サリバン
※この話には暴力的な描写があります。苦手な方はご注意ください。
――――だよ!
騒々しい声と金属音で目が覚めた。
窓の向こうの廃材たちは夕焼け色に染まっていて、空気はひんやりと涼しくなっていた。ぶるりと身震いをして体を起こしたところで、また声がした。女の人だ。距離が離れているのかよく聞き取れないが、どうやら言い争いをしているようで、声の主は誰かに対して怒鳴っているみたいだった。
目の周りをごしごしと擦る。乾いた涙でバリバリとしていたけれど、もう涙は止まっていた。
少し反省していた。帰ったら妹に謝ろう。どうせ聞こえないとは思うけど、たまには絵本でも読んであげてもいいかもしれない。新しい家族を兄貴が受け入れてやらなくてどうするっていうんだ。
――――よなあ、おい!
別の声が怒鳴り返す。乱暴そうな男の声だ。
もしかすると麻薬の取引現場にでも遭遇してしまったのかもしれないと思い、僕はぶるりと肩を震わせる。見つかれば、どうなるか分かったものじゃない。下手をすると、冗談などではなくて本当に殺されてしまうことも考えられる。
僕は関わり合いになりたくないので、窓から頭を引っ込めて座席の下にもぞもぞと隠れた。男たちが帰ってくれるのをここで待とう――――それからどれくらい経ったか。
「早くいなくなってよ……」
言い争いは続いていた。男は乱暴者なようで、怒鳴り声のあとに何かを蹴飛ばす音が何度もした。
やがて僕の思いとは裏腹に、なんと声はだんだんとこちらに近づいてきた。見つからないように頭の中でサナギをイメージする。僕はサナギだ。ここでじっとしていればきっと大丈夫。声はさらに近づく。僕は目を瞑って暗闇を思い浮かべる。僕はサナギ。じっと羽化のときまで耐え忍ぶさなぎだ――。
「え?」
ぱっと瞼を開いた。先ほどよりも聞き取りやすくなった話し声に、神経を集中させる。ちょっと待ってよ。この声、どこかで聞いたことがあるぞ。女の人の声のほうだ。かなり言葉遣いが汚い。乱暴な男だと思っていたが、それに負けないほどの勢いで男に対して言い返している。
何かを蹴飛ばす音も、もしかして半分はこの声の主がやったんじゃ……。
ほぼ確信しながらそっと顔をのぞかせると、そこにいたのはやはりエリーだった。スラリとした長い手足に小さな顔、ジャンキーみたいな服装。それに市販の染料で染めた真っ赤な髪の毛。一目で分かる。
けれどエリーが食って掛かっている男は、もっとガラが悪かった。どう見ても不良だけど、エリーよりもいくらか年上に見える。耳にはたくさんピアスが光っていて、ひげを生やしている。ぼろぼろの革のジャケットから覗く首元にはタトゥーが見えた。片手にはお酒の瓶。
「――――ぇって言ったろ! 今回のことは、それとは別の話だ。あたしには関係ないだろ!」
エリーの怒鳴り声にびくりと体が震えた。僕の隠れている青い車の前で二人は足を止めたようだ。嫌でも話し声が聞こえてくる。この時、僕は耳を塞いでおけばよかったのだ。他人の話を盗み聞きするなんて良くないということは分かっていたのだから。このずっと後に僕が最悪の体験をすることになるのは、多分そうしなかった罰なのだろう。
「関係ねえだあ? 笑わせんなよクソガキが!」
男はビール瓶を看板にぶつけて叩き割った。ガラスが砕け散り、手元に残った瓶はナイフみたいに先が尖っていた。そして唐突にブーツを履いた足で大股を踏み出したかと思うと、その先端をエリーの喉元に突き出した。
「うわ!」
突然の行動にエリーは悲鳴を上げてのけぞった。そうして避けなければ、間違いなく彼女の皮膚は無残に抉れていたはずだ。しかしそれだけじゃない。男は今度は、体勢を崩して空を掻いたエリーの腕を間髪入れずにぐんと引っ張って、その背中を僕がいる車のバンパーに叩き付けた。
バウンと車体が激しく揺れ、エリーが苦しそうに呻いた。
「なあおい、全部てめえのせいなんだよ、本当は分かってんだよなエリー。お前に分からないはずがない。俺だけは理解してる。お前は自分の頭の良さを、他人には知られたくないのさ。このチンケな髪の色が、その象徴だ」
咳き込むエリーの上に覆いかぶさっている男が、太い指で彼女の髪を撫でるのを目の前で見て、僕はかっと頭が熱くなった。なんなんだこの男は。エリーになんて酷いことを!
