躊躇なき刃
◇
夏はとっくの昔に過ぎ去り、更には秋の終わりを感じさせるような、肌寒い日々が続くようになった。
ダイニングから見える窓の外は、豪雨と強風で、枯れた茶色い木の葉がワルツを踊る。
灰色の空には灰色の雲で覆い隠され、元の空の色を忘れてしまいそうになる。今にも雪が降ってきそうだ。
もう、冬になってしまったのか。窓なしの部屋に移動されてから、約二ヶ月が過ぎた。壁にかかっている日めくりのカレンダーは、十一月十○日を表記している。今日は父の、四十二歳の誕生日だ。
父と朝食をとりながら、そんなことを考えていた。ここ最近、私は大人しく部屋で過ごしているため、いつの間にか彼も、惨い拷問を辞めていた。
今日の朝食は特別で、わかめの混ぜ込みご飯と、鯖の味噌煮込み。デザートに、スイートポテトが出てきた。
彼は立ち上がり、椅子に掛けていたスーツを羽織り、部屋から出て行こうとした。
「お父さん、誕生日おめでとう」
ご飯を慌てて飲み込み、声をかける。
最近は、偽りのない笑顔を見せることができるようになった。心に潜む狂気も、だんだん萎れていっているのだと思う。
「覚えてくれていたんだね。ありがとう」
父の笑顔も、あの一件を思い出すこともできないくらいに優しいものになっていた。
「そうだ、めぐみ。今晩は久しぶりに、一緒に寝ないか。めぐみの好きな、あの絵本を読んであげるよ」
「お父さんと寝るのは、何年振りだろう。あの絵本もずっと読めてないから、嬉しいな」
その後も他愛もない話を続け、暫くして彼は職場へ向かった。
私も白い部屋でひとりで過ごすことに慣れ始めていた。この前、父が与えてくれた、小さな白いうさぎの縫いぐるみのおかげだ。他にすることのない私は一日中、彼女と遊んでいる。
ふと頭に浮かんだ男の姿。今頃、成宮将吾は何をしているのだろう。もう二ヶ月以上も、顔すら見ていない。
これだけ時間が過ぎれば、私のことなど忘れて、楽しく暮らしているのだろう。
抱き締められた温もりも、唇の暖かさも、全て秋風が拭い去っていった。
無理に彼に会って傷つくよりも、このまま彼を忘れ、外の世界への希望を捨ててしまったほうが、幸せなのかもしれない。
ふつふつと湧き上がる感情は、どれもこれも悲しいものばかりだ。
「───どう思う、うさ美?」
心のない筈の人形も、肌身離さず持っていれば、何かしら伝わるやうになるのだろう。
ごく稀に、このうさぎの人形と、自分が、会話をしているような感覚に陥るときがある。
実際は私の独り言を聞いてもらっているだけなのだろうが、相槌をするように耳が動いて見えた。
◇
父の帰りを知り、人形を抱き正座をして彼を待つ。不純なことを考えているつもりはないが、久しぶりに父親と寝るという行為に対し、少し鼓動が早くなる。
「おいで、めぐみ」
部屋の扉が開き、彼が顔を覗かせて手招きをする。
私は頷き、人形を手に持ったまま彼の後についていく。
階段を降り、私が前に居た部屋へ入り、彼は燭台の蝋に、ライターで点火する。蛍のような光が部屋を照らし、なんとか歩けるくらいの明るさになった。
(痛っ・・・・)
何かを踏んでしまったようだ。ガラスのようなものが刺さる痛みが、足の裏を襲う。
「めぐみ、大丈夫か」
彼は慌てて私を抱き上げて、リビングへ向かう。電気を付けたときに、丁度自分の足が見えた。幾つもの細かいガラスが皮膚にめりこんでいる。そこから流れる赤い液体が、照明の所為で鮮やかに目に映った。
父が消毒し、包帯を巻く。
「これでひとまずは大丈夫だろう」
「ありがとう」
