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海に生まれる  作者: 野足夏南
2/5

「曇ってるぐらいの方がね、かえっていいんですよ。気圧が低い方が魚は浅いところに来るんです」

 朝食のしらす丼を一緒に食べながら、倉橋さんは言った。テレビの予報では一日曇りで、雨は降らない見込みだった。あずみの姿がなく、訊いてみると、あぁ、と倉橋さんは苦笑した。

「海に向かって手を合わせてます。あいつの母親は海で死んだんです」

 済みません、と謝った。倉橋さんは首を振る。

「もう十年も前のことです。うちは夫婦船だったんですよ。時化の海に投げ飛ばされてそれっきり」

 そこで会話は途切れ、二人でしらす丼を食べた。磯の香りが鼻に抜けた。

 朝食を食べ終えた頃、あずみは戻ってきた。おはようございます、と挨拶をする。倉橋さんが今日のポイントを地図を元に教えてくれた。本当は一緒に船に乗り込む勢いだったが、それは丁重に断った。

 港は左右を堤防に囲まれている。左の突端には灯台が見える。その灯台の先が倉橋さんの言う今日のポイントだったが、特にそこにこだわるつもりはなかった。魚を釣るつもりはなかった。

 僕はただ、兄の死体を探していた。

 連絡が途絶えて一週間ほどして、僕は兄の家に行ってみた。兄の家に行くのは初めてだった。毎年届く、年賀状の住所を頼りに神奈川県の横須賀市に向かった。駅から小高い山に向かって、寂れた商店街を歩いた。信号で曲がって、路地に入ってしばらく行ったところにアパートはあった。大学を卒業してからずっと兄はここに住んでいたから、八年になるはずだ。八年前は新築だったんじゃないかと思うくらい、小綺麗なアパートだった。玄関の前に立つのには勇気が要った。兄が部屋で死んでいると想像すると怖くなった。だがそうであれば腐臭がするはずだった。人間の腐臭がどんなものかは知らなかったが、兄の部屋の前からは変な臭いはしなかった。扉には鍵もかかっていた。

 隣の民家に住んでいるのが熊坂という大家だった。大家に兄が失踪したかもしれないと事情を話し免許証を見せると、鍵を開けてくれた。部屋は1DKで玄関を入ると右手にトイレがあり、その先はすぐにリビングだった。隣の寝室にはベッドが置かれていた。まず死体の無いことを確認した。部屋には物が少なかった。だがそれは昔からのことだ。兄は自分の部屋が散らかるのを嫌っていた。あるのは本や釣りの道具くらいだった。対照的に僕の部屋は散らかっていた。将棋盤があり、ギターがあり、漫画が敷かれ、アニメのフィギュアがあった。そのせいで僕はよく両親に部屋を片付けろと怒られた。

 兄は釣りが好きだった。静岡の実家は港が近く、小学生の頃、誕生日に釣り竿を貰ったことから始まり、兄は中学高校でも部活に入らず、放課後は釣りに没頭していた。無趣味で暇つぶしに勉強をしていたような僕には、兄の入れ込みようは理解できなかった。何がそんなに楽しいの、と訊いても明確な答えは返って来なかったが、ある時兄が答えたことには、釣りは結局運任せだから好きだ、ということだった。あれだけ広い海で、小さな針に、魚が出会う運命は凄いと言っていた。

 そんなこともあって、兄は運命論者だと僕は常々思っていた。父さんと母さんが交通事故で死んだ時もそうだった。

 警察からの電話を受けたのは兄だった。当時兄は大学を卒業し就職していて、僕は大学生活最後の一年を堕落しきって満喫していた。卒業までの単位は残り僅かで、ほとんどの時間を女性との出会いと会話とセックスに充てていた気がする。だから、兄からの着信を受けていた時も会ったばかりの女の子との会話かセックスに夢中だったのだろう。気が付くと、兄からの電話着信が数回入っていた。掛け直すと、兄は静かに言った。父さんと母さんが死んだんだ、と。