僕は今すぐにでも飛び出そうと、ぐっと足の裏に力を込めた。
「汚ねえ手で触んな、クソ野郎! どけよ!」
エリーがもがくと車体が大きく揺れた。その拍子に、バンパーに乗っていた瓶のナイフが地面に落ちる。笑い声を上げながらエリーを押さえつける男は、どうやらそのことには気づいていないらしかった。僕の頭の中に、ピンと作戦が閃いた。
「あーあー、クソ野郎たぁ……ひでえこと言いやがる。昔のお前はもっと可愛げがあったぜ、エリーよ。俺の名前を読んでみたらどうだ? ほら、昔みたいに」
「っざけんな変態! さっさと離せよ!」
早く決断しなければならなかった。大丈夫、簡単なことじゃないかエディ。こっそり車から降りて、地面に落ちている瓶を拾えばいい。それをあいつの背後から突きつけてやれば、エリーを助けることができる。やるしかないんだ。……でも、怖い――――。
勇気がない自分を、僕は心から憎んだ。どうしてお前はこんな大切なときに一歩を踏み出せないんだ。友達がすぐそばで酷い目に遭っているのに、ここで指をくわえて見て見ぬふりをするのか。この臆病者め。
僕が恐怖に震えてもたもたしていると、男が声を上げた。慌てて様子を確認すると、股間を抑えて後ずさる男と、急いでバンパーから飛び降りるエリーの姿があった。
「へっ、ざまあみろサリバン! にしても相変わらず小せえなあ。蹴った心地がしなかったぜ、あんたのブツ」
さすがエリーだ。ただやられているばかりじゃない。
「こんのクソガキが……」
「おおっと!」
怒りに顔を歪ませた男が近寄ろうとすると、エリーが何かを前に突き出した。それを見て僕は強く拳を握った。嬉しいからではなく、悔しかったからだ。僕よりも勇敢な彼女は、自由になった身ですかさず瓶を拾っていたのだ。
「死にたくなけりゃそこを動くなよ、サリバン。悪いな、さっきとは逆になっちまった。形勢逆転だ」
自分で割った瓶のナイフを向けられたサリバンは、わざとらしく「わーお」とのけぞると、降参だと言うように両手を挙げた。
「さすがだな。お前の抜け目ないところは嫌いじゃねえよ」
「負け惜しみならママにでも聞いてもらいなよ。さあて本題だ。図面は持ってきたろうな」
「あー、あるって。慌てんな」
舌打ちをしてジャケットの内側に手を突っ込もうとしたサリバンを、エリーが声を張って止めた。
「待て、あたしが取る。両手は頭の上に置け。いいと言うまで動くなよ」
サリバンが指示通りに動くのを確認してから、エリーは小走りで彼に近寄っていった。なんだか嫌な予感がした。この男はもっとずる賢い人間に思えたから。まだ何かあるんじゃ……。
それは見事に的中した。エリーが手の届く距離に来た瞬間、彼が懐から素早く取り出したのは大きな刃物だった。危うく自分から刃物に突っ込みそうになったエリーは、悲鳴を上げて後ろに飛び退く。その顔は恐怖に歪んでいた。
体の中で何かが限界を迎えようとしている気がした。頭が熱い。血管の中で血が沸騰している感覚に近くて、ただエリーを助けなきゃ、という思いだけが強くこだまのように反響する。
今まで経験したことないほどに耳の裏側がどくどくと脈打ち、視界が外側から少しずつ狭まっていった。眼球がちりちりと焼けるように熱くて、僕の目の前はついに真っ暗になって――――。
そして、不思議な赤い光が見えた――――気がした。
なんだ今の。見間違い? でもそれにしては凄くはっきりと輝いていた。まるで星のような美しい光だった。
サリバンがあざ笑う声が聞こえて、はっと顔を上げる。今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「俺の方が一枚上手だったってわけだ。どうする、やり合うか? 俺はそれでも構わねえが、やめるならさっさとそいつを捨てろ」
