月歌
暗い森の中に、白い月が眠っています。
冷えた湖の中には白い月が落ちていました。ゆらゆらゆれて、きらきらひかって。
二つの月が一番離れる頃、一羽の白兎が駆けてきました。長い耳を後ろに倒し、一目散に湖に跳ねていきます。
やがてその兎は湖の畔に到着しました。そして二本の後脚でぴょこんと立ち上がると、顔を動かして辺りを見渡しました。しばらく辺りを眺めていると、湖を挟んだちょうど反対側に、小さな影が一つ見えました。その影の形は白兎の姿とまるで同じで兎は一瞬自分の影かと思いましたが、雲の向こうから顔を出した月の明かりが、すぐにその正体を教えてくれました。
白兎の反対側に立っていたのは白兎でした。向こうの白兎もこちらを見ています。色も立ち姿も同じなので、傍からすると鏡を見ているかのようです。
二羽の兎は互いの姿を確認すると、はやる気持ちを抑えるようにゆっくり畔を歩き始めました。わずかに二羽の兎の距離は縮まっていきます。初めこそ亀のようにのろのろと歩いていた二羽でしたが、やはり堪えられなくなったのでしょう、どちらともなく脚を速め、ついには走り始めました。
そして二羽は、しばらくぶりの再会を果たしました。
*****
生き物にとっては昔々、ですが天体にとってはごく最近のお話です。一羽の優秀な白兎の少女がおりました。何に秀でていたかといいますと、歌を唄うこと。仲間の間で一番上手に唄うので、その兎は壱と呼ばれていました。野山を駆け回りながら歌を唄う。その昔、兎たちはそうして楽しい生活を送っていたのです。
イチの幼馴染みに、次という名前の白兎の少年がおりました。なぜツギと呼ばれていたのか。それは、その兎が誰よりも歌を唄うことが下手だったから。他のどの兎よりも歌の上手さは次。ツギの次は誰もいない。そう言って仲間たちはツギを馬鹿にしていました。
同じ年の同じ日に生まれた二羽は、小さい頃こそよく一緒に遊んでいましたが、最近ではめっきり話さなくなっていました。
イチは、仲間から馬鹿にされるツギをとても可哀想に思っていましたが、なかなか庇ってあげることができず、いつも黙ってツギのことを見ていました。
ツギは、一緒に遊ぶ仲間もおらず、いつも淋しく野山を歩いていました。本当はイチと仲良く遊びたかったのですが、一緒にいるとイチまで馬鹿にされてしまうかもしれない、そう思うと声をかけることができませんでした。
そうして何度か季節はまわりました。
ある春、やっとの想いでイチはツギに声をかけました。
「一緒に歌の練習してあげようか?」
ツギはあまり乗り気ではありませんでしたが、半ば強引に練習をすることになりました。とは言え、ツギは内心ではとても嬉しかったのです。
それから二羽は毎日のように歌を唄う練習をしました。イチもツギもお互い口には出しませんでしたが、一緒に練習できることをとても嬉しく思っていました。二羽は二羽だけの特別な時間を大事に大事に過ごしました。
イチはみんなから尊敬されていましたから、ツギと仲良くしていても誰も馬鹿にはしませんでした。
ツギはせっかくイチに歌を教えてもらっているのだから、と上達できるように一生懸命頑張りました。
夏が来ました。
イチとツギはずっと練習を続けていましたが、ツギはなかなか上達しません。それでまたみんなに「イチに教えてもらっても上手にならないのか」と、からかわれてしまいます。
ツギは悲しくはありませんでしたが、イチに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。せっかくイチが教えてくれているのに。
ある日練習の後、ついにツギはイチにこう言いました。
「イチ、僕はもう歌の練習をやめようと思う」
「どうして?」イチはツギを覗き込みます。
イチの真っ黒な瞳には元気のないツギの顔が映っています。
「いくら練習したって上手くならないし。それに僕と一緒にいたらそのうち君までみんなの笑い者にされちゃうよ。僕は自分が馬鹿にされるのは平気だけど、イチが馬鹿にされるのは耐えられない。僕は君と仲良くするべきじゃない」
ツギの目には、いっぱいの涙が浮かんでいます。ですが、その様子を見ていたイチは笑い出しました。
「何を言ってるの? 私は、あなたが上手に歌を唄えるように練習してるわけじゃないのよ。私はあなたと歌を唄ったり、お話したりするのが楽しいから、こうして毎日一緒にいるのよ」
