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夜闇にひとり

 


 ◇


 窓を開くと、どんよりとした曇天で、絵の具で塗り潰したような平坦な灰色の空。その影響からか、少しも気分が晴れない、そんな昼下がりだ。

 六月も終わりに近づいているというのに、鈍色の空はいつになったら元の色に戻るのだろうか。

 六月といえば、梅雨の季節だ。この陰鬱な表情をした空が、もうじき涙を流すことを物語っている。旧暦の六月は水無月と呼び、今では新暦六月の別名だ。水無月の由来にはいろいろな説があるようだ。

 その中でも、梅雨が明け、水が涸れてなくなる月、といものが有名なのではないだろうか。

 だがしかし六月に梅雨が最盛期を迎える現在では、この説は少し違和を感じる。

 そのようなどうでもよい思考が頭を巡るうちに、外はすっかり雨模様だ。

 今にも大粒の雨が降ってきそうで、私は慌てて洗濯物を取り込み、家中の窓を閉めた。

 殆ど同時に小雨がぱらぱらと、あの灰色から零れ落ちてきた。

 あと一歩遅かったら、また洗濯機を回さなければいけなかった。珍しく頭の回る日だな、と思う。


 出窓から投げ入れた洗濯物を畳みながら、ふと昔のことを思い出していた。確かあの日も、雨が降っていた。

 成宮将吾がこの世の者ではなくなったあの日───

 気がつけば彼が死んでから6年が経っていた。遺体は総てこの世界には残っておらず、勿論私が殺人の容疑を掛けられるようなこともない。

 近所の住民にも、特に彼のことを問いただす人間はおらず、訪問者が別の要件で訪ねてきたときには、ほっと胸を撫で下ろしている。

 将吾の死から9ヶ月後、息子の薫が誕生した。私の出産は幸い、軽く破水をしただけで、何事も無く無事に終わった。

 父親である将吾の姿が見えないことを助産師は不思議がっていたが、彼は大事な用があるために来れないのだと伝えた。

 それでも不満そうであったが、私は大丈夫だと伝えると、それ以上問わず、納得してくれたようだった。

 今更後悔したとして何かが変わるわけではないが、なにも彼を殺す必要はなかったのではないかと思っている。

 最近は、手作りした彼の遺影に、毎日薫と手を合わせているのだが、息子に「お父さんは何で死んじゃったの?」と聞かれると、毎回のように心が痛んだ。

 思い返すと、約二年間のうちに父が死に、将吾の父が死に、将吾が死んだ。たった僅かな時間の中で、三人の家族が命を落とした。まるで他人事のようだが、実際には私の手によるものだということを、きちんと記憶している。

