サナギ(前半)
――――必要なものは私が揃えておく。エイデンは心の準備だけしておけ。
――――それが一番大変そうなんだけど?
――――四の五の言うな。あ、それと……
朝食を前にして、僕の目はテレビに釘付けになっていた。
コマーシャルが流れている。先週くらいから頻繁に見るようになって、きっと世の中の小学生のほとんどが今の僕と同じ思いを抱いてしまっているに違いない。全体が黒い生地で覆われていて、その中を赤いラインが雷のように走っている。凄いのはデザインだけじゃない。靴底にはエアーが入っていて、普通よりも早く走ることができるのだ。
最高だ。イカしてる。この新商品のスニーカーが欲しい!
「ねえママ」
コマーシャルが終わると、僕はテーブルの下から自分の足を床の上に放り出して、スニーカーに空いた穴から親指を芋虫のように動かして見せた。ママは膨らんだお腹をさすっていた手を止めて、険しい顔でくるりと背中をこちらに向けた。
素直にスニーカーをねだればいいのに、それを見たお馬鹿な僕はカチンと頭にきてしまった。
「なんだよ、お腹の子どもに兄貴を見せたくないのかい?」
「いいえ、私が見たくないだけよ。食事中なんだからお行儀よくなさい」
「『食事中なんだから、お行儀よくなさあい』」
化粧品で派手になったママの両目が、物真似をした僕をぎろりと睨んだ。少しの間、テレビで流れるアニメのおどけた声だけがリビングに控えめに響いていたけれど、やがて僕とママの真ん中に座るパパが「ははは」という乾いた笑い声を上げた。
「さあ、もういいじゃないか。ほら朝食を食べよう。これが――このシリアルとベーコンが、一日のエネルギーとなって私たちを支えてくれるんだ。三食の中で朝の食事が最も大切だと言われているのは知っているかな? なぜ朝食が大事か、キャロラインは分かるかい?」
あなた、とママはぴしゃりと言った。
「家に仕事を持ち込まないでちょうだい」
パパは中学校で生物を教えている。仕事人間というよりも、他に趣味がないだけだと思う。でも自分のしている教師という職業に誇りを持っていて、ほんの一握りだけど生徒にも慕われている。若いころの写真ではもっと格好良くて、その姿にママも惹かれたらしいけど、今じゃこの有様だ。
パパはママには勝てない。
「生物は嫌いだよ」
助けを求めるように視線を向けてきたパパに、僕はそう言って薄いベーコンを口に頬張った。
パパが眉を寄せて不思議そうに首をひねった。
「なぜだ? こんなに面白いのに。ベーコンのおかわりは? ほら、お皿を」
「いらないよ」
「なんだ、そうか」
すでに持ち上げていたベーコンをパパは大皿に戻そうとしたが、ママの鋭い視線に気がつくと、慌てたように自分のトーストの上に乗せる。
「子どもは――特に男の子は生物が好きな子が多いんだがな」
「僕は嫌いだよ。それって悪いこと?」
まさか、とパパは快活に笑う。
「しかし、エディの小学校でも生物の先生は大人気だろう。ほら何と言ったか……」
「アリス?」
「そう、そうだアリス。彼女は学生時代、私の教え子だったんだ。アリスの評判はよく聞くぞ」
アリスとは僕の小学校の生物教師だ。ブロンドの髪に白い肌。若くて綺麗で、おまけに――。
「確かに大人気だけど、みんなアリスの授業が好きなんじゃないよ。巨乳だからさ」
ガチャン、という大きな金属音が響いた。ママがナイフを落としたのだ。派手な両目がまず僕を見て「ごめんねエディ」とにっこり笑い、次にゆっくりとパパに向く。
「ごめんなさい、あなた」
「い、いや……いいんだ」
僕は怖がるパパに笑いをこらえるのに必死だ。
「ねえパパ、みんなアリスのおっぱいは最高だって言ってる。どう思う?」