ツギは驚いていくつか瞬きをしました。その顔を見てさらにイチは可笑しそうにしています。
「だから、練習をやめるなんて言わないで。歌が上手にならなくたって、別にいいじゃない。歌の上手さで私たちに優劣がつくわけじゃない。だいたい、歌が上手いことが何の役に立つって言うのよ。あなたのことを馬鹿にしてるやつは何にも分かっちゃいないし、あなたと練習ができなくなるなら私は、よっぽどあいつらに馬鹿にされた方がマシよ」
だから、これからも一緒にいて。
イチの言葉を聞いたツギは、また何度か瞬きをしました。イチがこんな風に思っていてくれていたとは予想もしていなかったので、飲み込むまでに時間がかかったのです。やがてツギも笑い始めました。
「じゃあなんで歌の練習なんだい? それなら別にずっと一緒に話して、遊んでいればいいことでしょ?」
「だって、私が歌を教える、って口実ならあなたと一緒に話したり遊んだりできるでしょ? それに、これはあまり重要ではないけど、もしあなたが少しでも歌が上手になれば、あの兎たちもあなたのこと馬鹿にしなくなると思ったの」
小さな声でそう呟くイチの白い頬が少し朱く染まります。
「じゃあもう僕は歌が上手にならなくてもいいや。僕は馬鹿にされても平気だし。もし君が笑われるようなことがあったら、僕が君を守ればいいんだもんね」
ツギの頬もわずかに朱くなりました。夕日が沈む、夏の終わりのことでした。
秋になりました。
紅葉した山では、その日も白兎たちが歌を唄って過ごしていました。
イチとツギは一緒に散歩をしながら、楽しそうにしています。
しばらく歩いていると、道の向こうに人間が倒れているのを見つけました。二羽が寄って見てみると、白髪の老人でした。
「おじいさん、どうかしたんですか」ツギがおそるおそる声をかけます。
すると老人は少し顔を上げて、やっとのことで小さな声を出しました。
「私の願いを聞いてもらえるかい?」
「もちろんです。何ですか?」イチが答えます。
「私に食べ物を持ってきてくれ。実は五日間何も食べてないんだ」
老人の言葉を聞いて二羽は顔を見合わせました。
「五日間も? それは大変だ」
「分かりました。すぐに探してきます」
走り出そうとする二羽に老人が言いました。
「ありがとう。私が元気になったら、お礼に君たちのお願いごとを一つずつ叶えてあげるよ」
イチとツギはにっこり笑うと「そんなことはどうでもいいですから、まずは何か食べ物を探してきます」と言って、茂みの中へ駆けていきました。
急いで飛び出してきたのは良いものの、二羽は悩んでいました。なぜなら、兎は食べ物を調達することが苦手だったからです。普段は歌ばかり唄って、草など植物を食べて過ごしている兎たちにとって、人間が食べるようなものを捕まえるのは至難の業でした。
「どうしようか」
ツギはイチの方を振り返りました。走ることに関しては、ツギはイチよりも得意だったのです。
「きっと他の動物を捕まえるのは無理だから、木の実とかを探してみるのはどう?」イチが提案しました。
「そうしよう」二羽は素早く木の上を見回しました。
「でも、どうやって取ろうか」ツギは首を傾げます。
困っている二羽の目に、木の上で猿が慌ただしく木の実を集めているのがとまりました。
「兎は何の食糧も取れないんだろ? 僕が木の実を老人に持っていくから君たちはおとなしく歌でも唄ってるといい」
上から見下ろして、猿は二羽にそう告げると老人の方に向かって、木を渡っていってしまいました。
猿は先ほどの会話を盗み聞きしていたのでしょう。願い事を叶えてほしくて、自分が先に食糧を届ける気なのです。
「良かったね。ひとまず猿さんが木の実は届けてくれるから」
「一安心ね」
猿の企ても露知らず、二羽はとても安心しました。ですが、あの老人が木の実だけで元気になるとは限りません。イチとツギは次の手を考え始めました。
「じゃあ、川で魚を捕るのはどう?」今度はツギが提案しました。
「そうしよう」イチとツギは川へ向かいました。
二羽は魚を捕まえようと川に入り、短い前脚を伸ばしてみましたが、魚は悠々と逃げてしまいます。
「これじゃ、おじいさんを助けられないよ」
全く捕まえられないのでツギは困ってしまいました。
「あ、ツギ、上流の方見てみて」