私は、ほっとため息をついた。
しかし、安心したのは束の間だった。いつか消えたと思っていた、頭の中で響く声は、どうやら休んでいただけだったようだ。
あのガラスは、一体何なのだろう。
(・・・・・・・・・セ・・・)
私が割った窓ガラスは、もう完全に直されているだろう。
他にガラスなど、あの部屋にあっただろうか。
(・・・・・・・ロセ)
ここで私は、大きな見落としに気付いた。あの存在を忘れることなど、私にはできないはずだ。
熱帯魚の水槽を、彼が割ったのだろうか。
あの時は割れていなかったが、その後に怒りに任せて粉々に割ってしまったのかもしれない。
まさかそれが原因で、私を傷付けてしまうことになるとは、その時は思わなかっただろう。
なぜか私は、残忍な彼の行為を順々に思い出していった。あの部屋にはもう、あまり近づきたくはない。私の知らない何かが、今にも暴れ出しそうで怖かった。
(・・・・・ロセ・・・・セ・・・・)
足から取り出された、血の付着したガラスの破片を見たその刹那、私に似た声は頭の中で轟音を発した。
心の準備をしていない私の耳は、思ったよりもダメージを受けたようだ。
今まで溜まっていた憎らしさや怒りの感情が、ここで爆発したのだろう。大きな爆発音の末、気づけば声は聞こえなくなっていた。
彼にお姫様抱っこをされながら、あの部屋へと戻る。
今夜は断りたかったが、彼の誕生日ということで、どうしても拒否できなかった。
あそこでちゃんと断っておけば、全ては狂わずに済んだのだろう。
◇
彼は私をベッドに置き、自らもベッドの布団に入った。隣に人の温もりがあるだけで、とても安心するものだ。
「今夜は、月が綺麗だね」
父は部屋の縦長の窓を眺めながら、言った。
「うん。久しぶりに月を見たわ」
皮肉を挟み、返事をする。
「ごめんな。こうするしか、なかったんだよ。お父さんを許してくれ」
彼は手を合わせながら言った。
「もう少しめぐみが大人しくしてくれていたら、この部屋に戻してあげるよ」
「本当に?」
「ああ」
そう言い彼は、私の頬に触れた。
「可愛いよ、めぐみ・・・・」
いきなり彼はベッドから起きて、私の上に覆いかぶさる体勢になった。彼の顔が近づいてくる。
彼の唇が、私の顔に触れるか触れないかの位置で、右手に握っていたうさぎの人形を、彼の口に押し当てる。
「やめて」
息を切らしながら、彼に言った。彼は無言で、ただ小刻みに震えていた。
「お父さん──」
「うるさい」
人形を掴み、口から離し、彼は部屋に響き渡るような声で怒鳴った。人形の首と脚を持ち、逆方向に引っ張る。
「お父さん、やめて。」
(・・・・・ロセ)
結果がどうなるか分かっている私は、彼から人形を奪おうとした。彼の腕にしがみついた刹那、うさぎの人形は、首と胴体が二つに分かれた。
私はきっと、この時には自分を見失っていた。気が付けば、右のポケットに常備していたサバイバルナイフを握りしめ、彼の首筋に添えていた。
(・・・・・・・・・・コロセ)
彼の顔を伺うと、横目でナイフを見つめ、青ざめていた。
「───それは、どこで手にいれた」
次に彼を見た時には、顔を怒りで真っ赤に染めていた。
「あの時か」
あの時、私がナイフを盗むなど、彼には考え付かなかったのだろう。悔しそうに低い声で唸る。
「返しなさい!」
首にナイフがあてがわれているというのに、この男はどうしてこうも饒舌でいられるのだ。きっと怒りで我を失っているのだろう。私の両の瞳には、彼が滑稽に映った。
「そんな顔して、お父さんらしくないよ」
