螺旋報復
◇
「───だったら僕も、母さんを殺していいんだよね?」
「───え?」
当然だ。母の殺人を正当化する理由が憎悪なのだとしたら、僕にも彼女を殺す真っ当な理由があるということではないか。
母には僕の言葉を否定することなど決してできないだろう。
「僕は母さんが憎いから殺すんだ。それの何処がいけないの?母さんだって、父さんが憎かったから殺したんだろう?」
「それはそうだけれど・・・あなたが私を殺す必要なんて無いでしょう?それとこれとは別じゃない・・・」
「別だって?何が違う。こんなにもはっきりしているじゃないか」
「薫、愛しているわ・・・だからそんなこと言わないで頂戴」
彼女は額に手を当て情けない声を絞り出した。
「母さんは僕に恨まれているのが嫌なんじゃなくて、殺されることが嫌なんだろう?だったらそう言えばいい。僕はもう母さんを親として見ることはしない」
「そんな・・・」
「───だから、母さんの本音を教えてよ。僕は、母さんのことがよく分からないんだ」
言いたいことは殆ど吐露した。
後は、彼女の言葉を待つだけである。
暫くの沈黙を破り、母は徐々に本性を表した。
「───貴方は目を離すとすぐに何処かへ消えていくでしょう?見えなくなってしまうでしょう?」
「だから動けないように、私以外を見ることができないようにするしかないのよ」
母は、もう僕の中ではただの醜女に成り下がっていた。しかし容姿だけは美しいのが、何とも憎らしい。
「───やっと母さんの本音が聞けた。これで心置きなく殺せるよ」
彼女は何も言葉を発しない。諦めがついたのだろうか。
重すぎる静寂は嫌いだ。
「僕を産んで後悔してる?してるよね。こんなことになるとは思わなかったでしょ」
「薫・・・そんな───」
「僕をこんなにしたのはお前の所為なんだ!───あの世で反省すればいい。僕を産んだことを」
僕は歯切れの悪い母に心底落胆し、包丁を向けた。
母は小さな悲鳴をあげ、リビングから飛び出した。
転びながら走る彼女の背中を見送る。
僕はゆっくりと追尾することにした。
寿命を延ばしてやる代わりに、残りの命には恐怖だけを刻む。
恐怖に慄く彼女を見て悦ぶ僕には、少しだけ加虐嗜好があるのかもしれない。
母のあの表情を見たとき、僕の下半身が反応するのが分かった。
今まで性的欲求など覚えたこともない僕が、こんな形で昂るなど思ってもみなかったことで、動揺を隠しきれない。
もしかして母にも、このような性癖があったのかもしれない。
血の繋がりとは何とも愚かなものなのだろう。切っても切れぬ血縁関係は、どこまでも僕から離れようとしない。
きっと母は弱いものを痛ぶることで、その征服欲から興奮するのだろう。
しかし僕は違う。母のように屈強な者の膝を折ってやるのが愉しくて仕方がないのだ。
我ながら、気味が悪い。
◇
「薫!あんたは私に従ってればいいのよ!言うことを聞かない悪い子なんかいらないの!死んでしまえばいいんだわ!」
いつのまにか廊下の向こうで座り込んでいた彼女が必死の形相で叫ぶ。この状況でも彼女の刃はまだしっかりとその腕に握られていた。
母は僕を殺そうとしている。
このままここに静止していたら、彼女は僕に迷いなく包丁を突き立てるのだろう。
無感情な瞳で、冷酷な罵倒を浴びせて。
その光景を想像した刹那、僕の股間は痛いほど膨らんだ。
血に塗れた背徳感が、僕を昂らせる。母さんに殺されたとしても、僕は後悔しないだろう。
美しい母が、僕の喉元を掻き切って内臓を玩具の様に弄び、血に染まった母が歪んだ顔で僕に微笑む。
こんな想像をすると、それが現実となっても悦べる気がするのだ。
僕は、マゾでもあるのだろうか。
サドとマゾは磁石のように引かれ合い、そして反発し合う。対極するそれらが共存していることだって、そこまでおかしいことではない。
可笑しいのは、目の前で震えながら刃を構える彼女だろう。
