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いつの間にか明かりをつけたまま眠っていた。起きるとまだ辺りは薄暗い早朝だったが、それ以上寝つけず、海を見に行くことにした。
向こう側を回ってきた太陽が、今まさに丸い姿を現し始めたところだった。神々しいほどの光の円を見ながら、欠伸混じりに深呼吸をした。日光の匂いがした気がした。そうして再び目を開ける。埠頭の先の方に、誰かがしゃがんでいるのが見えた。
やはりあずみだった。あずみは波の当たる埠頭の先で、手を合わせていた。声を掛けるのを躊躇ったけれど、近くまで行くとあずみの方が気付き笑顔を見せた。
「おはようございます」
「おはよう」
「これ、朝の日課です」あずみはもう一度手を合わせた。
「戻りましょうか」
あずみが言って歩き出した。途中でテトラポットを指差し、この辺、魚いますよと言って身を乗り出した。人工物にすら自分たちの住み家を作る生き物の逞しさに感心していた時、不意にあずみが態勢を崩した。思わず手首を掴んだ。あずみの手首は、細かった。済みません、と言ったあずみと一瞬目が合った。どちらともなく逸らして、あずみは立ち上がりまた歩き出した。僕はその手の感触がじんじんと、しばらく残っているような気がした。
「お母さんは」僕は兄を思い浮かべながら訊いた。
「見つかったの?」
あずみは立ち止まり、笑顔のまま首を横に振った。
「海はそんなに優しくないです」
「海は広いか」僕が呟くと、あずみは頷いた。
「母の体は、きっと海の底で腐って、魚たちが食べて、その魚たちを獲って、私は今生きてて」
腐ってという言葉に力を込めてあずみは言った。力を込めなければ言えないのだと思った。
「だから母に生かされてるって思うんです。ごめんなさい、朝からこんな話」
あずみは軽く頭を下げた。それから海を見て、言った。
「でもそれが海です」
命の重さを、彼女はもう知っていると僕は思った。それはなんだか僕以上に知っている気がして、何も言えなくなってしまった。両親を亡くし、兄までも亡くしたかもしれない僕は、未だに実感を持てぬまま、波間をゆらゆらとたゆたう流木のようだと思った。彼女はその流木を止まり木にするかもめだ。
その日、僕は海に出なかった。朝食と夕食以外部屋からも出ず、海を眺めた。兄とのことを何でもいいから思い出そうとしたが、今日はうまくできそうになかった。僕の頭の中を占めていたのは、本当はここに何をしに来たんだろうという疑問だった。兄のことを探しに来た以上に、求めているものがあるような気がして、しかしその実態は得体が知れなくて気味が悪かった。僕は僕自身のことが分からなかったし、海はそれを平静に見ている。何もかも見透かしているようで怖かった。携帯を見ると、恵那から電話ではなくメールが届いていて、開いたが本文は何も無かった。夜も眠れなかった。眠ろうとする度、兄の声や、両親の笑顔といったものが視覚的には出てこないくせに、電気信号のように脳を直接刺激して、落ち着くことが出来なかった。そうして空白の一日が過ぎていって、朝がまた来た。
朝から天気が悪かった。窓を叩く雨と風に追い出されるように部屋を出て、食堂へ降りた。大時化だと倉橋さんが言っていた。言いながら、心配そうに僕の顔色を見ていた。あずみも同様だった。だがあずみは僕以上に窓の外を気にしていた。波も高かった。昨日歩いた埠頭に、時々波頭が届くほどだった。
けれど僕は昨日に比べればだいぶ落ち着いていて、朝食の後部屋に戻らず、昨日とは違う気持ちで海を眺めることができた。屋根に雨の当たる音が響くのを聴きながら、置いてある釣りの雑誌を読んでみた。
倉橋さんも今日は船は出せず、市場に食材の買い出しに行ってきます、と言った。気を付けてね、と声を掛けるあずみはやはり不安気な表情だった。倉橋さんはあずみに大丈夫だよ、とわざわざ笑顔で言って出掛けていった。引き戸が開いて風雨の音は一瞬強くなり、倉橋さんが出て行くとまた弱まった。
あずみはテレビを点けたが、ほとんど見ずに一点を見つめてぼうっとしているか、海を眺めていることが多かった。それから、そうだ掃除しなきゃですね、とわざとらしく明るい声を出し二階へと上がっていった。しばらく二階で掃除機のモーター音が響き、しばらくすると一階に掃除機を下ろしてきて、食堂の掃除を始めた。それが終わると、手持ち無沙汰になったのか、また食堂の椅子に腰掛けた。
