血まみれの恋はおしまい
五月なのに盛夏を思わせる日が続いたせいでビールの残りが少なくなり、慌てて注文した樽が酒店から届いたのは日付が変わった頃だった。ビアサーバーをセットしてひと息ついた志郎は店内を見回し、カウンターの上のビアマグと灰皿を片付けはじめた。先ほどの女の三人組だけでゆうに十杯は飲んでいっただろうか。シンクには洗い終わっていないマグがまだいくつか置かれていた。ストゥールにはフレグランスの匂いがまだ残っていて、それがあまりにも濃厚なのに志郎は閉口した。こんなんでは次のお客さんに悪いな、と思わずにはいられない。カウンターの中から消臭スプレーを取り出して座面に吹きつける。これで匂いがとれなければ仕方ない、このストゥールはいったんバックヤードに下げて予備のものを出すしかない。
ビアマグを全て洗い終わった頃だった。店の入口の鉄階段を昇る足音がドア越しに聞えてきた。軽く小さい気配からするとどうやら女性のようだ。志郎が眼を上げると同時にドアがほんの少し開いて、白い顔が店の中をのぞき見るように現れた。
「いらっしゃいませ。どうぞ。」
「え、あ、あの…釜本浩志さんって、来てらっしゃいますか。」
「釜本さんは、いえ、今こちらにはいらっしゃらないですけど。」
「そうですか…」
女は当惑の色を浮かべて視線を落とした。釜本の名を聞いた志郎には思い当たるふしが無いでもない。
「あの、もしかして、待ち合わせでこちらを指定されたんですか。」
「ええ、はい…お店の名前が確かじゃないけど、たぶんこちらだと」
「そうですか…今日は火曜日ですよね、釜本さんがお見えになるのはたいてい火曜なんで、きっと後から来られますよ。それまでどうぞ、こちらでお待ちになって下さい。」
「そうですね、それなら、少し待たせてもらいますね。」
女はドアを押して店に入った。女は背筋が伸びているので一見しただけでは分かりにくいが背が低く、ロングシャツタイプというのだろうか、腰辺りにある紐で絞るかたちのワンピースを身に着けていたが、そのギンガムチェックの柄が着丈の割には大きいせいか小柄な印象がより強く感じられた。暗い店内でもはっきり判るくらい肌が白く、暖色の白熱灯の下では艶めかしいほどだった。
「どうぞ、こちらへ」
さきほどスプレーをふったストゥールのひとつ右へ誘う。重いうえにやたらと座面の高いストゥールに女は戸惑うような表情を見せ、それが志郎の眼には不思議と可愛らしい表情に映った。さっきの三人組なんてみんな脂ぎった四〇代だったしなあ、と心の中でぼやきが出た。
「おタバコは吸われますか。」
「え、いや、吸わないです。」
志郎は灰皿を下げた。それを見た女がなにか思い出したかのように志郎に訊いてきた。
「あの、釜本さんって、タバコ吸ってます?」
「え…えっと、このお店では吸わないようにしてるって聞いたことがありますね。酒が入るとブレーキが効かへんようになるからって言って、外で飲むときは初めからタバコを持ち歩かないようにしてるって」
女はなにやら嬉しそうに笑ってうつむいた。化粧で隠しきれていない隈が眼元にあるものの、肌の白さは近くで見るとさらに志郎の眼を惹いた。笑うたびに血色が良く厚い唇が緩むのがカウンター越しにもよく見えた。
その時、ドアが開いた。入ってきたのは釜本だった。
「こんばんは、いらっしゃいませ。」
志郎の言葉に眉尻を上げ、おす、と軽く声を上げた釜本だが、その表情は隠し切れない疲労の色を滲ませていた。奥のカウンターに座る女の姿を見つけると、彼女に向かって小さくうなずいてみせた。
「待ち合わせしとってね、きいた?」
ええ、なんとなく、と曖昧に返す志郎になにやら謝るような苦笑いを見せ、釜本は女の方へと歩み寄っていった。
「まだなんも注文してへんのか」
「うん、私も今さっき来たところだから。」
「そうか…シロくんごめん、マイヤーズでキューバリバーにして。」
「はい、かしこまりました。」
