囚われた者の運命
◇
「じゃあ、また明日、家にいくから」
「毎日ありがとう。───また明日ね」
彼と別れ、ふと公園の時計を見ると、深夜の12時を過ぎていた。父はもう帰って来ている時間だ。
家に帰ったら何と言われるだろうか。
外に出たいと言っただけで不機嫌になる男だ。窓ガラスを割って脱走など、彼が笑顔で許してくれるはずがない。
割った窓ガラスから部屋に入るか、玄関から入るかしばし迷った。
どちらにしろ怒られるのならこういう場合、素直に玄関から入り、謝ったほうがいいだろう。
玄関のドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。
彼は私の帰りを待っているということが、手にとるようにわかる。ドアを開き、静かに閉める。
正面にある廊下は電気が点いておらず、真っ暗だった。
左側にリビングダイニング、右側には二階に続く階段がある。
そういえば私は、二階へ行ったことがなかった。
確か父は、自分の書斎は二階にあると言っていた。
更に廊下の奥へ進むと、正面にはトイレと洗面所、風呂場がある。
そして右は、私の部屋だ。
いつも鍵のかかっている私の部屋は、なぜか部屋の扉が開いており、中から明かりが洩れていた。
誰かが私の部屋にいるのだろうか。誰かと言っても、この家は2人暮らしだ。そう、彼しかいない。しかし、なぜ私の部屋に優貴はいるのか。
ドアの隙間から、物音を立てないように部屋を覗いた。
目線のいちばん遠くの先には、割れた窓がある。
恐る恐る目線を下へやると、黒い影がこちらに背を向けて座っていた。動いている。何をしているのだろうか。
黒い影が座っている場所は、小さな水槽の目の前だ。なにやら、水槽の中を覗いているようだ。
黒い影はゆっくりと、水槽の中に手を伸ばした。
中にいる小さな熱帯魚たちは、突然に侵入してきた魔の手から逃れるように踊り狂う。
掴まれた魚は、抵抗もできずに動きを止めた。
信じられない光景に目線を逸らすことができなかった。
彼は同じように、水槽で泳ぐ魚を次々に掴んでは水の外に出し、掴んでは外に出した。
水槽の中に魚が一匹も見えなくなる頃には、私の瞳には涙が溜まっていた。
しかし、あまりの衝撃に、身体を動かして彼を止めることはできなかった。
私にできることは、魚たちの末路をただ見つめることだけだった。
微々たる動きも起こさない魚たちを彼は、手際良く木の櫛に刺していく。
櫛の数は十本ほどになっただろうか。魚は全て同じ方向を向き整列している。
あんな惨たらしいものは、もう見たくはない。
私は、外に出て、彼の出て行く夜明けを待とうと思い、廊下のほうへ振り返る。
運悪く、家の床板は古く、大きく鈍い音を出した。
目の前にある黒い影が振り返り、笑顔で言った。
「───おかえり、めぐみ」
彼の目はいつもの光と色を無くし、深緑のように、濁った色をしていた。
◇
目覚めるとそこは、白い壁に囲まれた見知らぬ部屋だった。外を臨むことのできる窓は無く、ただ無表情なアスファルトの壁。
私は床に平伏し、寝ていたらしい。頬に触れると、フローリングの床の跡がくっきりとついている。
目覚める前の記憶が曖昧だ。確か私は、父親に。
思い出したくもない、忌まわしい記憶がフラッシュバックし、思わず口に手を当てる。胃液が逆流してくる感覚に襲われ、必死にそれを飲み込む。
一息つき改めて、私の新しい牢獄となるのであろう部屋を見回した。
壁、床。見渡す限り、白の世界が広がっている。そういえば白は、父親の好きな色だと言っていた。不意に自分のに視線を落とす。
これも白。父のお気に入りの、フリルの付いた、半袖の白いワンピースだった。
こうして私は、嫌いな色が増えた。
照明はLEDのようで、異様に明るく、眩しい光が部屋中に注がれている。
昼間だというのに───窓が無いために昼夜は定かではないが、彼がいないということは昼なのだろう───電気をつける必要もないのだろうに。壁や床の白に反射するためか、少し明るすぎる気がした。
いや、窓が無ければ明かりも取れないだろう。電気を付けていなければ、この部屋は四六時中、闇に覆われているのだろう。自分の浅はかな考えに、苦笑するほかなかった。
今日は、彼は来ているのだろうか。
ふと頭によぎるものは、私の想い人である、成宮将吾だった。
私がここを出ることができないのなら、もう彼には一生会えないのかもしれない。
人生で最初の恋は、こんなにも唐突な別れを迎えなくてはならないのだろうか。
