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穢れた若葉

 


 ◇


 あの夜から三ヶ月。十月になり秋が深まってきたらしく、白い部屋の床や壁は冷たさを増した。

 普段の生活にうんざりしてしまった僕は、また一芝居打つことにした。この時にはもう、母を騙していることに対する罪悪は何もなくなっていた。

 母に髪を乾かされながら、思ってもいない言葉を呟く。

「今日はママと眠りたいな」

 母は驚いたようだったが、愛息子の甘えに満更でもなかったようで二つ返事で承諾された。

 母に手を掴まれ寝室に向かい、二人でベッドに横になった。普通のダブルベッドだったが、今は母しか寝ていないと思うと少し大きく見えた。

 母は眠るでもなく、僕の顔をじっと見つめていた。

「お母さん、寝ないの?」

「寝て欲しいの?」

 母は笑いながら言ったが、僕の心臓は飛び上がった。思惑を見透かされているのではないか、と。

「そ、そういうわけじゃないよ。ただなんか、恥ずかしいなって」

「ふふ、可愛いわね」

 彼女には悟られてはいけない。可愛い息子を演じなくてはならない。

「どうして今日は私と寝たかったの?」

「寂しかったんだ」

「寂しかった?」

「うん。ずっと一人でいると、寂しくて・・・」

「そっか・・・なら、一週間に一回、こうやって二人で寝る日を作りましょうか」

「いいの?!」

「ええ」

 嬉しい誤算だった。これからは母が眠ってくれさえすれば、外に出る機会が増える。

「嬉しいな。お母さんと一緒に寝れば、寂しくないよ」

「薫がこんなに自分の気持ちを出してくれるなんて滅多にないから、私も嬉しいわ」

 そう言うと母は僕の頬に接吻をした。驚いて何も言えなくなった僕を見て、彼女は微笑んだ。

「おやすみ、薫」

 そう言って目を閉じた彼女を暫く見つめていたが、一向に目を開く気配はなかった。

「おやすみなさい」

 そう彼女に囁き、身体の向きを変える。

 僕はよくあそこまで平然と嘘をつけるようになったものだと、母に背中を向けながら苦笑する。

 このまま息をするように嘘をつく日が来るのだろうか。悪いことだと理解しているが、自分の幸せの為につく嘘は仕方がないだろう。


 母の寝息が背後から聞こえる。物音を立てぬよう起き、そろりと寝室を後にした。

 廊下を早歩きしリビングに行き、この前の窓から地面に降りる。

 余りにも上手く行きすぎて拍子抜けしてしまった。あとは外で思う存分過ごし、母が起きる前にベッドに戻るだけだ。

 僕は脇目もふらずに公園に向かった。勿論、あの景色をもう一度見たかったからである。

 自然と早歩きになった。僕は早く、あそこへ行かなくてはいけない。ほんの僅かな、束縛から解き放たれる時間を、できるだけ長くする為に。

 公園の遊具には目もくれず、草むらを掻き分ける。十月になり、ススキのような秋の草葉が増えた。

 今度はすぐに鳥居が見つかった。吸い込まれるように走り、鳥居をくぐり抜ける。

 しかし───

「何でだ・・・?」

 唖然とした。

 濁った緑の水は変わらずにそこにある。しかし───暗いのだ。

 何処まで見渡しても暗闇が続いている。

 暗闇にぼうっと浮かび上がる沼は醜悪で、おぞましい。

 あの夜のあの景色は、どこにいってしまったのだろうか。

 あの、美しく輝いていた発光体達は───

「こんな筈じゃ・・・」

 この瞬間、僕の最初で最後の希望は崩れ去った。

 この世界に魅せられ、この世界に出ることを望み、この世界の為に何もかも我慢してきた。

 一瞬で総てが打ち砕かれるなど、一体誰が想像できるだろうか。

(もう終わりだ・・・僕はこの先、母と二人きりで一生を過ごさなければならないのだ・・・)