 僕と兄が会ったのは東京の病院だった。事故は首都高で起きた。居眠り運転のトラックが右に大きく蛇行し、小さな軽自動車はトラックと壁との間に挟まれた。それだけだった。それだけのことで、二人の命が終わった。病院に着いたときには0時を回っていた。病院の廊下は蛍光灯に照らされ明るかったが、兄の他に人は居なかった。兄は長椅子に腰掛け、頭を壁にこつこつとぶつけていた。目を閉じ、何か言いそうに口を少し開けていた。兄貴、と僕は声を掛けた。兄貴が目を開けた。開けたが、頭のこつこつも口の半開きも変わらなかった。ただ表情は落ち着いていた。兄貴は立ち上がった。そうしてどこかに消え、警察官を連れて戻ってきた。事情の説明を受け、それで遺体は、と僕が訊くと、兄が首を振った。見ない方がいい。初めて喋った。でも、それじゃ、死んだかどうか分からないじゃないですか。僕は滅茶苦茶なことを言った。けれど、本心だった。だから何による涙なのかいまいち実感が湧かないまま、その場に膝から崩れ落ち、僕は泣いた。兄は泣かなかった。少なくとも僕の前では泣かなかった。そして言った。

 運命だったんだ。そういう。

 そんな言葉で片付けたくはないと思いながら、僕はそれからの数日をひたすらに泣いて過ごした。葬儀の場でも泣いた。女の子の前でも泣いた。情けないと今になれば思う。けれど、泣くことが僕にとっての弔いで、自己満足だった。悲劇に立ち会い泣くことは気持ち良くすらあった。それを心のどこかに感じ、罪悪感でずぶずぶと傷つきながらも、涙は止められなかった。

 兄は淡々と事後処理をこなした。父と母の保険金は満額が下り、兄は僕と二人折半した。民事訴訟はしない、と兄は言った。それも運命論から来る判断だったのかもしれないが、僕にはどうでもよかった。既に僕は、兄のことが嫌いになっていた。

 兄の部屋に、釣り道具が無かった。釣りを止めたのだろうかと思ったが、本棚には釣りに関する本が数冊あったし、大家の熊坂さんもそれを否定した。というのは熊坂さんも釣りが好きで、お互いが釣り好きだということで意気投合し、一緒に釣りに行ったこともあったそうだ。兄はどこによく釣りに行っていたのかと訊くと、大津港だと熊坂さんは答えた。僕はもう一度部屋の中を見た。水晶玉でもありそうなのにな、とこんな時にも関わらず、皮肉っぽく思った。

 それから僕は警察に行方不明届を提出した。事情聴取を受けた。僕は最初から自殺だと決めつけていたが「死ぬと思う」という兄の言葉は自殺を仄めかしているのか、事件に巻き込まれているのか、警察としては微妙なところのようだった。とにかく両面で捜査します、と警察官は言った。よくドラマなんかで、警察は行方不明人を本気で探してくれない等という場面を見かけるが、具体的に死を仄めかしている場合は事情が違うらしかった。

 警察の捜査は、やはり大津港に辿り着いた。大津港の貸しボート屋のボートが一艘、夜の間に紛失していることが分かったのだ。

 警察のボート捜索の結果はすぐに出た。ボートは大津港から数十キロ沖合で、無人で見つかった。しかしそのボートから、兄と結びつく証拠は、何一つ出なかった。

「どうでしたか?」

ボート置き場に戻ると、今日は倉橋さんが出迎えた。

「駄目でした」僕は答える。倉橋さんは心底残念そうに、あらら、と言ったが、次の瞬間には笑顔になり、「まぁ釣りは忍耐ですから。良い日もあれば悪い日もある」と言った。その顔を見ていると、なんだか騙しているようで、少し申し訳なくなった。

「そういえば、この辺、この間まで警察が来てたんですよ」

 何気なく倉橋さんが言った。そして何かを取り出す仕草をして、「私警察の者ですってね。警察手帳。女房が死んだ時以来だったですねぇ」

「何かの捜査で?」

僕はとぼけて訊いた。

「写真を見せられてね。こういう人を最近見なかったかって訊かれましたよ」

「見覚えありましたか」

「いいや。うちのお客さんなら大体分かるけど、それ以外の、あっちの埠頭の方で釣る人ってなると流石にね」

 僕は頷く。

「でもどうやらボートで沖へ出たんじゃないかって話になったみたいで。ヘリが飛んでましたよ。ヘリがね。でも見つからなかったでしょうね」倉橋さんは言った。

「海は広いですよ」

単純な言葉だが、倉橋さんに言わせると説得力があった。

 宿に戻ると、調理場の方からお帰りなさい、とあずみの声がした。あずみは長い髪を後ろで結んで魚を捌くところだった。ちょっと見てもいい?と訊くとじゃあカウンターから覗いてくださいと言った。