「こういう日は、やっぱり気になる?」
僕は釣り雑誌を開いたまま、訊いた。
「・・・・・・分かっちゃいますか? 嫌だな」
そう言って苦笑した。
「もう十年ですよ。私が十一歳の時だったから」
高校卒業したてに見えた僕の勘は少し外れていた。
あの日はもう少し穏やかな朝で、とあずみは話し出した。
「時化が続いてたので、今日は出ようということになったみたいで。私は、今だから思うのかもしれないけど、なんだか不安な気持ちで留守番してた気がします」
あずみは両手を合わせて祈るようにして話していた。
「そしたら天候が急変して、大時化になって。母は船から落ちました」
その両手が少し震えているように見えた。僕は雑誌を閉じた。
「船が戻ってきた時、あぁ、よかったって思いました。まさか母が居ないなんて知らないで。そうしたら父が、あんな顔してる父、見たことなかったけどそれを見た瞬間、何があったのか分かった気がしました」
僕は、両親の遺体の置かれた病院で会った時の、兄の顔を思い出していた。
「それでね、私、父を責めたんです。今考えれば父の気持ちになってあげられるけど、私は子供だったので。どうして助けなかったの、どうして船なんか出したの、どうして漁師なんかって。父は、ごめんと謝るばかりで」
あずみの声が震えている。なんで馬鹿なことを訊いたんだろうと思った。もういいよ、という声が喉につっかえた。
「だからこういう日は、母に叱られてる気がするんです。あの頃の自分を」
「僕は」無意識に言葉が出ていた。
「交通事故で両親を亡くした」
あずみが口を半分開けて、目を見張った。
「それから二月前、兄貴が失踪した。僕は、兄貴も死んだと思ってる」
どうして、とあずみが訊いた。僕は電話のことを、ボートのことを話した。
「僕は釣りをしに来たんじゃないんだ。兄貴を探してるんだ。兄貴の死体を」
「死体・・・・・・」あずみが呟いた。
「どうしてですか。まだ死んだとは限らないじゃないですか」
「死んでるんだ兄貴は」
「なんでそんな風に」
「気持ちが分かるからかな」僕は言った。
「死にたい人の気持ちが分かるなら」
あずみは言葉を切った。死ねばいいじゃないですか。彼女はきっとそう言おうとした。ゴトンと何かがぶつかるような音がした。ガラス窓をピシャピシャと風雨が叩く。あずみは深く息を吸って、吐いた。
兄の会社の同僚に会ったのは、ここに来る数日前だった。五時に喫茶店、と待ち合わせて、彼が来たのは五時半近かった。彼は三葉と名乗った。兄より少し年上の印象だった。
お兄さんが居なくなって、うちも大変です。と三葉さんは言った。それはお世辞かもしれないと思ったけれど、話を聞いていると兄は信用金庫という職場で、それなりに必要とされた人材であったらしい。何が起きても淡々とやるべきことをこなす。それでいて人当たりは良い。もっとも、悪いことをこの場で言うはずもないとは思った。
兄の失踪について何か心当たりは、と僕は訊いた。三葉さんはコーヒーを何口か飲んで、特には、と言い掛けたところで、あ、と言った。
失踪の一週間くらい前に、村中くん、前の支社に用事があって出張したんです。で、帰ってきてどうだったって訊いたら、同期が死んだらしいです、って。無表情に言ったんですよ。
まぁ面識がある程度だったみたいですけど。
その後も兄は変わらず淡々と仕事をこなし、冗談には笑顔を見せていたという。
「見つかりませんよ。この海で、死んだとしたって」
「そうかもね」
沈黙が漂った。あずみは怒った顔を隠さなかった。同時に何か歯痒さを抱えているようにも見えた。しばらくそのまま時間が過ぎた。あずみは次第に落ち着いた顔になって、
「済みませんでした」と謝った。僕は何も言わなかった。
「お昼の支度しちゃいますね」と言って立ち上がった。調理場に入ろうと背を向けた。そこで立ち止まった。僕はぼんやりとそれを見た。肩が震えている。
あずみは泣いていた。
