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育まれる狂気

 

 ◇


 父が部屋へ私を呼びにきた時には、私は眠っていたようだった。

 昨夜、気づけば思い切り振り下ろした右手が、あの気味の悪い生き物を潰していた。その後自分でも何をしていたか思い出せない。きっと、失神していたのだろう。

 あの感触がまだ手に残っている。

「おはよう。昨日はよく眠れなかったみたいだね。目の下に隈ができているよ」

 彼は笑顔で話を続ける。

「ああ。ほら、ご飯残しているよ。早めに食べないから、死んでいるじゃないか。こんなに散らかして。

 掃除は僕がしておくから、下に行って朝食を済ませておきなさい」

 そう言いながら私の方へ近づいてくる。勿論彼は、床で死んでいるものをよけたりなどしなかった。プチ、と潰れる音が断続的に鳴る。

「返事はどうした、めぐみ」

 彼の言葉に頷くこともせず、ただ部屋の出口に向かって歩いた。部屋全体に蔓延る、おぞましいものから逃げるように。


 ダイニングへの扉を開くと、テーブルの方から、私の激減した食欲を刺激する匂いが漂ってくる。

 それに釣られるようにテーブルへと向かい、椅子に座る。

 いくらグロテスクなものを見ても、限界にまで達していた空腹には勝つことができないと悟る。

 上の階からは、掃除機の音が床を通じて響いてくる。あの部屋を一刻も早く出たかった私には有難いものだった。

 私は意識を食事へ切り替え、手を合わせ、箸を持つ。何日振りかのまともな食事。

「いただきます」という言葉をここまで心を込めて言ったのは、初めてかもしれない。

 湯気の立つ白米は、惣菜が無くとも、甘く、素晴らしく美味だ。

 平らな皿に盛られた目玉焼きとサラダは、あっという間になくなった。そしてご飯茶碗の横に配置された、味噌汁お椀を手にとる。


 (───?!)

私の目に飛び込んできたものは、惨澹たる風景だった。

 得体の知れない、巨大な目玉の浮いた液体は、奇妙という言葉だけでは言い表せないほどの衝撃を私に与えた。


「マグロの目玉には、いろいろな健康な成分やコラーゲンが豊富に入っているから、健康と美容にも良いんだよ」

 彼はいつの間に階段を降りてきていたのか、私の目の前の椅子に腰をかけて言った。

「いいダシもとれるし、見た目も可愛いからね」

 濁った液体に浮かぶそれは、可愛いなどという言葉は到底似合わない。彼の言葉には、悪い意味で、目を見張るものがあった。

 言うまでもなく、先刻までの食欲は、跡形もなく消えていった。

「食べてくれないのかい?これは僕が早起きして、めぐみの為に一生懸命に作ったんだよ」

声を弾ませて語る彼が憎らしい。私の為、私の為と言うが、何が私の為になっているのかを理解することは一生できないだろう。


(・・・・・・・・・セ)

ああ煩い。

(・・・・・・・・・セ)

煩わしい。


 彼が見ているからには、何とかして口に入れるほかないだろう。

 その大きな球体を箸で突つく。ぶよぶよとした感触が、一層私を苦しめた。できる限り小さく砕き、汁と一緒に、一気に飲み干す。

 見た目からは想像もできないような美味ではあるが、見た目の気持ち悪さゆえに、素直に美味しいとは思うことができなかった。

 父は満足したようで、食器を片付けて洗い物を始める。

 私は、彼の後姿を見ながら、思考を巡らせていた。

 彼の魚に対する執着は異常だ。きっと彼は、私が家を出ようとしたきっかけを作ったのは、彼自身が私にくれた、水槽の中の熱帯魚だと勘違いしているようだ。

 だから、そのきっかけをなくしてしまおう、というわけだったのだ。

 私がもう一生家を出させないために、魚に関するトラウマを植え付けようとしているのだろう。

 そして、彼の計画にはまってしまい見事、魚をもう見たくなくなった。

 彼らは私のせいで、油に放り込まれてしまったからだ。

 そして、父がここまで残虐なことをする理由は、その魚達に対する、自責の念を刷り込ませたかったのだろう。

自分が外の世界を望んだために、大切なものを失わせてしまったのだ、と。

 いくら外が危険だからといっても、娘の数少ない宝物を奪う父には、同情などできるはずもない。勿論、外に出たいという想いも変わらない。

 きっと外に出るだけなら、簡単に事を進められるだろう。しかし、私自身の体がそれを赦すだろうか。



 ◇


「めぐみ」

 随分と長く意識が外にいっていたようだ。父の呼ぶ声で現実に引き戻された。彼はとっくに洗い物を終えていた。彼によれば、私が遠い目をしていたため、慌てて声をかけたらしい。