もしかして、この恋が最初で最後のものになってしまうことだってあり得る。
彼にもう一度だけでも会えるのなら、私は今まで築いてきた家族という名の鎖を、引きちぎることだってできるだろう。
この部屋から出るという、未来の希望のある選択肢も、今の私には必要だった。
父親である彼にとって、私はどんな存在なのだろう。
彼の私に対する態度は少なくとも、父親のそれとはかけ離れている。
きっと私は、ほかの家族のようなあたたかく賑やかな居場所を求めていたのかもしれない。気付いたときには既に父親の姿しか見ることもなかった。
彼の私に対する執着も、寂しさの現れだったのだろうか。私が出て行けば、彼は孤独になってしまうのだから、当たり前のことかもしれない。
しかし私は、彼とは全く心から繋がっていないと考えている。
彼の一方通行の歪な愛情は、私には重過ぎる。
今は最早、家族という肩書きだけで繋がっているだけなのだ。
昼夜も定まらない白い密室からは、無の存在しか感じ取ることができない。
無を存在するものだと感じるようになる私もどうやら精神が参ってきたらしい。
時間がどのくらい過ぎているのかすら分からない。時が停止した世界に取り残された寂しさを、生きている中で経験するとは思いもしなかった。
静寂の夜に響く時計の秒針を刻む音は苦手だったが、今はそのくらいの賑やかさを切望している。
頭の中は対照的で、煩いほどに鳴り響く、私の声によく似た悲鳴が鳴り響いている。
(・・・・・・・・・セ・・・・)
(・・・・・セ・・・)
これは何だろう。
叫び、吐き出したいという思いが、頭の中に棲むもうひとりの私が、その心に押し込めている感情を代弁しているのかもしれない。
この静寂と騒音の刃は確実に、私の徐々に弱まっている精神を蝕んでいった。
◇
父親の帰りを告げるドアの音が、無の部屋に音を与えた。もう夜なのか。
時間の感覚がなくなったため、彼の動きでしか外の状況を知ることができない。
何もかも父親に支配されているようで忌々しい。
誰か───彼しかいないのだが───が階段を登る音が近づいてくる。
異様に大きな足音がこの部屋の扉の前で止まり、同時に鍵を外す音が聞こえる。
それから一拍おき、鉄製のドアノブが回る。
「めぐみ、ただいま」
彼は、昨日とはうって変わって、普段通りの目をしている。しかし、私を睨むわけでもなく、慰めるわけでもないその瞳は、かえって不安を掻き立てるのだった。
「お腹が減っているだろう?」
私は彼のその言葉を聞き、首を振る。あんなことがあれば、食欲などしばらく湧く筈もない。
「無理矢理にでも食べないと、身体がもたないよ」
そう言い、彼は片手に提げたコンビニのビニール袋を、私が正座で座っている、フローリングの床へ無造作に置いた。
「ここに置いておくから、夜のうちに食べてしまいなさい。朝は僕がいつも通りに作るから。早く食べないとほら、腐ってしまうよ」
彼はそう言うと、部屋の鍵を閉めて二階から降りていった。
食事をする気など到底無かったが、父親が折角買ってきたものを食べずに腐らせてしまうのは、流石に罪悪感がある。無理矢理にでも胃に流し込んでおこう。
コンビニの袋を手元に引き寄せ、中身を覗く。
どんなものが入っているのかと少し期待した刹那、私はその袋を投げ飛ばし、しゃがみ込み、床へ嘔吐した。
胃の中には、先日に父親が喉に押し込んだ魚しか入っていなかったためか、水のようなものしか吐くことはなく、涙も出た。
あり得ない。
コンビニの袋いっぱいに、ミミズのようなものが、詰め込まれていた。
部屋を見渡せば、床中にそれが散らばっているという、世にも奇妙な光景。意識をしなくとも視界の端に、奇怪に蠢く彼らの姿が映ってしまう。
父親がそれをどんな感情、表情でそれらを購入した───あるいは捕獲した───のかは知る由もないが、それらを彼が無表情で袋に詰め込んでいるところを想像すると、全身の毛が粟立つのがわかった。
このままでは、寝ることができない上に、身動きすらできない。もう今夜は、睡眠に関しては諦めた方が良いだろう。
その場に散乱したものを処理する考えを捨て、体育座りの状態になる。
この際だから、ぼうっとしながら夜明けを待つことにしようと決めた。
しかし、ほんの僅かな時間。どのくらいの時間が経ったのかはわからないが、その考えが甘かったことを思い知らされることになった。
体育座りの姿勢を続けるうちに、段々と意識が朦朧とし、睡魔が目蓋を襲う。その眠気を冷ます際に、手を思い切り床に叩きつけてしまった。