エリーは少しの間じっと彼を睨み付けていたが、やがて唇を噛んで瓶を放り投げた。この二人には先ほどの光は見えていなかったのだろうか。だとするとやはり、僕の勘違いなのかもしれない。
「利口だな。俺だって女の顔を切り刻みたくはねえさ」
「嘘つけ、変態野郎」
「お前は俺を勘違いしてるんだ。俺は義理深い人間なんだよ。今までだってそうやって生きてきた」
パチン、と音を立てて刃物をしまった。
「運命ってのは不思議なもんなのさ。本人の意思とは関係無しに、どこまで逃げようとも付いて回りやがる。いいか、お前は俺から逃げられねえんだ」
エリーが鼻を鳴らす。
「誰が逃げるって? 笑わせんなよ」
サリバンは愉快そうに笑った。
「ほざくじゃねえか。まあ、エリーがどう思おうと結果は同じさ。てめえは俺の言うことを聞くしかねえんだ」
言いながら彼が近づこうとすると、エリーは身構えてきょろきょろと辺りに視線を巡らせた。手の届く距離に武器になるものはなかったのか、サリバンに向き直って声を張り上げる。
「クソ、来るな! あたしに指一本でも触れてみろ、その鼻へし折ってやるからな!」
まただ。またこの感覚。ちりちりと視界が狭まっていく。頭が割れるように痛い。足の裏が熱い。燃えるように熱い。
「口の減らねえガキだよ、お前は。いいから肩の力を抜けよ。せっかく久しぶりに会ったんだ、土産でもやろうかと思っただけだからよ」
ほら、とエリーは何かを手渡され、それをまじまじと眺めてからポケットに突っ込んだ。その様子をじっと見ていたサリバンは、満足げに口の端を持ち上げる。
「変わってねえな。どれだけ軽蔑したって、お前も俺と一緒さ。同じ穴の狢なんだよ。仲良くやろうぜ」
「一緒にすんなよ。あたしは違う」
「どうだかな。なあそれはそうと、お前今、男いんのかよ?」
は? とエリーが不快そうに眉根を寄せる。
「あんたに言う必要がある?」
「まあどっちでもいい。とにかく今夜うちへ来いよ。お前のイカすタトゥーをまた見てえんだ。すげえよなあ、お前とヤルとまるで毒グモとしてる気分になるぜ。忘れられねえよ」
よく言葉の意味が分からないが、サリバンは言いながら気味の悪い笑顔を浮かべて両手の指をうねうねと動かした。
「きめえんだよじじいが」
吐き捨てるように言うと、エリーは何かを思い出したかのようににやりと笑って、侮蔑ともとれる目をサリバンに向ける。
「そういえば聞いたぞ。あんた先月、実の妹に子供を産ませたんだってな。驚いたぜ、まさかシスコンだったとはな。名前はリアーナだったか? 溜まってるんならリアーナにしてもらえばいいだろ。さぞお上手な妹さんみたいだからな!」
捲し立てるように言った後、エリーは反応を今か今かと待ち侘びるような表情でサリバンを見つめていたが、怒り狂うかと思われた彼はただ黙って俯いていた。
「おい、おーい、サリバン! 聞こえてるのか? あたしは応援してるぜ。家族でも大事なのは体の相性ってか? まったく兄貴が兄貴なら妹も妹だな。似た者同士、お似合いだよあんたら。二人目のご予定はあるのか?」
低い声がした。僕はもちろん、エリーも聞き取れなかったらしい。彼女は耳に手を当てて身を乗り出す。
「ああ? 聞こえねえよ」
「許さねえって言ったんだよ」
サリバンがようやく頭を上げる。その顔を見て僕はぎょっとした。驚くべきことに彼は泣いていたのだ。両目をかっと見開き、ぼろぼろと涙を流している。
エリーが「なっ!?」と慌てて両手を振る。
「泣くほどのことかよ! いいじゃねえか、好きな相手と結ばれたんだ。周りの目がつらいのか? お前がそんなことでへこたれるようなタマかよ」
「お前、知ってんだろ? 誰から聞いたか知らねえが、知った上で俺をからかってんだろ? ……許せねえ」