「風呂に入るよ」

 私の頭の中に棲みつく声は、耳を劈くような叫びを既にやめていた。この時にはもう、狂気の芽は蔓を繁茂させ、私の心を侵食し尽くしていたのかもしれない。

「ごめんなさい。私、さっきからお腹が痛いの。お父さん、先にお風呂に入っていて。私はトイレに行ってくるわ」

 できる限りの苦痛に歪む顔を作り、彼のワイシャツの裾を掴む。

「わかった。大丈夫か。おとなしく待っているんだよ。」

 案外すんなりと許可がおり、拍子抜けしてしまった。

 父は風呂場に消えていった。私は仮病を使ったことに少しも罪悪感はなく、寧ろ観察力の鋭い彼を騙すことができたことを喜んだ。

 トイレには見向きもせず、台所へ直進する。

 テーブルの向かい側にある大きな台所は、きちんと片付けられていて、食器も丁寧過ぎるくらい、小綺麗に並べられている。シンクには水垢も無く、彼の几帳面さが伺える。あまりにも非の打ち所がないため、彼は少し神経質なのかもしれない。

 ふと目に止まった、先刻彼が洗い物をしていたもの。乾かすために、四方に隙間のあいたカゴに入っているそれらが、何故か無性に気になった。

 二人分の茶碗や皿を退かし、奥を弄る。期待通りのものは無く、台所から離れる。

 部屋を見回し、大きな戸棚を開く。二段の棚になっており、上段にはガムテープやペンチ、ドライバーなどの実用品が所狭しと、それでいて綺麗に置かれていた。

 下の段を見るためにしゃがみ、奥へと身をもたげる。

 いつしたのかはわからないが、数多くのキャンプ用具が置かれている。テントが折りたたんであり、バーベキュー用の土台や金網もあった。もしかしてと思い、さらに奥を探る。

 (───あった)

 青白く光る婉曲した刃。キャンプに行くときに携帯しやすい、小型で折りたたみ式のサバイバルナイフだ。


(・・・・・・・・・ロ・・・セ)


 初めて見るそれは、指でなぞるだけで、背筋も粟立つほどの禍々しさを帯びていた。

 それを何の躊躇いもなく自らのポケットにしまい込み、戸棚を閉めた。念の為にも、こういったものを持ち歩く必要性があった。もし彼が手を出してきたとしても、これで動きを止められるかもしれない。


 父が風呂から上がったようで、ドライヤーの音が聞こえる。

 狂気を持った緊張から、少し手が震えている。緊張を隠すために、大袈裟すぎるくらいな、飛び切りの笑顔を取り繕う練習をしながら彼を待った。

 ドライヤーの音が止み、父が部屋へ入ってくる。

「おかえりなさい」

 いつも通りの彼の顔を見たためか、心は落ち着きを取り戻したのだ。練習した笑顔で彼を迎える。


「腹痛は治ったかな。じゃあ、僕は仕事に行くから。ついておいで」

 無言で頷き、彼に素直に着いていく。

 先ほどまでの私は抜け殻のようだったために、彼に違和感を覚えられていないか不安もあるが、この際気にしないことにした。

 右のポケットに腕を入れ、忍ばせたナイフを握りながら階段を登り、部屋へ入る。

 父が施錠し、再び部屋は密室になった。

 白い壁や床には未だに慣れることができず、見ているだけで気が触れてしまいそうだ。

 ポケットからナイフを取り出し、開き、眺める。心の無いその刃は、身の毛のよだつ、氷のような冷たさをしていた。


(・・・・・・ロセ)

そう、念の為。


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