イチがツギの背中を叩いて、川の上の方を指しました。ツギがその方向に目をやると、一匹の狐が器用に魚を捕まえていました。
「兎は魚も捕まえられないのかい? イチ、だったけ? 歌が上手なだけで魚も捕れないなんて、情けない話しだね。その横の歌も唄えないのに比べると少しはマシだけどね」
狐は二羽に向かって、意地悪に言いました。
「僕のことはいいけど、イチのことは馬鹿にしたら許さないぞ」
ツギが怒って言い返します。
「ツギ、気にしなくていいって」イチがなだめます。
「狐さん、それあのおじいさんに食べさせてあげるんでしょ?」
イチは狐に聞きました。
「そうだよ。君たちの会話をたまたま聞いてたんだ。魚ならあの死にかけのじいさんも元気になるさ」
「じゃあ、良かった。早く食べさせてあげてね」
「分かってる。あ、そうだ、君たちはこの魚を焼くための薪でもたくさん運んできておくれよ。役に立たない兎でも、それくらいできるだろ?」
そう言うと狐は捕った魚をくわえて去っていきました。
「あの野郎、馬鹿にしやがって」
ツギは悔しそうに狐の背中を目で追っています。
「まあ、あの魚を老人が食べられるなら別にいいじゃない」
イチは元気な声を出してみましたが、川の水面に映った自分の顔を見ると、無力さを感じずにはいられませんでした。
「ね、歌が上手なだけじゃ何の役にも立たないの」
イチの独り言がツギに聞こえたかどうかは分かりません。
二羽は持てるだけの薪を持っておじいさんの元へ戻りました。おじいさんのところにはすでに猿と狐が待っていました。
「遅いよ」
「とっととしないと、じいさん死んじゃうだろ」
ツギは猿と狐に一瞬跳びかかろうとしましたが、イチの「さあ、早く準備しよう」という言葉に渋々うなづくと、火をおこし始めました。
しばらくすると薪に火がついたので、木の実と魚を焼いておじいさんに食べさせました。
「どうですか? 元気になりましたか?」猿が聞きます。
「早く僕の願いを叶えてくださいよ」狐が急かします。
しかし老人はなかなか元気にはなりません。
「まだ足りないんですか?」イチが心配そうに尋ねます。
「そうみたいだ。木の実や魚を持ってきてもらったのに申し訳ない」
老人は力なく言いました。それを聞くと、猿と狐はもう一度森の中に消えていきました。
「兎の君たちは何にもできないんだから、薪に火でもくべて老人が弱っちゃわないようにしといてよ」
去り際に猿が言いました。その言葉を聞いて狐は大笑いしました。
猿と狐が食べ物をとりに行っている間、二羽は火を絶やさないように注意していました。また、イチは歌を唄って老人を励ましました。
「君は歌が上手いんだね、疲れが癒されるよ」
老人に褒めてもらってイチも元気になりました。その様子を見たツギも、一安心です。
そうして三十分くらいが過ぎました。するといきなり老人の様子がおかしくなってきました。先ほどまでに比べると、明らかに弱々しくなっているのです。
「おじいさん、しっかりしてください。もう少しで食べ物が届きますから」
イチは必死に老人をさすります。先ほどまでは流暢に会話ができていた老人でしたが、今は虫の息です。
「どうしよう。早く何か食べさせないとおじいさん死んじゃう」
辺りを見回しても、猿と狐が戻ってくる気配はありません。
「どうしよう、ツギ」
イチが焦っている間にも老人が弱っていくのが分かりました。イチはすっかり涙目でツギの方を振り返りました。
すると、驚いたことにツギは優しい笑顔を浮かべていました。
「何か名案でも思いついたのね?」
ツギの笑顔を見てイチはひとまず落ち着きました。
「うん。名案が思いついたよ」ツギは真剣な目つきになりました。
「僕を食べさせてよ」
そう言い終わるや否やツギのとった行動に、イチは固まってしまいました。
ツギはなんと、自ら火の中へ飛び込んだのです。あっという間の出来事で、イチには何が起きたか理解できませんでした。
赤い火の中で兎の影が二三度動きました。
それからまた三十分が経った頃、ようやく猿と狐が戻ってきました。辺りはすっかり暗くなり始めていました。
その頃にはもう、老人はだいぶ元気になっていました。そしてその横には、イチが力なく座っていました。
「いったいどうして元気になってるんだい?」
「もう一羽の役立たずの兎はどこへ行ったの?」