私の口元は口角を上げて一見笑っているように見えるだろうが、瞳は黒く沈んで、酷く無表情だ。
頭の中の声が響いている。声にならない叫びが、少し嬉しそうにしている気がした。
「それを下ろしなさい・・・」
彼は私の腕を掴み、ナイフの枝に触れる。彼なりの抵抗を表しているのだろうが、その指は震えている。彼の腕の力は微々たるもので、力の差がある私でも、いとも容易く振りほどくことができた。彼のその腕は、ブランコのように前後して元の位置に戻る。
ナイフを少し、首に強く押し付ける。婉曲した刃は、丁度首の輪郭を覆えるくらいの大きさだった。
赤い液体一雫。
(・・・・コロセ・・・)
首を伝い服の中へ滴る。
この頃には、彼も抵抗を辞めていた。同一人物かを疑うくらいに憔悴しきって、頭を床に落とし、うな垂れている。
「めぐみ、許してくれ。明日から、あの部屋に戻してあげるよ。だから、そのナイフを片付けるんだ」
彼は私に許しを請い、涙を流していた。透明な涙も、父のものだと思うと、どす黒く汚いものように見えた。それと血が繋がっているということも、穢らわしくて仕方がない。
「お父さん。何で、私を閉じ込めるの」
彼はここまで懇願しているのだ。返答次第では、この刃を捨てようと思った。莫迦な親の為に自ら手を汚すことも、莫迦らしかった。
「それは───」
やはり聞きたくはない。彼の言いたいことが分かったからだ。ナイフを両手で持ち、彼に振り下ろす。
「めぐみを愛しているからだよ」
その言葉が、彼の最期の言葉になった。振り下ろした刃は、彼の頭に根元まで刺さった。それはまるで、彼自身が魚達にした。
まるで串刺しだ。
串───ナイフの枝の根元から噴き出る血が、返り血となって、私の白いワンピースを赤に染める。大好きな赤に染まったそれを、私はしばらく恍惚とした表情で見つめていた。
彼に向き直ると、ナイフは彼の脳天を貫き、鼻の上から刃の先が出ている。出血は思ったよりも少ない。しかし、顔全体は熟れたトマトのように真っ赤に染まっていた。
動かなくなった彼は、ただの人形のようだ。私は、ここまで変わり果てた彼の姿を見ても、怒りや憎しみは収まらなかった。私は再び、頭に刺さるナイフの枝を握る。ぐちゅぐちゅと不快な音が静寂の部屋に響かせる。刃に絡みつく彼の肉や脳細胞が、この音を出しているのだろう。頭頂部からそれを抜き取るのに、思ったよりも時間が掛かってしまった。抜き取った瞬間に切り口から、大量の赤黒い血液の波を吐き出した。切った血管から出た血液が、その奥に溜まっていたのだろう。
刃には、赤くなった脳味噌が付着していた。恐ろしい光景だが、その時の私は極めて感情的で、死してなおも残る彼の亡骸が憎くて仕方がなかった。
一息付き、ナイフを血の滲むほどに握り、彼の身体の至る所を刺した。
「お前が私の幸せを全て奪った」
私は、悲鳴に近い声で叫びながら、彼を刺す。刺すたびに噴き出る血液を顔に浴びながら、闇雲に刺し続けた。
「お前がいなければ、私は彼と幸せになれたのに」
心臓を抉り、腹を裂き、満足のいくまで傷をつけた。
彼を痛ぶるのに飽きた頃には、彼は見るも無残な状態になっていた。床に無造作に寝転ばされた彼は、もう完全に人間の姿をしていなかった。血液は私の顔や髪、全身を染めていた。
夢中で刺していた時には気にならなかった、嗅ぎ慣れない匂いが急に鼻についた。例えるのなら、錆びた鉄だ。これが、穢れた自分の父親の血液だと思うと、吐き気さえ催した。思わずポケットに入っていたレースのハンカチで口を覆った。