 煌びやかに輝いていた世界は一気に歪み、どろどろの汚物に変わる。

 そう、この沼のように───


 この時の僕は、この世界を知らな過ぎた。仕方のないことなのだが、余りにも無知だった。

 季節で変化する景色たちの本質を見ることの出来ない僕には、少しの変化でも恐ろしかった。

 自分が自然に拒否されているのではないか。この世界から迫害をうけているのではないか、と。


 足取りは重く、我が家の敷地内に戻るだけでもかなりの時間を費やしてしまっていた。

 先刻、公園から出て、少し辺りを探してみたが、これといって惹かれるものはなかった。

 これからもう外に出ることはないのだろうか。精神的に暫くは無理そうだった。しかし家には帰りたくないというジレンマに陥っている。


 コンクリートから家の玄関へ続く階段をのぼり、横に逸れ庭に入る。手入れのされていない庭はお世辞にも庭と呼べるようなものではない。

 草は僕の脛を撫で付ける。くすぐったい感覚が両脚に広がる。これは、秋になったというのに半ズボンで寝る僕の方が悪いのだろう。

「痛・・・!」

 右の足首に異変がおきた。

「何なんだ・・・?!うあ・・・」

 痛みの根源を見やると、光る眼球が闇に浮かび上がっていた。

「何だこいつ・・!」

 反射的に脚を振り回すがなかなか離れない。寧ろ深く足首に食い込むばかりで、身を震わせ悶絶する。

 力尽くで振り落とした時、僕を痛めつけた小さな声を漏らした。

「猫・・・?」

 過去に母が、家の庭に黒猫が入ってきた、と楽しそうに話していた。その猫が邪魔者の闖入に苛立ち、僕に噛み付いたのだろう。

 こちらからしてみればお前の方が闖入者だと叫びたくなったが、黒猫は光る瞳を一瞬こちらに向けただけですぐに去っていった。


 傷のことを思い出し慌てて地面に座り、足首に視線を移す。夜闇で傷の様子が分からなかったため、指を脚に滑らせる。

 傷は相当深かったらしい。僕の指は、肌に穿たれた四つの穴の存在を認めた。血液は止めどなく流れ、手を生ぬるい温度に濡らす。

「嘘だろ?」

 血をここで初めて見た僕は、混乱した。混乱というよりは錯乱───発狂に近かった。

 血液の知識は、祖父───僕の父親の父親で成宮聖といっただろうか───の書物でしか学んだことしかなかった。しかしそれは文字の上でも十分に伝わってきた。

 血は刃物と共に死を象徴する。血液の不足で死に至ることもある。

 僕にとって死という概念は禁忌だった。直接死に触れたことはないが寧ろ、知らないからこそ恐ろしいのだろう。

 ───僕は死んでしまうのか?

 ───僕はここで死ぬのか?

 様々な思いが脳内を駆け巡った。全身ががたがたと震える。

「・・・いっ・・嫌だ・・!死にたくない・・・!」

 どうすれば。どうすればいいのだろう。手で押さえつけた傷口からは未だに休むことなく赤い液体は流れ続けている。その感触が掌から伝わり、脚を流れてゆく。

 このまま僕は死ぬのだ。

 赤い赤い血の沼に溺れて。



 ◇


 どれほど長い時間座っていたのかわからない。ただ分かるのは、僕はまだ生きているということだ。

 既に死を覚悟していたのだが、死んでいない。それどころか、滝のように止めどなく流れていた液体すら止まっていた。

(人間は、そんな弱い生き物ではないのか・・・)

 命を取り留めた嬉しさよりも、驚きの方が大きかった。

(僕は生きている。まだ死んでなんかいないんだ)

 生きていると実感できたのは、大きく深呼吸をした時に肺に入ってくる空気の味を感じた時だった。

 当たり前にしていた呼吸が、こんなにも安心できるなど知らなかった。僕は自然から、またひとつ大切なことを学んだ気がした。


 徐々に闇が薄くなり、朝が来る。

 十月の朝、冷たい空気が呼吸をする度に身体の中に染み渡る。

 ───嗚呼、何て美しい。

 久しぶりのこの感覚。ずっと求めていたのだ、この世界を。僕の居場所となるべき世界が、こんなに近くにある。

 手を伸ばせば掴める。ただ時間が足りないだけだ。もう少し成長し知識も増やしてから───またこの世界と再会をするのだ。

 そうと決まれば行動は早かった。まだ痛みのある右脚を引きずりながら、窓からリビングへと戻る。

 二階に登るのは困難だった。深手を負った脚は思うように動いてはくれない。

 自身に鞭を打ちながらなんとか寝室に辿り着くことができた。

 まだしなければいけないことが残っているというのに、深夜に動き回ったことが祟った。

 抑えることのできない眠気から、ベッドに潜り込んだ瞬間に眠ってしまった。


 目が覚めた時には午後1時を回っていた。もう母はとっくに起きて家事をしていることだろう。

 ゆっくりと起き上がると、目の前には───椎名めぐみが───母が───青白い顔で僕を見つめながら、寝室の扉の前に座っていた。

「か、母さん!」

「おはよう、薫」

 優しい声で挨拶をする彼女の目は笑っていない。

「起きるの、遅かったわね」

「ごめんなさい・・・今から起きるよ」

 ベッドから抜け出そうとした刹那、僕の右足首はそこから出ることを拒否した。

「あ、お母さん・・・僕お腹痛いみたい。先行ってて・・・」

 どうも僕は作り笑いが下手だ。嘘をつくことにも向いていないのかもしれない。

「お腹痛いの?だったらトイレに連れていってあげるわ」

「───いいよ!いいから・・・!」

 母は僕の言葉を無視し、僕の身体にかかっていた毛布を払いのけた。

(もう、お終いだ・・・)


