたのは、彼女の涙だった。何度でも何度でもキスをする。荒い息が部屋を満たした。涙が落ちなくなった時、僕は射精した。ゆっくりと止まる。笑顔のあずみが目の前にいる。閉じたカーテンから月明かりが漏れている。心臓が強く脈打つ。体中から力が抜けていき、もう一度、目を閉じた。