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ふたつの刃

 

 ◇


 長い年月が経った。

 長いと形容もできるし、短いと言われれば短い日々だった。

 変わらない毎日を送っていると、これが当たり前のことなのだと麻痺してしまうらしい。

 同じ時間に起き、同じ時間に食べ、風呂に入り、排泄し、眠る。健康面には全く申し分ないだろうが。


 6年という月日は残酷だ。

 僕の身体は大きくなるというのに、目の前に広がる景色は全く変わらない。

 白い牢獄のようなこの部屋も、僕の成長にしたがって小さくなっていった。

 僕は今日、12歳の誕生日を迎えた。

 花の香る5月。春雪はすっかり消え去り、命の息吹が地面から這い出す季節だ。


 6年前の秋は様々な経験をした。

 外の世界への跳躍や、母からの叱咤。後者は自分の所為なのだが。

 母に頬を打たれた後、彼女からの尋問は二時間程続いた。

 言葉通り彼女は怒りはしなかったが、目付きが───異常だった。まるで妖や怪物を見ているような印象を覚えた。

 母の濁った朱の目は恐ろしい。全く感情を読み取ることのできない表情で僕を見据えているだけだった。

 ───どうして外になんか出ようとしたの?

 ───どうして?

 ───どうしてなの?

 ───どうして?