「───薫、この傷は何?」

「───猫に噛まれ・・・ました」

「猫に?」

「ごめんなさい・・・」

「猫が家に入って来たの?」

「───違います」

 このまま猫のせいにしてしまえば良かったのかもしれないが、やはり言い逃れは出来ないと思った。

「───どうして猫に噛まれたの?家で噛まれたんじゃないの?」

「違います」

「どうして?答えて、薫」

「そ、外に・・・出ました」

「───え?」

 母の目が暗く濁っていくのが分かる。「外」という言葉に敏感になる彼女なのだから、この反応は当然だろう。

「外?外って言ったよね?」

「はい・・言いま」

「───は?」

 僕が返事を言い終わる前に彼女はそう発し、長い沈黙が訪れた。

 そして重苦しい沈黙を破ったのも、彼女自身であった。



 ◇



 薫の右の脚についた傷跡。美しい肌に穿たれた穴が妙に生々しい。固まった血液が白いシーツに擦れて赤くなっている。

 久しぶりに見た血液。そしてそれは、汚れた外の世界で流れた息子の血。

 薫は穢れてしまった。外の世界に染まり、不純物が彼の中に侵入してしまった。

 これを長年恐れていたというのに、防ぐことができなかった。

 どうして───


「薫、外に出たの?」

「いつ?初めて出たの?!」

 怒りと悲しさに支配された私は、思うままに言葉を浴びせる。彼の返事はない。

「馬鹿!何で外に出たのよ!」

 叫びながら彼を叱咤する。最後にこんな大声を出したのはいつだっただろう。

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 私は怒りに我を忘れていた。

 彼の声は余り耳に入らず、半狂乱になりながら叫ぶ。

「だから外に出るなってあれほど言ってたのに!分からず屋は嫌いよ!」

「・・・ごめんなさい」

「どうして外に出たの?!答えなさい!」

「ごめんなさい」

「謝ったって何も変わらないじゃない!」

 その刹那、薫の頬を叩いていた。部屋に響き渡るほど大きな力で。

 驚いた表情、限界まで見開かれた目をこちらに向けている。瞳は暗く翳っている。

 そこから一筋の涙が流れた。


 心臓が一度、大きく跳ねた。

 六歳の息子の泣き顔などもう見たくないと、あの時に後悔したではないか。

 涙を流しながら謝る彼は、何と弱い存在なのだろう。

(脆い。余りにも脆い・・・)

「あ・・・ごめんね薫・・・私・・・」

 何をしているのだ私は。彼を殴って何になるのだ。

 彼を叱っても、心と身体の両方を、ただ傷付けているだけではないか。

 ───そう、あの忌まわしき父親と同じように。


「ごめんね薫・・・!」

 涙を流しながら呻く息子。原因は自分が作ったのだと知っていながら、それをなだめる母。

 滑稽だ。

 元々私は母親になど向いていなかったのだ。

 私は将吾との子どもを望んだ。ただそれは彼との繋がりを確信したいが為の道具だったのだ。

 子どもというものを何も知らぬまま、余りにも早い出産を終えた。

 看護婦や将吾の言葉に従っていれば、このような悲劇は生まれなくて済んだのだ。


 つくづく薫は不幸な子どもだ。

 母親は無知で、愛する者さえ殺す殺人鬼。父親すらいない。なに一つ幸せなことを経験することもなく、籠に閉じ込められた小鳥。

 人間の扱いではない。まるで、自分の言いなりのペットだ。

 ───嗚呼、やはり血は争うことはできないのだろうか。父親にされたことを、そのまま息子にしている。

 あんなに憎んだ相手と、同じことを・・・

 ───いや、私は彼とは違う。彼の為を思って、彼の幸せを考えてやっていることなのだ。

 何も間違ったことをしてなどいない。

 そう、私は正しい。総て、彼を守っていく為に必要なことなのだ。


「薫、いきなり叩いたりしてごめんなさいね。あなたがまさか、そんな悪いことをするだなんて思ってなかったからつい、かっとなってしまったの」

「だからお願い、お母さんを嫌いにならないでね」

 彼は、可愛らしい顔を小さく揺らした。

「ああそうだ、その脚の傷を手当てしなくちゃ」

 救急箱を戸棚から出してくる。彼にこれを使う日が来るなど考えていなかったから、この中の物で足りるだろうか。

 医療の知識は全くない私は、とりあえず消毒液を吹きかけ、慣れない手付きで包帯を巻いた。

 彼は痛そうにしていたが、大人しかった。この傷は相当深い。彼にしたら消毒液など、痛みの対象にならないのだろう。

「痛くない?」

「・・・うん、大丈夫」

「いい子。そうだ───薫、私の質問に、素直に答えるのよ」

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