「サバ?」僕はまな板の上の魚を見ながら言った。

「えー。村中さん、サバはないですよ。どう見てもアジでしょ」

と言って笑っていたが、包丁を入れる瞬間、あずみの目に真剣さが宿る。尻尾の方からこそげ取るように包丁を引く。それから頭を落とす。ごつっと骨まで断ち切る音がする。魚の目は死んだ瞬間のまま止まっているようだった。そうして、背中から開いていく。

「今日はアジフライにします。あとカワハギのお刺身です」

「上手いね」

 僕は素直な感想を言う。

「村中さん、ウサインボルトに足速いねって言っちゃうタイプですか?」

「言うかもしれない」

「私だから良いですけど、一流の人にそういうの駄目ですよ絶対」

あずみは冗談めかしてそう言ったが、そこには料理人としてのプライドが見えたような気がした。「済みません」と言うと、笑顔で「お風呂どうぞ」と返ってきた。

 今日は銭湯ではなく、宿の風呂を使わせてもらった。中に入ると、確かに普通の風呂場だったが、バスタブはそれなりに大きくとってあり、これなら銭湯まで行く必要もない気がした。元々、広い浴場はあまり得意ではなかった。兄と父親は大浴場が好きで、いつも喜んで入っていた。僕は隅っこの方でじっと湯に浸かりながら、手をついてワニ泳ぎをしたりする兄を眺めていた。

 洗い場を見るとシャンプーが二つとコンディショナーが一つ、ボディソープが置かれている。コンディショナーに長い髪の毛が一本巻き付いている。

 お湯を掬ってみる。指の間から少しずつ溢れていく。どれだけ丁寧に指を閉じても、徐々にお湯は減っていく。それを何度も繰り返している内に、差し込む日の色がオレンジに変わっていた。

 アジフライもカワハギの刺身も旨かった。特にアジは淡泊さがなく、旨味が充分に閉じ込められていて、ソース無しでも食べられてしまう。

「プロの方にこんなこと言うのはあれだけど」僕は言った。「美味しいです」

「それは、許します」あずみは笑った。 

「それからこのお味噌汁も美味しい」

そう言うと、あずみと倉橋さんが顔を見合わせ、一瞬強張った表情を見せた。

「それはお母さんのレシピなんです」あずみが言った。その目は自分の味噌汁を見ている。

「だから美味しいんです」

「お母さんはここに生きてるってことです」そう言うと白飯を頬張った。

 部屋に戻り、携帯の着信を見る。恵那からの電話が今日も入っていた。しかしそのまま閉じて、何もすることなく、寝転がり天井を見上げた。天井には大きめの染みがあった。

 市営プールの底には染みがある。兄がそう言うので、僕も潜って確認する。兄のように上手くは泳げないが、確かに、底に茶色の染みが広がっていた。段々大きくなってるんだぜ、と兄は言う。本当に?と僕は問う。兄は僕に耳打ちする。兄の吐く息が、少しくすぐったい。もうすぐプールに穴が開くんだ。僕は驚いて兄の顔を見る。兄は真顔で大きく頷いてみせる。

 穴が開いたらどうなるの、僕は訊いた。プールはどこに繋がってると思う。分からない。川だよ。川。底が抜けて吸い込まれたら、川に流されちゃう。

 吸い込まれる。当時、僕はプールの排水溝の吸引力を恐れていた。あれは川に繋がっているのか。川に流されたらどうなると思う。分からない。海だよ。海に流れ着くんだ。魚はいるの? いるよ、海だもん。怖い。怖くないよ。兄は言う。だって人間の先祖は、海から生まれてきたんだぞ。海から?赤ちゃんの時から泳げたの?さぁ、それは知らないけど。半漁人だね。そうかもしれない。とにかく、そうなったら必死に泳ぐんだ。海を目指して。

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