「母さん、惨めな格好でそんなこと言われたって、怖くなんかないんだよ」
「薫!殺してやるわ。あんたなんかもう私の息子なんかじゃあない」
「殺してもいいよ。母さんに殺されるなら大歓迎さ」
「───そう。そうなの。うふふ、望み通りにしてあげるわ」
彼女は、玄関側の廊下にいる僕に飛びかかってきた。
僕の懐に刃を挿れようとしている彼女の両腕を、僕はしっかりと掴んだ。
男の僕には力ではかなわないようで、簡単に刃を払い落とすことができた。
そのまま彼女を抱き締める。手に握ったナイフが彼女を貫かないように注意して。
「母さん・・・」
最後の助け船だ。ここで彼女が観念したら、殺さなくてもいいかもしれない。
「何するのよ!離しなさい!」
だが母はやはり母で、他の何者でもなかった。
言葉通り、彼女を離してやる。玄関のタイルに打ち付けるように、彼女を精一杯の力で投げた。
タイルに尻餅を付いた母はすぐに起き上がり、僕に背を向け、ドアノブをガチャガチャと回した。
「そこから出れば母さんは逃げられるかもしれないよ」
「でもさ、鍵が掛かってるんだよね。内側からなら普通、開けられるよね?」
こちらを向いた彼女は、いつもより青白い顔をしている。
「僕を出さないために施した仕掛けが仇になるなんてね、母さんは馬鹿なのかな?」
続けざまに放った言葉たちは、彼女の心臓を深く抉ったようだ。
殆ど放心状態で、目も虚ろだ。
母の白い首筋の横に左手を置く。刃は右手にきつく握って。
「ナイフで死にたい?」
彼女の耳許でそう囁いた。
「ねぇ母さん、答えてよ。望み通りにしてあげる」
先刻の母の言葉をそのまま返す。
「───薫の腕で殺して・・・」
僕は頷くでもなく、ただ母の目を見た。薄っすらと瞳に涙が溜まっている。まるで水晶のように綺麗で、そこから頬を伝い落下させてしまうのは残念に思える。彼女の涙を指で拭い、そのまま首に手を掛けた。
細い首は今にも折れそうで、指に込めた力を少し抜いた。
母は苦しそうに喘いでいる。
憎しみの根源の母が死に絶えていくのは嬉しい筈なのに、どうしてか哀しく、一気に息の根を止めることができない。
「薫、もう殺して・・・」
その言葉を切れ切れに放った母は、死を覚悟した目をしていた。唇には僅かな笑みを湛えて。
母の言葉に押されて僕は再び彼女の不健康そうな首に両手を回す。
「───おやすみ、母さん」
頚動脈をゆっくりと圧迫する。
脳に血液が回らなくなり自然に死んで逝けるのだと言う。こうしていれば彼女は、それ程の痛みもなく、あの世に行くことができるだろう。
数分が経った頃には、彼女は事切れていた。口から垂れる胃液の臭いが鼻についた。
それでも母の死顔は綺麗だ。まるで人形のように。
何故か涙が溢れた。あんなにも憎かった彼女の死を前にして、こうも動揺するなど、あってはならぬ事だというのに。
激情のまま母を殺すことは躊躇われた。あんな母を見ているのが辛かったのもある。せめて最後だけは、親孝行したって罰は当たらないだろう。
僕を縛り付けるものは、もう何もなくなった。
しかしどうしてだろう、嬉しさと共に、言いようのない感情に襲われる。
無力だ。
僕は余りにも無力だ。
一人では何もできないことを痛感した。怒りに任せて刀を振れば、それで終わったことではないか。
今日彼女を殺すことは総て計画的だった。
この6年間、過去と何一つ変わらぬ生活をしてきたわけではなかった。
過去に無かったもの───憎悪という心を手に入れた僕は、ゆっくりと行動に移した。
今までは目に付いた書物を適当に読んでいたのだが、ここから僕の人生を変える為の鍵を探すことにしたのだ。
偶然なのか必然なのか、僕の祖父は医者だった。医学系の本には困らなかった。
何十冊、何百冊と読んでいくうちに、僕の意志は固まった。
そう、母を殺すという意志だ。
彼の遺した本の中には、様々な死が載っていた。結果的には実行することはなかったのだが、いい刺激にはなった。
