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揺らいで揺らいでいる内に、随分と沖まで来ていた。出発してものの数分で、オールを漕ぐのを止めていたというのに。今日は潮の流れが速いですよ、と倉橋さんが言っていたのは本当のことかもしれない。太陽が真っ直ぐに光を下ろしている。それが海水面で屈折し近くの海を青く、段々と緑色に色調を変え、複雑な色合いを見せていく。その先には延々と左右に連なる房総半島が見える。
かもめが浮きの上に一羽とまっていた。浮きは波に押され上下にゆらゆらと動くが、かもめは微動だにしない。何物からも独立しているように思えて、しばらく見とれていた。そして僕は透明のプラスチックパックからいそめを取り出す。小さなミミズのようなこの生き物は一パック百十円で買った物だ。一匹を手に取る。いそめは土の付いた体でにょろにょろと指の間をうごめく。僕はそれをかもめの方に放った。かもめまでは届かず、手前の海に落ちた。かもめはやはり餌としての興味を示さず、微動だにしなかった。
死ぬと思う。
兄がそう電話を掛けて来たのは、二月ほど前のことだった。「死のうと思う」や「死ぬ」でないのが兄らしいと僕は場違いなことを考えたのを覚えている。
どうして。僕は訊いた。それは訊きたくて訊いたというより、そう言われたらこう返すという形式的なものであったようにも思う。その時僕は恋人の恵那と一緒に居て、セックスを始めようとしていたから、そんな電話を掛けてくる兄を煩わしいとさえ思っていた。ただ、それはあくまでも本気にしていなかったからこそ、だ。
いや。
兄は否定の言葉を発して、そのまま黙った。その間が、少しの真実味を帯びさせた。だからその後の僕の、どうしたんだよ、という言葉は心からのものだったと言える。
お前には、迷惑掛けないようにするから。
そう言うと、ツッと通話が途絶えた。誰かが横からハサミで糸を切ったように。何だって?と恵那が訊いてきた。恵那はもう下着姿で、胸の控えめな谷間が振り向いた僕の目の前にあった。いや。僕もそう言った。恵那はもう一度問うことはせず、ただ唇をゆっくりと寄せ、最後は磁力で引かれ合うようにキスをした。
死ぬと思う。
その言葉が、脳裏から離れなかった。その日から今日まで、兄との連絡は取れていない。
「お帰りなさい」
海岸へ戻りボートを係留していると、後ろに立っていたのは店主ではなく、まだ高校を卒業したばかりという感じの娘だった。僕が少し戸惑っていると、娘は察して、「倉橋の娘です。あずみです。初めまして」と挨拶をした。「つり宿クラハシ」の店主の娘だった。僕は、あぁと言い、名乗らなかった。その直後は名乗った方が良かったかと思ったが、考えてみれば店主の娘なら既に宿帳で僕の名前など確認済みに決まっていた。
「釣れましたか?」とあずみは訊いてきた。頬にそばかすが浮いているのが初々しいが、日焼けしたその顔は優しいゴリラのような顔をした店主とは似ておらず、素朴な美人だった。
「釣れなかったです」僕は言ってバケツを見せた。中身は空だった。
「見事なボウズですね」あずみは言って笑った。笑うと左頬に笑窪ができた。
つり宿クラハシは昭和に取り残されたような古い外観だった。しかし自分のような素人がつり宿と聞いてイメージするにはぴったりのものでもあった。青いポリエステルのひさしにつり宿クラハシと書かれているその真下のドアをあずみが開けた。
「でも大丈夫ですよ。さっきお父さんから電話で、アジとかタコとか釣れたみたいですから」
入ってすぐのところに簡素な造りの受付があり、あずみは宿帳やボートの貸し出し帳に時間を記入しているようだった。それをしながらあずみは訊いてきた。
「村中さん、お風呂どうされます?」
「入ります」僕が答えると、あずみはまた笑窪を見せ、