猿と狐の質問に、老人は一部始終を語りました。そして重い沈黙の中、老人はイチを抱きかかえると、仲間の元へ送りに行きました。猿も狐も、もう白兎を馬鹿にすることはできませんでした。
仲間の元へ帰ったイチは涙をこらえ、みんなにツギの優しい行動を知らせました。自分の命と引き換えに、目の前の困っている人の命を救ったツギ。その決断が正しかったのかどうかは、どの兎にも分かりません。
「ただ一つ言えることは、ツギは自分のことを二の次にして、周囲を助けようとできる素晴らしい心を持った白兎だったということ」
イチを送り届けた老人は、周りの白兎にそう言いました。
「私はあなた方の大切な仲間を奪ってしまった。本当に申し訳ない」
そして深々と頭を下げました。
「私にツギを生き返らせるほどの力はありません。せめてもの償いに、ツギをここから一番近い星に暮らさせてあげようと思います。みんなからツギが見えるように、みんながいつまでもツギのことを覚えておけるように」
「そんなことができるんですか?」イチが久しぶりに口を開きました。
「できるよ。実は私は人間ではなくて、神の一員なんだ」
そう言って老人は、空を指差しました。
指の先には大小様々の星が輝く夜空の中で、けた外れに大きな黄色い星。
「いくよ」
老人がその星に手をかざすと、ただ黄色く輝いていただけの星の表面に、ツギの形をした影が現れました。
「これで君たちは、ほとんど毎晩ツギの姿を目にすることができる。ツギだってみんなのことが見える。ツギには本当にすまないことをしたが、みんなには彼の優しさと勇気を忘れないでほしい」
ツギがいなくなって、老人が神であると知らされ、ツギが別の星で暮らすことになる。一度に多くのことが起こり過ぎて、兎たちはただただ驚くばかりでした。
「そうそう、名前に濁音が入っていては縁起が悪い。今後はツギではなくて、ツキという名前で呼んであげるといいよ。響きも綺麗だ」
最後にそう言い残すと、老人は夜空へと上がっていきました。
わずかな沈黙の後、イチの目から、今まで堪えていた涙が一気に流れ始めました。涙の量は次第に増え、イチは大声を上げて泣き始めました。今までツギを馬鹿にしていた他の白兎たちも、ツキの元まで届きそうなほど大きな声で泣きました。
兎たちの慟哭はツキが見えなくなっても続きました。もう一度ツキが輝き始める頃にやっと涙も声も枯れ果て、森は静けさを取り戻しました。
どの兎たちも目は真っ赤になり、歌も唄えなくなってしまいました。
イチはある秋の夜、独りで森の中の湖に座っていました。イチは歌が唄えなくなってから、ツギがいなくなってから、ずっと独りぼっちでした。毎晩ツキが輝く頃になると、この湖にやってきては水面に映るツキを眺めていました。
そうしているとツギの歌声が聞こえてくるような気がしたのです。ツキから聞こえてくる歌を聞こうと、イチは毎晩耳を長くして座っていました。
その夜はツキが高く、まるまると光っていました。あまりに綺麗なので、空のツキと湖のツキ、どちらが本物か分からないほどです。まるで空のツキが湖まで降りてきて、舟になって浮かんでいるようでした。
イチはその日も、耳をすませてツキの歌を聞こうと湖にやってきていました。
ですがツギの声は全く聞こえません。
三時間ほどその場でじっとしていましたが、イチはまたあきらめて帰ることにしました。その時です。
「イチ」
背後から懐かしい声が聞こえました。イチが空耳かと思って振り返ってみると、湖を挟んだ向こう側に懐かしい姿を見つけました。
「ツギ?」とても驚いて、イチの口からも久しぶりに言葉が出ました。
その日から、二羽は時々、少しの時間だけ一緒に遊ぶことができるようになりました。
ツキに住むことになったツギは、みんなの姿を見れることは嬉しかったのですが、イチと同じように、やはり淋しい思いをしていました。そんな二羽の様子を見かねた神様が、中秋で、しかもまんまるツキの日だけ、特別に二羽が会えるようにしてくれのです。その日のツキが出ている間だけ、ツギは湖に降りてきてイチと遊ぶことができます。
不思議なことにその日だけはイチも声を取り戻すので、二羽は楽しく唄って話して過ごすことができました。
今でも中秋の満月がひと際明るく輝くのは、二羽が互いの笑顔をはっきり見てとれるように。そして、その日だけは月に兎がいない、という事実を隠すためなのです。