 五月蝿い。

 そう思った。

 母には僕の感情くらい汲み取れるだろう。過去に全く同じ経験をしているのだから。

 外が出たかった。

 白い部屋から出たかった。

 それだけだ。

 きっと彼女は知っていてわざと聞いている。

 外に出たい。

 そう考える事すら悪いことなのだと、僕の脳に直接語りかけているのだ。


 ただ外に出たかったのだと伝えても、母は怪訝な顔をした。

 私の息子がそんな事を考える筈がない。外は危険なのだから絶対に出てはいけない。

 こんなことを繰り返し叫んでいた。

 幾ら僕が本音を伝えたとて、彼女の心を動かすことはできないだろう。

 結局僕はその後も続いた尋問には殆ど答えなかった。


 やっと地獄の時間が思ったら、彼女は泣き始めた。

 ───あなたを大切に思っているから怒るし、叩いたのだからどうか理解して欲しい。

 ───これからはそんな物騒な事しちゃだめよ。ここにいればあなたは怪我をする事もないし、幸せなのだから。

 そう言っていた。

 この家にいて幸せだったことなど、数えるほども無かった。

 父親もいない、友人もいない、外で遊ぶこともできない。子どもらしいことが何一つできなかった。

 何が幸せだというのだ。

 確かに母からすれば、僕が大人しく座っている姿を見ていることが彼女の幸せなのかもしれない。

 しかし僕は。

 幸せの意味すら知らなかった。

 毎日同じ行動をただ無感情に過ごしていた。

 僕のことを何も知らない彼女が、僕の総てを知ったように話すのがとても嫌だった。

 ───あなたは本当に本を読むのが好きなのね。

 ───お母さん、薫に愛されて幸せだわ。

 僕はそんなこと一言も言っていない。

 他にすることがないから僕は、祖父の遺した本を読むしかないのだ。おもしろいと感じたこともない。ただ無駄な知識が増えていくだけだった。

 母を愛してなどいなかった。母親として僕を育ててくれる事には感謝している。

 感謝だけだ。愛情も尊敬もない。それが親として当たり前のことだと、僕が理解しているからだ。

 彼女は12年間僕の何を見てきたのか。

 知っていることは精々、好きな食べ物や嫌いな食べ物くらいだろう。内面のことなど、何一つ分かってはくれない。

 ───どうでもいい。彼女が僕をどう思っていようと関係のないことだ。

 もう、どうでもよかった。

 母がいなくなれば、総ては解決するのだから。



 ◇


「薫、今日は誕生日ね」

 夕飯時、突然リビングの電気を消された。蝋燭の灯火だけがゆらゆらと動いている。

 火が目の前に来た時に、母は口を開いた。

「火を消して」

 その言葉通り、12個の火に向かって息を吹きかけた。すぐにまた部屋は闇に包まれる。

 しかし闇は母の手によって払拭された。電気が目に刺さるほど眩しい。

 目の前には大きなバースデーケーキ。真っ赤な苺が鮮やかに白い雪の上で座っているようだ。

「びっくりした?作ってみたの」

「作ったんだ。凄いね」

「ありがとう」

 小さく微笑んだ彼女は言葉を続ける。

「誕生日おめでとう、薫。これ、あなたの好きそうなもの」

 そうして彼女、一点の曇りもない笑顔で、真っ赤なリボンのかかった袋を手渡してきた。

 その笑顔は美しく、叫び狂っていた彼女からは想像もできない表情だ。

 6年前のあの日、彼女は憤怒し、慟哭した。その時間が苦痛で耐えきれなかった僕が謝ると、すぐ涙を止め笑顔になった。

 ───あなたは謝らなくていいの。でも、これからはそんなこと絶対にしないでね。

 ───愛してるわ、薫。

 その言葉の後、すぐに僕は元の部屋に戻されることになったのだ。


「あ、ありがとう」

 プレゼントなど期待していなかったために、素直に嬉しかった。この歳にもなって誕生日プレゼントというのも、少し照れ臭いのだが。

「───さあ、私はケーキを切るから、その袋を開けて」

「うん」

 直径15センチ・メートル程の四角い箱に、白い包み紙と桃色のリボンがかけられていた。

 それを丁寧に剥がすと、真っ赤な箱が現れた。

「さあさあ、躊躇わなくていいのよ」

 母のその言葉を聞き、蓋を開けた。

「───本?」

 赤い箱からは、分厚い本が数冊出てきた。異様に重かったのは、この所為だったのか。