志郎はタンブラーに氷を入れ、ステアして水気を切った。カウンターに置かれたタンブラーが氷で冷やされてうっすらと霧をまとうのを女はじっと見つめていた。糖蜜の濃いこげ茶色に染まったラムをタンブラーに注ぎ、串切りにしたライムをふた切れ絞る。通常はひと切れだけでしかも絞った皮をタンブラーに入れるのだが、釜本が以前語ったところでは、タンブラーに皮を入れるとわずかだが苦みが出てしまうそうだ。冷蔵庫からペプシコーラを取り出す。コーラの銘柄もまた、釜本が指定したものだった。
「お待たせしました。」
釜本はタンブラーを受け取ると何も言わずひと息にあおった。ぷはあ、と大きく息をついでタンブラーから口を離したときにはキューバリバーは三分の一が無くなっていた。
「あの、お連れ様、ご注文はお決まりですか?」
志郎は女に、なるべくさりげない調子で訊ねた。医療機器メーカーの外回り営業という釜本は自身の大きな耳たぶと赤い鼻をネタにしており、この店で初めて会う客もあっという間に笑わせてしまうことから「地獄の道化師」なるあだ名を頂戴するほどなのだが、その釜本がこの女には全くというほど気遣いを見せないのが志郎には不思議でならなかった。
「はい、あの…」
「お前、酒が飲まれへんのやろ。無理せんでも、オレンジジュースにしとけばええやんか。」
釜本が女に言い放つ。そばで聞いていた志郎もぎくりとするほど冷たい口調だった。女の瞳に暗い陰が浮かぶ。慌てて志郎はカウンターの端からメニューを持ってくると、ソフトドリンクのページを開いて女に示した。
「うちの名物なんですけど、地元産のサイダーにライムを絞ってお出ししてます。あまり出回っていないレアなものなんで、良かったら」
「そう…じゃ、それにして下さい。」
女は笑いながら志郎にこたえたが、眼元には陰が差したままだった。
志郎がタンブラーに氷を入れる様子を、女は見ることもなく見ていたが、しばらくして釜本のほうを向いた。
「いつもこんなに遅いの?」
釜本は黙ってケータイの画面を見ていた。
「今の仕事って、この間言ってたところでしょ?前の会社よりも拘束時間が長くなるって」
「医療機器とアパレルじゃ比べられへんよ。出張が多くて消耗するか、同じ取引先に顔を出す回数を増やして汗を流すか、その違いや。黙って座ってるだけで仕事になるんだったら世話はないで。」
釜本は憮然とした顔でつぶやくように言った。女は黙ってしまい、サイダーの栓を抜く音がまるで花火のように店内に響き渡るのには志郎が困ってしまった。
「身体は大丈夫なの?うちの旦那みたいになったら」
「独りもんが倒れたからって誰も気にしてくれへんよ。お前だって、これからこの街で独り暮らししてみたらよう分かるわ。」
志郎からサイダーを受け取った女はタンブラーの中の氷をストローでつついた。
「離婚はいつ成立したん?」
「三か月前。」
「旦那はいま何してんの。」
「実家に帰って跡を継ぐって。」
「北関東のどっかだったよな。造り酒屋なんて、良い身分やな。」
吐き捨てるように釜本が言い、女はうつむいた。
しばらくケータイをいじっていた釜本が急に立ち上がった。
「シロくんごめん、ちょっと出るわ。例のあのピザ屋にツレが来てるらしくて、顔出してくるから。何やったら払っとこうか?」
「いえいえ、大丈夫ですよ。お待ちしていますから。」
そう、じゃまた後で、と言い残して釜本はバッグを片手に足早に店を出て行った。女にはひと言もかけず、眼をやろうともしなかった。
「あの、お手洗いは…」
女が小さな声で志郎に訊ねてきた。
「あ、あの、その鉢植えの向こうです。」
ストゥールから降りた女の右手にはハンカチが握られていた。トイレから戻ってきた女の眼元はわずかだが腫れており、短い睫に苦労して塗ったと思われるマスカラがとれかかり、滲んでいた。
志郎はかつて勤めていた他のバーで受けた師匠からの教えを思い出した。こういう空気を換えるときに採る手はふたつ、笑いをとるかBGMを変えるかである。この女性はどうやらこの街の住人ではないらしく、笑いのツボが志郎とは違う可能性が高い。しかも相手はアルコールが入っておらず、ここまで悲しみに沈んでいるのならなおのこと笑いは取りづらい。ここは安全策で行こう。志郎は店のBGMを流しているカウンターの上のPCからフォープレイのファーストアルバムを選んだ。エレキギターのハーモニクスの囁きが霧のように漂い、軽やかなピアノの音がしばらくして呼応した。シンクを片付けるふりをして女をちらとうかがうと、ストローを咥える横顔にほんのりと血の色が巡ってきたような気配が見えたので志郎は少し胸をなでおろした。三日前に友人の熱心な薦めでPCに入れておいたスムーズジャズのCDに思わぬ局面で救われるかたちになった。