結局僕は、彼女を楽に殺してしまった。
総ては復讐の為に用意していた舞台だというのに。
───どうして、僕は母を殺したことに対して罪悪を覚えているのだ。
そしてその罪悪感の平行線上に何故、性的な匂いを感じてしまったのだ。
母の亡骸を横に、僕は自慰行為をした。最低だ。人間のすることじゃない。
そんなことは分かっている。
それでも、抑えきれない欲を溜め込んだら、それをどこかに向け爆発させそうで怖かった。
僕は、背徳的な情景に酔いしれ、絶頂を憶えてしまった。
近親者の骸にこんな感情を覚えてしまうことに吐き気を催したが、それ以上の悦びがあった。
その悍ましい行為が終わった後は、途轍もない虚無感に襲われた。
僕にはもう、母はいない。
誰もいない。独りなのだ。
殺人を、別に後悔したわけではない。ただ死に絶えた彼女を見ているのが辛かった。
孤独を嫌でも実感させられてしまうからだ。
彼女の最後の花向けに、その美しさを腐らせないようにしよう。そう思った。
過去に本で読んだことがある死蝋というものを作り出せたなら、死後の彼女でも永遠の美を手に入れられる。
死蝋とは、菌が繁殖しない状況下で、外気と長期間遮断された結果、腐敗を免れることができ、脂肪の影響で死体全体がチーズ状、または蝋燭状になったものだ。湿ったところでできやすいという。
有名な死蝋だと、世界一美しい永久死体ロザリア・ロンバルドだ。髪の毛は抜け落ちることもなく、ふっくらとした頬がそのままの状態で保存されている。
うまく事が運べば、彼女もあのようになり、美しいまま発見されるだろう。
彼女の遺体を風呂場に運び、湯を張る。彼女を壁に持たれかけさせたところで、僕は風呂場から出て、完全な密閉状態を作った。
母が、美しいままでいられるように、心から願おう。
◇
僕はもう後戻りはできないのだろうか。母と同じ、異常者として生きていくことになるのだろうか。
血の繋がりとは、どうしてこうも忠実なのだろう。
母の血を受け継いでいるなど決っして認めたくはないが、認めざるを得ないのだ。
性的なものだけではなく、彼女を線でなぞったように同じ行為をしている。
このまま僕が社会に出て、普通の家庭を持ったと仮定する。
きっと僕は、未来の妻を殺す。
そして未来の子どもに復讐されて死ぬことも運命なのだろう。決っして僕の思い通りにはならないのだ。
これ以上の犠牲者は出してはいけないという小さな使命感が、僕を突き動かした。
これまで従ってきた運命に、最後だけは抗おう。
足許に転がっていた刃を手に、僕は闇に向かって駆け出す。向かうのは勿論、あの鳥居の奥の沼。
この世の何処にも必要とされていない僕でも、あそこなら受け入れてくれる筈だという淡い期待を抱いて。
荒れ果てた公園を、雑草を踏みつけながら歩く。今日は満月、あの日と同じだ。
六年前よりも錆びた鳥居をくぐり抜けて沼に到着した。
藻に塗れた沼は相変わらず汚らしく、同時に懐かしくもあった。
ここで世界の素晴らしさを感じた。生きていてよかったと思った。しかし、世界自体は何も変わっていない。
ここだけが僕を認めてくれる。
ここだけが僕の居場所だ。
ふと辺りを見渡すと、紫色の見慣れぬ花───カキツバタという花だ───が咲いていた。
花言葉は「幸せは必ず来る」だったか。
この花たちは、沼をぐるりと取り囲み、僕を見守ってくれている。
何処まで続くか分からない沼の底。
そこに足を踏み入れることに、既に躊躇いはなくなっていた。
死に対する恐怖はない。未練ができるほどこの世に執着もしていない。
僕を生かしていたのは、この情景への憧れだけだったから。
ひやりと染みる水は少し粘りがあって、僕の脚を絡め取る。まるで僕を誘うかのように。
真っ逆さまに落ちた。
呼吸の苦しさも忘れて、水面に映る満月を見上げながら。
闇に吸い込まれて、僕はゆっくりと目を閉じた。