「薫が何に喜ぶのかよくわからないから、本にしたの。好きでしょう?」

「う、うん・・・」

 僕が本が好きだなんて、いつ言っただろうか。

「実はこれね、私の本なの。貰ったものだけど。薫にも読んでもらいたくて」

「ありがとう・・・」

 本はどれもこれも黒く分厚い。タイトルは『もう一人の狂気』や『自我の欠乏』など似たようなものばかりだった。

 彼女は僕が狂っているとでも言いたいのだろうか。そんな気がしてならない。僕の精神は、至って健全だ。寧ろ母の方が、この本をじっくり読むべきだろう。

「嬉しい?薫」

 そんな考えもあってか、彼女の言葉がわざとらしいものにしか感じられなかった。

「嬉しいよ・・・ありがとう」

 作り笑いが歪んでいる。

 もう彼女への感謝の言葉すらお座なりだ。

 それもそうだろう。母への感謝も消え、ただ残ったのは殺意の二文字だけなのだから。


「よかった。それはお部屋に戻ったら読むのよ。折角切り分けたんだから、ケーキを食べましょうね」

 母の作ったケーキは美味だった。しかし僕は母からの視線に気を取られ、殆ど無言のまま口にケーキを放り込んでいたために、十分に味わうことなど不可能だった。

 刺さるような視線。舐めるような視線。

 彼女からの視線はどうも気分が悪かった。

 僕の殺意を見透かすような瞳に吐き気がする。

 早く僕の目の前から消えてくれれば、どちらも苦しまなくて済むのに。

 銃を持った悪人を制することのできるのは、銃を持った善人だけだ、という言葉を聞いたことがある。

 毒を持って毒を制す、とはまた違う響きだが、どちらも僕の好きな言葉だった。

 もう、彼女をこのままにしておいたら、僕の幸せは無い。

 この手に一丁の拳銃が握られていたとしたら、迷いなく引き金を引くだろう。

 未来が見えない人生など、送る意味がないのだ。

 だから僕は、目の前の怪物を殺さなくてはならない。


 テーブルにある欠けたケーキを横目で確認し、横に置かれたクリームの付着した包丁を掴む。

 僕はこの時、不意に笑いが込み上げてきた。

 刃物を手にし、昂ぶったからではない。

 僕が包丁を手にとると同時に、台所にいた母が素早くナイフを手にしたのが滑稽だったからだ。

「母さん、何でそんなの持ってるの?おろしてよ」

 つい漏れそうになる笑みを殺す。

「あなたこそ、何でそんな・・・そんなもの持ってるのよ!離しなさい!」

 刃を両手で握り締めながら母は必死に叫ぶ。

 僕は「嫌だよ」と無表情を装い、そう言葉を放った。

「ど、どうして・・・」

「薫、どうして、どうしてそんなことするの?」

「───まだ分からないのかい、母さん」

 わざとらしくため息をつき、軽く母を睨む。

「僕が何を一番に望んでいるか、分かる?」

 少しの間があいた。

「───この家で、静かに暮らすことでしょう・・・?」

 恐る恐る、彼女は答えた。声はか細く、震えている。

「それは母さんの望みだろう?!」

 母への嘲笑は軽蔑に変わった。


「母さんは、人生で幸せだったことってある?」

 目を見ずにまた質問を投げかける。

「薫が生まれてくれてきたことが一番の幸せよ」

「そうじゃないんだ。母さんが生きていて、人生に何を感じたかなんだ。他人は関係なく、母さん自身の経験だよ」

 母はうな垂れた。僕は続けて言葉を発する。

「僕が、生まれてきて幸せだったことなんて一度もなかった!」

「薫・・・!」

「本当だから仕方ないだろう?!」

 一呼吸置き、 別の質問を投げかける。彼女に何を言っても仕方が無いことは、僕が一番良く知っているのだから。

「母さん、僕のことどう思ってる?」

「愛してるわ」

 彼女は間を開けずに答えた。

 本当にそう思っているかは、甚だ疑問である。

「僕は母さんを殺したいほど憎んでいるよ」

「───そう・・・」

 悲しそうな顔をしていた彼女は、僕の言葉を聞いた後、豹変した。

 やはり、彼女は僕のことをそこまで愛しているわけではないのだろう。

「薫は、そんなことを思っていたのね。───そう・・・私はね、───あなたの寄生虫になって内側から蝕んでいきたい。いずれ私は脳にまで達してあなたを操り人形にするの」

