慣れないことは、少しずつ
花の香りで目を覚ました。瞼を開くと、風に揺らめく真っ赤な髪の毛が見えた。煙草を吸いながら運転席でハンドルを握っている。僕は後部座席に寝かされていた。体を起こそうとすると頭が痛くて、思わず「うっ」とうめいた。エリーがちらりとこちらを見て、にっと笑う。
「これはこれは、救世主のお目覚めだ」
もう夜になっていた。僕はツキツキと痛む額を押さえてぼそりと言った。
「救世主って僕が? 嫌味はやめてくれよ、僕はエリーが酷い目に遭っているのにじっと隠れていたんだ。世界一の臆病者さ。最低の友達だ。…………嫌いになったろ?」
自分のあまりの愚かさに、彼女の目を見ることもできない。俯きながら恐る恐るそう訊くと、
「臆病者だって? 誰が?」
とエリーは声を裏返らせた。
「僕だよ。他に誰がいるっていうんだ」
「一体何言ってんだ? エイデン、お前最高にかっこよかったぜ。おかげで助かった。見直したよ、お前って勇気のある奴だったんだな」
僕のおかげで助かった? 僕が何かしたのか? もしかしてあの赤い光がなにか関係しているのか?
エリーがにやりと笑って後ろに差し出してきた拳に、自分の拳をゴツンとぶつけながら光について訊いてみると、彼女は意味が分からないというように眉を寄せた。何も覚えてないのか? という質問に僕が遠慮がちに頷くと、エリーは興奮した口調で説明してくれた。
どうやらナイフが刺さる寸前、僕がいきなり現れてサリバンに怒鳴ったそうだ。エリーから離れろと叫んだかと思うと、なんと僕はあの武器を持った男に体当たりをしたのだそうだ。
「そしたらあいつ、お前見て急に笑い出したんだ」
「なんで笑うんだよ?」
「だってよ、足なんか震えてるんだぜ。あたしも、今にもおもらしするんじゃないかと冷や冷やしながら見てたよ」
「……なんだよ。それじゃまったくかっこよくなんかないじゃないか。エリーも笑ったんだろ?」
「いーや、かっこよかった。少なくともあたしは本気でそう思ったぜ。笑ったけど……ほんのちょっとだけだからさ、そんくらい許してくれ」
「ほら、やっぱり笑ったんじゃないか」
ムスッとした表情を作ってからすぐに違う方向を向いたのは、油断をすると顔がにやけてしまいそうだったからだ。――――エリーが僕のことを本気でかっこいいと言ってくれた! ああ、顔が熱い!
照れくさくて仕方なかったので、僕は話を逸らすために気になっていることを訊いた。
「あいつ、誰なんだよ。関わらないほうがいいんじゃない?」
「あーあいつか。あいつは、その、あれだよ。つまり……」
エリーが珍しく言い淀んだのでバックミラーの中の彼女を見ると、今度は向こうが窓の外に視線を向けてしまった。それでも僕がじっと見つめていると、やがて観念したのか肩をすくめてあっさり答えてくれた。
「まあ、元カレってやつだ」
エリーの反応で少し予想はしていたけれど、僕はあまりの現実に全身の力が抜け、背もたれにぼふりと倒れこんだ。そして魂まで抜けそうなほどに長い長い溜息を吐く。
「エリーって変わってるよね」
「なんだとこいつ! お前はどうなんだエイデン、好きな子はいないのかよ?」
どきりと胸が跳ねる。それを悟られないように、余裕のある口調で答える。
「いるわけないよ。僕の周りには不細工しかいないんだもの」
「へえ、じゃあどういう顔が好みなんだ?」
くるり、とエリーが振り返って自分自身を指差した。
「こんな顔は?」
「エリー? エリーは……」
可愛い――――その一言が僕にはどうしても言えなかった。一度は喉まで出かかったのに、その言葉はすぐに引っ込んで、代わりに出たのは「不細工だ」という言葉だった。それを聞いたエリーは楽しそうに笑った。
「ひどいなエイデン。今のは傷ついたぜ」
「ふうん、僕にはそうは聞こえないけど? この不細工!」
「おいおい、参ったな」
「世界一の不細工、エリー!」
僕が不細工と言うたびに、彼女はあはは、と腹を抱えて笑った。一度笑いすぎて車が壁に激突しそうになったけれど、それでもエリーが楽しそうに笑うから、僕は悪口を言うのをやめなかった。
「そういえば不細工さん、君にタトゥーがあるなんて知らなかったよ。毒グモってなんのこと?」
ふふん、とエリーは鼻を鳴らした。
「見たいか? ここにあるんだけど」
そう言って彼女は、自分のお腹の下のほうを手のひらで撫でる仕草をした。僕は目玉をぐるりと一回転させて「結構だよ。僕にはまだ早いからね」と言って窓の外に目を向けた。本当は少しだけ興味はあったけれど、エリーにませたやつだと思われたくなかったのだ。
車は僕の家の前で止まった。深夜二時なのに電気が付いている。それを見て僕は項垂れた。
「ああ、最悪」
「ほら、降りろ。こっぴどく叱られて来い」
「言われなくてもそうするよ。――――そういえばエリー、サリバンからなにか貰ってなかったっけ? あんなやつから一体何を受け取ったんだよ」
ふと思い出して訊いてみると、彼女は「ああ」とポケットから煙草の箱を取り出した。
「こいつさ」
「煙草?」
「中身はハッパだ。あいつ、これ売って儲けてんだよ」
そう言うとエリーはハッパに火をつけて、深く息を吸い込んだ。吐き出された煙は後部座席にまで流れてきて、僕の鼻腔をくすぐる。そのにおいに思わずえずいた。いつもならエリーが煙草を吸うと、彼女のシャンプーの香りと煙のにおいが混ざって、まるで花のような香りになる。それが僕は好きだった。
けれど今車内に充満している煙は苦手だ。間違えて吸い込んでしまったら、頭がくらくらした。
「おえ、ひどいにおい」
「あたしもそう思う」
そう言いながらもエリーはいつまでもハッパを吸い続けていた。なんだかサリバンに負けたような気がして悔しくなった僕は、もうドアを開けて車を降りようとした。しかし途中でエリーに呼び止められて動きを止める。わずらわしいという雰囲気を出しながら、のんびりと振り返った。
「なに、どうしたの?」
それから彼女が口にした言葉は、僕の心臓を破裂しそうなほどに跳ね上がらせた。
「今日はエイデンのおかげで助かったからな。ご褒美にキスでもしてやろうと思ったんだけど、どうだ?」
すぐには何も答えられなかった。エリーの細い眉毛が、僕に問うように持ち上がる。
ぽかんと口を開け放した僕の顔は、きっとこれ以上ないほどに間抜けだったと思う。でもそんなことを考える余裕なんてなかった。僕の目はエリーの薄い唇に釘付けになっていたのだ。暗闇の中で光る、少しいたずらっぽく持ち上がった唇。そこから覗く、白い歯――――。
「何がご褒美だ! 不細工のキスなんて欲しくないね!」
僕はいつの間にかそう叫んで車を飛び出し、家に向かって走っていた。
やっぱり僕は勇敢なんかじゃない、どうしようもない臆病者だ。
心の中であらん限りの言葉で自分のことを罵倒する。それでも足りない。つくづく自分が嫌になった。慣れないハッパの煙が目に染みてじんじんと痛かった。