束の間の解放
◇
父親に部屋に押し込まれた後も、私はしばらくその場に座り込んでいた。
どうして自分だけが、こんな目に合わなければいけないのか。今頃になっておかしいと思った。
今までこの生活が普通のように感じたのは、慣れと、父親の洗脳のせいだったのかもしれない。
時間が少し気になり時計を覗くと、夕方の4時半だった。
もうすぐで将吾が来る時間だ。焦りながら衣装タンスを開き、お気に入りの赤いワンピースに着替えていると、コンコンと、窓を叩く音がした。
待っていたとばかりに、笑顔で振り向く私は、彼にはどう見えているのだろうか。
「そっか。そんなことが」
彼は私の話を聞きながら、相槌を打つ。
「どうしたら、外に出られるのかしら」
「外に出るだけなら、簡単さ」
彼は、さらっと重大なことを口に出し、言葉を続ける。
「窓を割ればいい」
その返答に、私はつい笑ってしまう。
「なんで笑うのさ。いちばん手っ取り早いだろう?」
必死に説明する彼が、とても愛らしい。
「でも、出られたとしても、帰りはどうするの。割れたままのガラスを見られたら終わりじゃない」
つい真剣な声になる。考えてくれた彼には感謝をするが、私にはどうしても、窓を割るという考えには納得ができないでいた。
「その時はその時さ」
どうも彼は楽観主義者のようだ。
「───無責任」
私は不貞腐れながら呟く。
「めぐみは、俺と喋りたくないの?」
「喋りたいに決まっているでしょう」
「なら、決まりだな」
そう言うと彼は、庭に転がる小石を集め始めた。
「本気なの?」
「本気さ」
彼の真剣な表情に、私の心は揺り動かされてしまう。
「めぐみは、部屋の中で、できるだけ固そうなもので、ガラスを思いっきり叩くんだ」
「───わかった」
もう迷いはなかった。目についた燭台を手に持ち、硝子に向かい、思い切り振りかざす。
窓は見た目より脆く、一度振り下ろしただけで、小さなひびが入っている。
「その調子!」
彼は手に持つ小石を、容赦無く窓に投げつけている。小さなひびができると、そこに向かって何度も投げた。
彼の渾身の一撃で見事に窓硝子は派手な音を立てて割れた。
「めぐみ、こっちにおいで」
彼は、長く筋肉質な両手を伸ばす。
私は一秒でもはやく彼に抱き締められたいがために、走って外の世界へと足を踏み入れた。
「やっとめぐみの声が聞けた」
「そうだね」
「外の世界は、めぐみにはどう映っている?」
「あなたの身体で見えないわ」
「ごめんごめん。離そうか」
「───いいえ、もう少しこのままにしていて」
「わかった」
人の体は、なんて暖かいのだろうか。彼の温もり全てが私を包み込んでいるようだ。
彼は急に抱きしめていた腕をおろした。私の手をとり、いきなり走り出す。
「どこにいくの?!」
「秘密」
彼の横顔は、見たことがないくらいの笑顔だった。
走り続けた先には、小さな空き地があった。
どうやら公園のようで、ブランコやジャングルジムもあるようだ。
彼は私の手を引き、ベンチに腰を掛ける。
「ここに連れてきたかったんだ。ほら、こっちを見て」
彼が指を指した先には、見たこともないような、大きく真っ赤な太陽。雲も朱に染まり、絵画を見ているようだった。
「窓ガラス越しに見る夕日よりも、綺麗でしょ」
彼は夕日の方を向きながら言った。
「───ええ」
あの絵本と同じ、勇気を出して外に出たお姫様は、王子様と出会い、美しい夕日を見る。そして2人はその後、結ばれる。
私たちは、これからどうなるのだろう。
「このまま2人でずっと一緒にいたいね」
「うん」
「ずっと一緒に」
「───うん」
彼はそう言うと、立ち上がって言った。
「結婚しよう。今すぐには無理だ。まず、お父さんを説得して、家を出て、2人で暮らすんだ。俺が働いて、家族を養えるようになるまでの辛抱だ。そしたら、結婚しよう」
私を必要としてくれている人がいることが嬉しかった。今にも踊りだしそうな気持ちを抑え、微笑むことしかできなかった。
◇
「もう夜も遅い。早く帰らないと、お父さんに怒られてしまうよ」
「───帰りたくない」
咄嗟に発した言葉に赤面する。
その姿を見てか、彼は、うな垂れる私の髪を撫でると同時に、彼の舌が私の耳たぶを刺激した。
突然の展開に、思わず声が出た。
「な、何するの?!」
返事はない。彼の舌は耳元からゆっくり下の方へ移動し、首すじに唇をあてがわれた。
「将吾、やめて」
まるで聞いてないように舌を這わせる。
くすぐったい。これがいちばんの感覚だ。
首すじからそのまま舌を上に這わせ、ついに唇まで到達したところで、彼は口を開いた。
「嫌かな」
「嫌、というわけではないけど、少し驚いた」
彼との距離はわずか数センチだ。彼の行動には心臓が飛び出そうなくらい驚いた。
「ごめんな。めぐみが可愛いすぎてさ」
俯きながら声を発する彼からはとても艶かしい魅力を感じた。
「嘘言わな───」
咄嗟に出た言葉を唇で封じ込められた。目を見開く私を笑顔で見ている。
「やめてほしいの?」
何故そんな質問をするのだろう。
私は意地の悪い彼に心を奪われた。
いや、前からだ。彼には感謝と共に、愛情を感じていたのだ。
私の首筋に触れ、唇が触れるだけの接吻をした。
「───やめないで」
そう言うと彼は笑みを浮かべ、彼は唇を、私の唇に再び近づける。
今度は長く、夢のように甘い。
今にも融けてしまいそうで、身体がやけにふらつく。
彼に腕を掴まれ、見つめ合いの沈黙が流れる。
沈黙さえも甘美なもので、いつまでも動けずにいる。
服の上から触れ合う肌と肌の先には、どれだけの素敵な愛があるのか、私には定かではない。
しかし、幾重にも重ねた接吻の味と、似ているのではないだろうか。
沈黙を破ったのは、彼の優しい囁きだった。彼は私の気づかぬうちに、後ろへ回り込んでいたらしい。
私の耳に直接息を吐いた。
「───愛してる。めぐみ・・・」
愛してる、などという軽く言えるような言葉でも十分だった。数えきれぬほどに望んだ、彼からの愛。私は今、彼を独り占めにしている。彼の目は今、私だけを見ている。それだけで満足だった。