 笑いながら母は僕にねっとりとした視線を向ける。

 僕は母の本性を知った。

 親子の愛情とはまた違う何か。

 行きすぎた依存は、いずれ破滅を導くというのに。

「僕は母さんの人形なんかじゃないよ」

「薫は私のお人形よ?いつもいい子に座っていればいいの。

 ───それなのにあなたは、余計な感情を持って、窓の外に興味を示してしまったの」

「それは───」

「悪い子ね、薫。許せないわ。そんなに私が嫌いなのね」

「母さんに縛り付けられていたから僕は外に出たんだ。逃げたんだ。

 母さんが僕を自由にしてくれさえしたら、母さんを憎むことなんてなかったんだ」

「総て私の責任なのね。私はあなたのためにそうしたのよ」

「───母さんも」

「え?」

「───母さんも、家に閉じ込められていたんだろう?実の父親に

 。

 憎くなかったの?憎かっただろ?憎かったから、父さんと一緒に外へ出たんだろう?」

「薫・・・あの人たちのことは言葉に出さないで」

「母さんは散々と嫌な目にあったんだろう?!だったら何故僕にまた同じことをしているんだ!」

「あんな奴と、私を一緒にしないで!」

「───あんな奴、この手で殺して正解だったのよ」

 母は小さな声で、しかしはっきりとそう呟いた。聞き間違いなどではない。

 母が、父親を殺した。僕と同じように、実の親に殺意を抱いていた。

「母さん、母さんが自分の父親を殺したの?」

「聞いてたの」

 彼女の舌打ちを、僕は聞き逃さなかった。

「───ええ、そうよ。殺したわ。父さん。あなたのお父さんも、お祖父さんも」

 衝撃の事実を、彼女はさらりと言いのけた。

「私の父さんは、私が生まれてから一度も、外の世界へ出してくれることはなかった。

 毎日一人で、水槽の前に座っているか掠れ切った絵本を読むか、細い縦長の窓から外の変化を見ることしかできなかった」

「───父さんは、狂ってた。私が外に逃げて戻ってきたとき、彼からプレゼントされた熱帯魚たちは、総て串刺しにされていたの。火で焼かれたりね。

 その次の日からはいろんな嫌がらせをされて、窓もない白い部屋に閉じ込められたの」

「僕の部屋に似ているんだね」

「───ええ。

 それで、もう限界だったの。ある夜にナイフを探して隠して、父さんを殺した。魚たちの復讐のつもりで、同じように串刺しにして、家に火をつけてやったわ」

 彼女の瞳には怒りが、しかし唇には笑みがあらわれている。

「───その後、将吾のお義父さんの病院に入院させられてね。殺したの、お義父さん。あ、あなたのお祖父さんね」

「どうして?」

「狂っているって言ったの。私のことを。仕方がなかったから父さんを殺しただけなのに。

 あんな奴を殺してなんで私が殺人鬼扱いされないといけないの?それだけならまだしも、それを将吾に言ったのよ?彼との結婚も反対していたの」

 僕は何も言えなかった。思いつく言葉もなかった。

「彼は私によく本をくれた。どれもこれも精神に異常をきたした人たちのお話。あの時は、遠回しに私は異常だって伝えてたのね」

 ───彼女はそれを僕に渡したのではないか。やはり彼女も、遠回しに僕がおかしいのだと言っていたのだ。

「そしてお義父さんはね、私はただの人殺しで、父親はただ私を社会に出さないために隔離してたって言ったのよ。

 私の母さんも、私が殺したんだって。信じられると思う?」


 信じられる信じられないというよりも、それが事実なのだろう。

 やはり母は狂っている。

 お祖父さんの話も、総て本当のことなのだと思う。

 母は実の両親を殺した。父親に至っては、ただの被害妄想だ。

 父親は狂った母を抑えるために部屋に閉じ込ていたのは本当のことだろう。

 しかし、魚は自分で殺したのだ。理由は知らない。だが昔から被害妄想の激しい母だから、突発的にやったとしても納得できる。


「だから殺した。赦せなかった。その後は将吾も殺した。あなたを産もうとしたら、反対したのだもの」

 父さんが反対するのも無理もないだろう。寧ろ彼が正しい。彼女はその時は18歳くらいか。社会に出ているわけでもない。

 何の経済力もない彼女が、一人の人間を育てるなど、無理な話だ。

 しかし彼女は僕を産んだ。

 最愛の夫の命を引き換えにしてまでも、この僕を選んだ。

「殺す必要はなかったんじゃないの?ただ反対しただけなのに」

「───もう終わったことなの。もういいのよ」

 母は頭を左右に振りながら情けない声を出した。


「───僕なんか生まれなければよかったのに」

「・・・薫?」

「僕なんか生まれなければ、僕も母さんもこんな思いをしなくて済んだんだ。

 全部母さん自身の所為だよ。産んだのも僕をこうしたのも総て、母さんなんだ」

 彼女は何も答えない。ただ下を向いたまま立ち尽くしている。右手に握られた刃は、するりと手からこぼれ落ち、床に横たわった。

「母さんは、憎いからみんなを殺したんだよね?」

 ただ床を見ている彼女の頭部を見ながらそう質問した。

「え、ええ───」


「───だったら僕も、母さんを殺していいんだよね?」




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