「いかかです、お口に合いますか?」
志郎の問いかけに女は頬を緩めたように見えた。
「ええ、すごく。軽やかだけどちゃんとしっかりした香りもあって、ライムとも相性がいいみたいです。」
「これにウォッカや焼酎を入れてカクテルにして、っていうオーダーもたまにあるんですけど、そうするとアルコールの匂いにサイダーの軽さが負けてしまっていまいちなんです。ジンジャーエールやコーラとは違うんだなぁって思いますね。」
バーテンダーらしいことを話して場をもたせるぐらいの考えで志郎は言ってみたのだが、アルコールが飲めないのでこういう場に足を運ぶこと自体が貴重な経験なのだろうか、女はなにやら嬉しそうに眼を細めて志郎の言葉に耳を傾けていた。伏し目がちな瞳は店の白熱灯の反射を受けて濃い茶色に光った。
「こちらにはご旅行でいらっしゃったんですか?」
「いえ、今住んでいる実家を離れて、こっちで働こうと思って、それで就職活動に出てきました。」
「では、今夜は釜本さんのお宅に」
ここまで言って、しまった、と志郎は焦った。しかし女は彼の慌てる心を見抜いたかのようにクスリと笑った。
「いえ、この近くのホテルに四日ほど泊まります。どうせ夜は暇になるし、人に会う予定もあまりないからそのぶん観光に時間を使おうかなって。」
女はホテルの名を口にした。この店から歩いて五分もかからない大通り沿いにあるビジネスホテルだった。
「結婚してずっと親と実家暮らしだったし、せっかく他の街に来たんだから楽しんでやろうって思ったんだけど、連絡のつく友達もあまりいないからあんまり楽しめなくって…SNSの類は旦那に禁止されてたから…うん、プライヴァシーを守るようにってことだったけど…やっぱり、ネットの上でもいいから誰かとつながってた方が良かったなって思っちゃいます。」
女の口調に湿っぽさはあまり感じられないものの、眼元にはやはりうっすらと陰りが浮かんだ。
「さっきの釜本さんとのお話では、たしかご主人は」
「うん、ちょっと前にね…」
女は眉間を寄せてみせた。釜本が居た間には見せなかった表情であることに志郎は気づいた。
「二六で結婚して、結局十年持たなかったんだから、もっと早くに決断できればって後になると思っちゃうのよね…子供がいないんだから、夫婦の間で話がまとまれば簡単に別れられるって考えてたけど、いざとなるとお互いの実家や親がいろいろと…」
天井のスピーカーからは「アフター・ザ・ダンス」が流れていた。女性を思わせる澄んだファルセットと軽快なドラムだけが耳につくようだった。志郎はかなり迷ったが、思い切って訊いてみた。
「あのう、釜本さんとは昔からのお知合いですか?」
女は顔を上げ、無言で頷き、すぐに視線を落とした。
「高校時代からね…はっきり言っちゃうと、元カレ、です。」
小さく笑った女の口元からわずかに白い歯が見えた。
「卒業してからはあんまり会うこともなくて…同窓会も出なかったし、何年か前に偶然この街にいた後輩が教えてくれたから再会できたけど」
サイダーをひと口すすって女は続ける。
「なんか、もう別人ていうか…仕事に追われて忙しいのは分かるけど、すごく無愛想になったっていうのかな、ほら、この街の人達ってすごいコミュニケーション力じゃない?それなのに、二人になると、なんだかお地蔵さんみたいに黙り込んじゃって…」
女は指先で眼元を軽く押さえた。
「何年か会わないうちに、すごく遠いところに行っちゃったっきり帰ってこない、みたいな感じかな、もう完全に他人になったみたいで…『そんなに冷たい人じゃなかったのに』って何度言っても全然…」
視線を上げた女の瞳が滲んでいた。一瞬ではあるが志郎にはその涙が甘く美しいものに見えてしまい、慌てて眼をそらさずにはいられなかった。
ファルセットの歌声が止み、ピアノの硬質な和音が流れてきたのを見計らって志郎は切り出した。