「ああ済みません。そうじゃなくて、うちの風呂もあるんですけど、普通の民家の風呂なんで、もし良ければ歩いて五分の所にスーパー銭湯があるんですよ。百円引きのクーポンもあるんで、行かれたらどうですか」
「じゃあそこにします」僕は改めて答えた。
海沿いの国道を歩いて、僕は銭湯へ向かった。あずみの言うとおり、五分ほどでそこに着いた。外観に鯛やヒラメが泳いでいて、竜宮城のように仕立てていると思ったら、看板に「竜宮の湯」と書かれていた。
湯に浸かる時になって初めて、日焼け止めをもっと塗っておくべきだったと後悔した。効能がいくつも書かれた含蓄あるそのお湯は、焼けた皮膚を強く刺激した。毛穴から針でチクチクと刺されるような痛みで、僕は水風呂を時々使いながら、風呂に入った。銭湯はそれなりに混んでいた。平日の、まだ四時だが、老人や、若い家族連れもいた。皆がどのような一日を過ごしここに居るのかは分からないが、今この瞬間にこれだけの人間が風呂に浸かりたいと思って来ていることが不思議だった。
ゆっくりと風呂に浸かり、帰りにドラッグストアで日焼け用の保湿クリームを買って、宿に戻ると六時近かった。玄関を開けると誰もおらず、勝手に部屋に戻った。畳で6畳ほどの部屋には小さな冷蔵庫以外には何も無い。カーテンを開けると夕日が沈みたての海が見えた。丸みの向こう側で太陽はまだ僅かな存在感を示している。
それをぼうっと眺めている内にドアがノックされ、あずみが顔を出した。
「ご飯できました。どうぞ」とにこやかに言う。
食堂という名のリビングに、ゴリラ顔の倉橋さんが立っていた。
「ボウズだったんだって?まぁ今日は難しかったからなぁ」
そう言うと椅子を指し、どうぞと促した。座らされた席の前にはご飯と味噌汁の他に、刺身と天ぷらが用意されていた。アジの刺身とタコの天ぷらです、と説明された。向かいの席に僕の分とは別に二人分の食事が用意されていて、それは倉橋親子が食べる分だろう。案の定、二人も席に着いた。一緒でごめんね、と倉橋さんは言い、いただきますと号令をかけた。
「釣りはどれくらいやってるの?」
食べながら、倉橋さんが訊いてくる。
「小さい頃に、家族でちょっとやってたくらいで、一人では今日が初めてです」
そう答えると、親子は二人揃って目を丸くし、あずみが「初めてでボートですか?」と驚きの声を出した。
「変かな?」僕は率直に訊いた。
「変ていうか、変わってますね」そう言ってからあずみは、あれ、一緒かと独り言を重ねる。
「それじゃ釣れるポイントとか、分からないでやってたんだね」倉橋さんが言う。
「お父さん、ちゃんとアドバイスしてあげなきゃ」あずみが眉根を寄せて父親を責める。倉橋さんは、だってよ、と言いながらこっちを向き「明日はちゃんと教えますね」と謝るように言った。
「あぁ、大丈夫ですよ」
僕は言ったが遠慮と捉えられたのか、いやいや任せてください、と言って倉橋さんは笑顔になった。僕はアジの刺身を食べる。新鮮な刺身の歯応えがして、美味しいと思った。食事を美味しいと思って食べるのはいつ以来だろうと考えた。記憶を辿っても答えは出なかった。
食事が終わってすぐ部屋に戻ろうとしたが、テレビでもどうぞ、と言われそのままもう少し残ることにした。どうせ部屋に戻っても、携帯を覗くくらいだ。そこには恵那からの着信が山ほど入っているに違いなかった。部屋の隅に置かれたテレビの前には大きな黒いソファがあり、そこに腰掛けた。テレビではどのチャンネルでもよく見かけるタレントが司会のクイズ番組がやっていて、興味は無かったが何となく視線を向けた。
しばらく観ていると、洗い物を終えたあずみがリビングに戻って来て、食卓の椅子に座った。
「美味しかったですか」あずみに訊かれ、はい、と答えた。
「夕食は私担当なんです。味付けとか好みあったら言ってくださいね」
「はい」
「あ、テレビしっかり観てる感じですか?」
僕は振り向いていや、と応えた。
「済みません、考え事してた」