僕も立ち上がった。自然とあずみの背中に手を置いていた。あずみの紺色のロングTシャツ越しに体温が手のひらに伝わる。そこから伝染するように感情が込み上げてきた。僕はあずみの肩に手を動かす。あずみの体がびくっと反応し、ゆっくりこちらを向いた。雨が強まり、激しく屋根を、窓を叩いた。あずみの顔が目の前にあった。大きな目には涙が溜まっていて、紅潮した頬を伝い、唇の端へと流れていた。
僕は、何をしているんだろう。そう思った時には唇が重なって、あずみの鼻が鼻にぶつかって、塩の味がしていた。あずみの細い腰に手が回り、力が入って強く抱きしめた。あずみの首筋からは温めたミルクのような甘い匂いがした。あずみの手が、僕の背中に回った。お互いを補完するみたいに、僕たちはキスをしたまま、随分長くそうして抱きしめ合っていた。
あずみの手が離れたのは、外から砂利を踏むタイヤの音が聞こえてきた時だった。倉橋さんの車が帰ってきたのだ。僕も手を離した。あずみは僕の目を見上げ、何か言いたそうにしながら何も言わずに調理場に入った。合羽を着て発泡スチロールの箱を抱いた倉橋さんを、僕は立ったまま出迎えた。
「いや、凄い雨」倉橋さんは大きな声でそう言った。
「止まないですね」僕は外を見ながら返す。倉橋さんの目は見られなかった。
「クロダイがありましたよ。良かった良かった。今晩は、これの煮付けです」
そのまま調理場に入っていき、あずみにもそれを伝えた。あずみは笑顔で返事をした。僕はまた席に戻り、釣り雑誌を広げる。内容は全く入ってこなかった。さっきまでのことが嘘だったように、調理場からは小気味良い調理の音が聞こえ始めていた。
午後になり、雨は止んだ。風は強く、波は相変わらず高いが、雲の隙間から時々日が差すようになって来た。ふと外に出たくなり、この辺で見晴らしの良いところはあるか、と倉橋さんに訊いてみた。すると、一カ所小高くなっているところがあるということで、地図を見せてもらっていたが、倉橋さんは、案内してあげなよ、とあずみに声を掛けた。僕は遠慮したけれど、あずみは、うん、と返事をして立ち上がった。
国道を、銭湯とは反対方面に歩いて行く。あずみは後ろで手を組みながら、僕の数歩先を歩いている。強い風と車の音で、波音はほとんど聞こえなかった。国道から茂みの間の小径に入る時になって、初めて風の音が弱まり、代わりに波音が聞こえてきた。
「ここを真っ直ぐです」あずみは初めて振り向いて、そう言った。その顔には怒りの表情はなかった。僕は謝る言葉を呑み込んだ。すぐに謝ろうとするのは自分の悪い癖だと思った。
「じゃどうぞご勝手に」
あずみが言って、去ろうとする。僕が呆気にとられていると、
「嘘ですよ。風強いときは結構危ないですから」と笑い顔で戻ってきた。僕も苦笑して、後に続いた。
茂みを抜けると視界が開けた。曇り空で遠くまで見えるわけではないが、港が一望できて、晴れていればもっと先まで見えそうだった。足下は波で削られた崖になっていて、その高さはビルの三階分くらいはありそうだった。そこに容赦の無い波が当たり、白い波頭が立ってはすぐに崩れて青に戻っていく。
あんまり端っこまで行くと危ないですよ、とあずみが言った。髪が風になびいて横に流れるのを左手で抑えている。
「お兄さんがもし、村中さんが言うみたいに亡くなってるとして、どうして海だと思うんですか」
あずみが訊いた。
「人間は海から生まれてきたから」
「そういう話をお兄さんと?」
「小さい頃だけど」陽光が急に差して、僕は目を瞑る。
「兄貴はずっと思ってたんじゃないかって気がするんだ。海から来た僕たちは、海に帰らなきゃいけないって本気で」
運命論者だったから。
「なんかその話聞いて、少し分かっちゃう気がするんです。毎日こうやって海を見てると、いつか吸い込まれそうな気がして」
あずみはしゃがんだ。
「海って怖いです」
ぐつぐつと煮立つマグマと同じように、命の源である海はぎらぎらとした生命力を見せつける。それは原子力で動く発電機のように、暴力と紙一重の巨大な力に思え、畏怖の念を禁じ得ない。
「僕もそう思う」
あずみの隣にしゃがむ。肩と肩が時折触れても、あずみは避けなかった。お互いにもたれるようにそうしていると、自然と手を繋いでいた。あずみの手のひらは料理人らしく、ところどころ皮膚が固く、けれど全体として女性特有の柔らかさと温かさを持っていた。