「やめるんだエディ、何のつもりだ? 朝から一体何の話をしている?」
パパはいよいよ険しい顔で僕を見た、
どうして? と冷たい声を出したのはママだ。
「やめる必要はないわ。子どもの好奇心を否定してもいいことはない。いいじゃない、答えてあげれば?」
「キャロラインまで何を言っているんだ。私が言っているのは、彼女の教育に対する姿勢のことだ。生物を愛し、生徒のことを真剣に考えている。バストなんて関係ない」
「あらそう」
ママはツンとした態度でそれだけ返すと、また黙ってシリアルを食べ始めた。ベーコンは抜いている。妊娠中の今、食べると吐き気がするらしい。赤ん坊を宿している女の人はいろいろと大変だ。暇さえあれば、まだ生まれてもいない僕の妹のために、絵本やシェイクスピアを読んであげてみたり、クラシック音楽を聞かせてみたりしている。
他にもある。例えば僕に背中を向けて、出来損ないの兄貴を見せないようにしてみたり。
「おい、言い争いはよそう。確か君に読まされた本でこう書いてあった。『夫婦の喧嘩は胎児にストレスを与える』だったかな。声のボリュームの問題ではなく、発する声に混ざる親のストレスが、生まれてくる子によくないんだ」
「ええそう、伝染するのよ。子どもは親の感情の変化を敏感に感じ取って、より大きく心を乱してしまうんだった。あらやだ、今のは喧嘩なんかじゃないけど、この子に聞かれたくはないわね。なんていうか下品だったもの」
聞こえてるわけないじゃん、と僕は思わず言った。
ママが少し驚いたように眉を上げる。
「あらエディ、どうしてそう思うの?」
「どうもこうもある? お腹の中の子が外の音を聞いているんなら、昨日の夜にパパとママがエッチなことをしていた時のことも、それは詳しく知っているだろうからね。目だって見えているんでしょ? 生まれたら是非聞いてみたいよ。何も食べていないのにゲロは吐けるのか、ってさ」
「おい!」
「エディあなた……」
二人の顔が同時に真っ赤になって、信じられないような目で僕を見つめた。
胸の奥がきゅっと締め付けられるような気がした。二人とも妹のことばかりだ。お腹の中できっとストレスを感じてしまうから、喧嘩はよそうだって? まったく笑える話だ。目の前には僕がいるのに。僕だって二人の子どもだ。耳だって、生まれてもいない赤ん坊なんかよりも、僕のほうがずっとよく聞こえるのに。
それからお説教が始まるのかと思ったが、パパは時計を見て「ああ時間がない。エディ、帰ったら話がある」と言い残すと、せわしなく仕事に行った。ママはただ悲しそうな表情で息子の顔をじっと見据えて、食べ終わっていない食事を下げて寝室に行ってしまった。いつもならすぐに洗い物をするのに、今日はしなかった。
「ねえママ、スニーカーを買ってよ。見てよほら、もうあちこち穴開きなんだ」
リビングを出て行く前にそう頼んだら、
「お願いエディ。新しい家族がもうすぐ生まれることは、あなたも分かってるでしょ。わがままばっかり言わないでちょうだい。今はあなたの顔を見たくないわ」
廊下のほうを向いたままぴしゃりとはねのけられた。
残りの朝食を食べ終えてから、食器をシンクに持っていった。けれど思い直してカバンに詰め込む。
玄関から二階に「行ってきまーす!」と叫んでも返事がなかったので、もう一度息を吸い込む。
「なんだよちくしょう。死んじまえ!」
なんですって! と今度は声が返ってきた。どたどたと足音が響いてくる。それが階段を下りてこないうちに外へ出た。僕の気分は少しだけすっとしていた。ふん、最初から返事をすればよかったんだ!
でも胸の内のもやもやは、いつまでも消えてくれなかった。