サリバンは再び刃物を取り出すと、雄叫びを上げながら猛然とエリーに突進していった。いきなりのことで反応できずに吹き飛ばされた彼女は、バンパーに背中を激しく打ち付けるが、咳き込む間もなく上から首を締め付けられる。
「あいつは俺たちの子供を殺して、自分も自殺したんだ。ほんの三日前のことさ。俺が不幸にしちまったんだ。俺が!」
エリーが声にならない声を漏らしながら、サリバンのナイフを掴んでいる方の腕を必死に食い止めている。でも少しずつナイフの先端が、彼女の目玉へと下がりつつある。
「許されたいなんて思わねえよ。この命で事足りるならいくらでもくれてやりてえ」
僕は何度も自分の震える膝を叩いた。
エリーを助けなきゃ。勇気を出せエイデン。お前は強い。
すると不思議なことに、また先程のようにじんわりと体全体が熱くなってくるのを感じた。だんだんと足の震えが収まってくる。
「だがな、だがてめえに……エリー! てめえに何かを言われる筋合いはねえ! 俺たちは愛し合ってたんだ。なのにてめえみてえな無神経な人間がいるせいであいつは命を……冗談じゃねえぞ!」
エリーの手が運転席の方に伸びてきて、何かを探すようにあちこちをバタバタと触っている。サリバンはもうそんなことなど気にしていない。悪魔のように怒りに満ちた顔で、早くエリーを殺したくて仕方がないらしい。
僕はエリーの手のひらに、車内に落ちていたガラス片を握らせてやった。彼女はそれを掴むと同時に、勢いよくサリバンの太もも目がけて振りおろした。サリバンが悲鳴を上げて体勢を崩した隙に彼の下から逃げ延び、エリーは大きく咳き込む。
しかしそんな暇はなかった。
「あ!」
僕は思わず叫んだ。
その足元がふらついているのを、ずる賢い男は見逃さなかったのだ。自分の負傷した足を引きずりながらエリーに向かって飛びかかると、自分もろとも地面に引きずり倒した。そして彼女の上にまたがり、再びナイフを振り下ろす。
その腕をぎりぎりのところで抑え、エリーは絶叫した。
「おい待てサリバン! 悪かったよ、知らなかったんだ! あんたの不幸には同情するけど、あたしを殺してどうなんだよ!」
うるせえ! と彼はつばを飛ばす。
「もうそんなこと関係ねえ。俺は前からてめえの生意気な口が気に入らなかったんだ。ここでぶっ殺してやる!」
ナイフの柄を掴む手にもう片方の手を添え、サリバンは全体重を掛けながらエリーの目玉を抉ろうとする。するとどうにか押さえていた鋭い先端は少しずつ下がり始め、エリーの口はがたがたと震え始めた。
「ああ、クソ、無茶苦茶だ!」
飛び出せ、飛び出すんだエイデン。今ここでそうしなければ一生後悔するぞ。お前の大事なエリーが助けを求めているんだ。何でもいい、お前にできることをしろ――――。
じんじんと足の裏が熱くなっていた。もう熱いなんて生易しいものではなく、まるで溶岩の中に立っているかのような気分だった。目を閉じると気を失いそうになる。顔を上げているのがつらい。外の二人の声がだんだんと遠のいていく。意識も薄れて…………。
足元に一匹のネズミが現れたのは、その時だった。僕のスニーカーに寄り添うようにしてネズミは足を止め、こちらをじっと見上げた。何かを語りかけるように、二つの黒い目が僕を見つめる。僕もその豆つぶみたいな目を見返しているうちに、不思議な力で吸い込まれていくような錯覚に囚われた。
――――突然のことだった。
パン、と音を立ててネズミが風船みたいに破裂した。
驚きにあっと声を上げる間もなく、次の瞬間いきなりぐにゃりと視界が歪んだ。そしてまた目の前が真っ暗になって、同時に赤い光が周囲を包み込んだ。先程よりもずっとはっきりと、力強く。声が聞こえた。僕のじゃない。ほかの誰かの声が、何か言ってる。でも一体何と言っているのかまでは聞き取れなかった。