「あの、今夜はもうお帰りになったらどうです?」
えっ、と女が眼を丸くして志郎を見上げる。
「他に寄ってみたい店が有る、とか、昔の知合いと明日会う予定が出来たから早く寝る、とか、理由を付けてね。釜本さんにはメールか何かで伝えておいていただければ、後は僕のほうで話を合わせておきますから。サイダーのお会計は釜本さんにつけるようにしておきましょう。お客様がそうおっしゃってた、って…釜本さんが渋るようなら仕方ないです、僕のほうでなんとかしておきます。」
志郎は話しながら自分の頬が紅潮してくるのを感じた。
「そう…そうね、まだ開いてるお店もあるみたいだし、美味しいもの食べてから寝たいし」
「まさか、ご飯はまだだったんですか?」
女は苦笑して頷いた。
「そんな…そう、それじゃ、この近くのお店に行ってみて下さいよ。知り合いが働いているんですけどね」
志郎はカウンターの中にある、中華バル「レリアン」のフライヤーを手に取り、裏面に俊哉に宛てたメッセージを走り書きしてから女に手渡した。
「ちょっと狭くて騒々しい店ですけど、杏仁豆腐だけでも食べておく価値はありますよ。あ、それと油淋鶏が人気です。朝方までやってますから、ゆっくりできますよ。」
フライヤーの写真を見た女の瞳が活きいきとした光を帯びるのを志郎は見逃さなかった。この瞳をもっと眺めていたい、という思いすら湧いてくるようだった。
「ありがとう。それじゃ、あの人にはよろしく言っておいてね。」
バッグを手にして女が席を立つ。志郎はカウンターを出てドアを開けようとした。すると女は志郎のほうを向き直り、すっと歩み寄ると志郎の右手を両手で握った。ありがとう、という声は耳をそばだてないと聞こえないぐらい小さかったが、女の唇が小さく開き、揺れるたびに志郎は自分の心音に自身が揺さぶられるような感覚に陥った。女の薄茶色の潤んだ瞳が彼をとらえる。彼は躊躇したが、女の左手を取り、手の甲にごく軽く唇を押し当てた。
「どうぞ、またお越しください。」
精一杯の笑顔をつくった志郎に女はすぐに顔をほころばせた。うん、と軽く頷いて女はドアを開け、鉄階段を降りた。来たときと同じく小さな、軽い音だった。
女のグラスを片付けてカウンターを拭き、バックヤードからジンの買い置きを取り出した頃に入口のドアが開き、顔を真っ赤にした釜本が入ってきた。
「あれえ、えっと、さっきの女は?」
「つい先ほどお帰りですよ。明日に急用が出来たからって」
「なんやもお、そんならぁ、そうメールか電話ぐらいしてくれんと…」
ドスンと音を立ててストゥールに腰を下ろした釜本からは濃い赤ワインの臭いが志郎へも漂ってきた。瞼は半分閉じかかり、耳も鼻も真っ赤に染まった様はまさに地獄の道化師そのものだった。
志郎はPCに歩み寄った。フォープレイを貸してくれた友人に教えられたエルトン・ジョンの曲を探す。原題は「Love Lies Breeding」だったはずだ。クリックするとピアノの、軽快というよりは力任せなストロークが店の空気をかき乱し、ねじれた叫び声のようなエレキギターのフレーズがすぐ後を追いかけてきた。先ほどまでの静謐なインストゥルメンタル曲からのあまりの落差に釜本が首を傾げる。
「シロくん、なんやぁ、こんな曲が好きなんかいな。これ誰?誰の曲?」
「エルトン・ジョンですよ。『血まみれの恋はおしまい』っていう曲です。」
へええ、と虚ろな声を釜本が出すが、しばらくすると瞼を閉じて首を垂れてしまった。
「どうします、キューバリバーにします?たまにはブラッディ・マリィにしましょか?黒胡椒とタバスコもありますから、ワインからの口直しにはいいと思いますよ。」
「それええなあ、でもぉ、ブラッディ―・マリィって、なんやシロくん、もしかして『血』つながりかいな?」
エヘッ、と目尻を下げて釜本が笑うが、志郎はそれに答えず、無言で薄く笑っただけだった。冷蔵庫ではトマトジュースが、フリーザーにはスミノフのレッドラベルがよく冷えており、どちらもひと晩中カクテルを出し続けられるくらい十分にあった。そう、血を流す人は延々と流し続けられるぐらいに。しかし、そこから離れていく者も確かにいる。
(了)