「この番組つまんないですよね。変えましょうか」と言って返事を待たずテレビの横のリモコンを手に取る。NHKのニュース番組にチャンネルが切り替わった。目顔でこれでいいですか、と訊かれ、頷く。リモコンを置いてあずみは席に戻った。
「村中さんって、何してる方ですか?」
「何って?」僕は半身になり振り向く。
「えーと、仕事とか」
「あぁ、仕事は辞めました」僕は応えた。
一週間前、辞職願を目の前に出された黛課長は、驚きと言うより思考停止した表情だった。課長にとってみれば、何の脈絡も無いことは確かだった。僕は静岡で個人向けのソーラーパネルの営業をしていた。営業成績はトップではないが常に三、四番手にはいて、普通の営業マンだった。会議室に連れて行かれ、理由を訊かれた。僕は、兄が行方不明であることを告げた。だからって、と課長は声にならない声で言った。しかし肉親の失踪を軽く扱うことは勿論誰にも出来ず、僕は自己都合によりその日限りで退職した。驚いたのは企画課にいた恵那だった。僕は彼女に一言も相談せずに辞めたのだった。辞めたその日の夜、恵那は僕のアパートに来た。ドアを開けた瞬間から、その目は怒っていた。どうして相談してくれないの、と彼女は言った。もっともだ。どうして会社辞める必要があるの、とも言った。もっともだ。だって兄貴が、と僕は言った。兄貴がって、随分連絡もとってなかったくらいの関係なのに、と恵那は反論した。彼女の言い分は至極もっともだった。僕は仕事を辞める理由を探していたのかもしれない。自分のことであるのに丸っきり他人事のようにそう思った。
「ここに一週間ってそんな長くいる人いないから、最初いたずら電話かなってお父さん言ってたんですよ」
「海釣りしてみたかったんですよ。ボートに乗って、揺られながらのんびりと」
半分以上は嘘だった。だが、あずみはうんうんと頷いた。
「リフレッシュですね。それにはぴったりだと思います。この時期、本当海も静かだし、ヒーリング効果みたいなの、あると思いますよ」
その時、テレビのニュースの声が不意に耳に入った。千葉県の海岸で、溺死体が見つかったというニュースだった。僕はテレビに視線を向ける。アナウンサーの口元に目がいった。所持品から身元は判明したという。兄ではなかった。ほっとすると同時に何か、別の感情が過ぎった。それが何かは分からなかった。考え込んで気付くと、あずみは居なくなっていた。僕は自室に戻った。部屋にはいつの間にか布団が敷かれていた。
夢を見た。夢といってもそれは古い記憶に基づいた、回想に近いものだった。幼い僕は兄と二人、本を覗き込んでいる。二つ年上の兄は僕より遥かに字が読めて、僕に読み聞かせてくれていた。それは深海魚の図鑑だった。左半分のページには、時にグロテスクな深海魚のイラストが大きく描かれ、右側にその解説が載っていた。これは、と僕が指差すと、兄はホウライエソ、と読んでくれた。怖いね、と僕が言うと怖くないよ、と兄は返す。だがそのイラストは迫力があって、今にも飛び出してきそうだった。飛び出してきそうだよ、と僕が言った瞬間、ホウライエソは本当に飛び出してきた。そして中空を泳いだ。うわ、と僕は驚く。怖くないよ、ともう一度兄が言うと、他のページからも次々と深海魚が飛び出してくる。それらは僕たちの部屋を縦横無尽に泳ぎ回る。脳の透けている魚。頭から提灯をぶら下げた魚。二人の二階建てベッドの上を、下を泳ぎ、勉強机の下に入り込み、おもちゃを取り囲んだ。
海みたいだ、と僕が言うと、いつの間にかそこは海だった。苦しさを覚える。もがきながら、僕はぼやぁっと明るい水面を目指す。兄がいない。下を見る。兄は遥か下で、まだ本を読んでいた。お兄ちゃん、と僕は呼ぼうとするがごぼごぼと声にはならない。兄は魚たちに囲まれ、うつ伏せのまま底にいる。水面に上がった。
そこで目が覚めた。少し呼吸が荒くなっていた。カーテンが開いたままになっていた。海は超然とした穏やかさでそこにあり、空は白く曇っていた。