 彼らがこれからも幸せに生きるはずの寿命を、私が(ことごと)く奪ってしまったのだ。どの殺人も、生半可な覚悟。殆ど衝動的な過ちだった。


 私と薫は二人暮らしだ。アパートに越すことも考えたが、やはり我が家が落ち着くということで、そのまま将吾の父が建てた家に住んでいる。

 将吾の遺した遺産は、父の遺した遺産も含まれていたため、お金の心配はする必要がない。

 そういえばこのところ三日間は、家に閉じ籠ったきりだ。

 家から出るときといえば、食品や洋服などの買い物をしに行く時くらいではないだろうか。

 息子の成長で着れなくなった洋服を見る度に嬉しさが込み上げてくる。

 子どもは天使だ、と幸せそうにしている周りの母親達のように私も、美味しそうに食事を口に運ぶ息子の姿は、穢れなき羽根を生やした天使に見えた。


 薫は現在五歳で、触れるだけで脆く崩れ落ちてしまいそうな、陶器のような純白の肌をしている。髪は栗色、瞳は茶褐色だ。

 歳の割には大人びていて、将吾の性格とは真逆の存在であった。

 見るからに美少年で、街に出れば外国人と間違えられることだろう。髪の色や瞳の色が、一般の日本人とはかけ離れた容姿をしている。

 年齢からすると遊びたい盛りではあるはずの彼は、無口で自らの感情を口にも出さず、表情にも表さない。

 白いソファに座り微動だにしないその姿は本当の人形のようで、どこかの芸術家の作品のような美しさを備えている。

 読書が好きで、いつも本を片手にソファに座っている時間がいちばん長いのではないだろうか。本に夢中で、私には目もくれないことが、寂しくなるときもあった。

 本は将吾の父、成宮医師のもので、内容は読んではいないが、彼の知識発達の為ならと、部屋に本棚を置いておくことにした。

 彼は頭も良く、勉強もよくできる。私には理解することのできない数字をいとも容易く扱っている。

 薫が私より劣っているところはない。容姿、頭脳、全てにおいて彼は完璧だと思っている。大人になったらどんな男性になるのかが、今から想像できるほどだ。

 それゆえに、彼がごく普通の女性と釣り合うとは思えないのだ。

 社会に出たとしても、彼は周りから浮くのは目に見えている。

 だから私は、彼を閉じ込めた。

 薫は産まれてから、外に出していない。

 周りの住民は、私に子どもがいることは分からない。早くに夫を亡くした未亡人、そんなところだろう。

「薫。ご飯よ」

 私は薫の部屋の鍵を開け、部屋から出るように促した。

 薫は分厚い本に栞を挟み、無言で部屋から出て行く。そしていつものように食卓についた。

 彼は言葉を出すわけでもないが、私の食事を喜んで食べている筈だ。あまり表情の変化のない彼も、この時ばかりは笑顔が見える。

「美味しい?」

 毎回のように問うているが、返事は返ってこない。ただ少し、笑顔をこちらに向け頷くだけだった。


 一日に三回、薫を部屋から出す。朝と昼は食事と排泄、夜はいっぺんに風呂までを済ます。彼自身この生活が当たり前になっているのか、何も文句は言わない。

 薫の体をタオルで拭き、ドライヤーをかけてあげる。何に対しても受動的な彼は、これから私がいなくなったとしたら、どうやって生きていくのだろうか。

 彼よりもはやく死ねないな、と私は苦笑いをした。

 今日は月が手に届きそうなほど近い。こんな夜は決まって、死んだ彼のことを思い出す。

 窓ガラスを割り、初めて外に出た日も、確かこんな夜だった。

 自分から彼を殺めておいて、あの頃に戻りたいと願うなんて、本当に自分勝手だ。

 だが、彼のいない夜を重ねる度にその例えようもない感情は募っていくばかりだ。

 あの頃に戻り、もう一度やり直したい。歪んだ愛で、彼を手放すことなどないように。



 ◇


 目を開けると日が目に突き刺さるように鋭く射してきた。六月には珍しい晴れ。このまま梅雨が明けて、初夏を迎えることができればいいのだが、そういうわけにはいかないだろう。

 昨日は窓辺に座ったま眠ってしまっていたようだ。一晩中無理な姿勢で眠っていた所為か、身体の節々が変に痛い。

 ふらつきながら洗面所まで歩き蛇口を捻る。氷のように冷たい冷水が勢いよく出てきたが、気にすることなく両手に溜めて顔をすすいだ。

 ───ここで、何者かに服の裾を引っ張られた。何者か、に該当する人物は一人しかいないのだが、それはそれで問題があった。

 驚いて振り返ると、パジャマ姿の薫が涙を流しながらこちらを凝視していた。

「薫・・・」

「───怖かったよママ・・・」

 ああ、私は何ということをしていたのだろう。昨夜、薫の髪の毛をドライヤーで乾かした後、何か私は考え事をしていたのだ。そして、あろうことか彼を放置したまま眠ってしまったようだ。

 久しぶりに放たれた彼の言葉が、怖かった、だなんて。母親失格ではないか。

 私はいつも、彼にドライヤーをかけ終わったらすぐに部屋へ戻し鍵を掛けておく。そうでもしなければ心配で眠れないのだ。

(なのに私は───)

 自責の念に囚われていると、薫は滅多に開かない口を再び開いた。

「・・・お腹減った」



 ◇


 ドライヤーをかけて貰った後、母であるめぐみは何か考え事をしていたようだ。それも何か深刻なものなのだろう。酷く顔色が悪い。

 たまにこういう日があり慣れていたのだが、前夜の彼女はすぐに眠ってしまった。

 一人で部屋に戻るべきなのか迷ったが、勝手な行動を取るわけにはいかない。僕は今年で五歳になったのだから、もう少し「おとな」にならなくてはいけない。母の言いつけを守るのは当たり前のことだ。

 そう、この前彼女は言ってたではないか。

「私が見ていないところで、勝手に悪いことや、迷惑のかかることはしちゃだめよ」と。

 彼女を悲しませてはいけない。たった一人の肉親なのだから。


 結局僕は部屋に戻るでもなく、彼女に気の利いたことをしてやれるでもなく、ただリビングのソファに腰をかけていた。

 綺麗な月だ。こんなに美しいものを、僕の部屋でも見ることができればいいのだが。

 僕の部屋は二階にある、六畳にも満たない小さな部屋だ。窓というものはなく、白い壁に白いフローリングという異様な風景が、無機質な部屋を演出している。

 部屋の中央に敷かれたカーペットや、その上に置かれた丸い小さなテーブルとソファ───どれも乳白色だ───と、南の方角を枕にしたシングルベッド、本棚があるだけの殺風景な箱が僕の城だ。

 昔、母もこの部屋と似たような部屋で生活をしていたらしい。しかし初めからそこにいたわけではなく、その昔は一階の、大きな窓がついた部屋だったらしい。

 母は、彼女の父───僕の祖父だ───と二人暮らしをしていたようだ。彼女が窓を割り外に出てしまったため、彼は怒り、二階のあの部屋に閉じ込められたのだという。

 その後、彼と彼女の間にどんなことがあったのかは分からない。ただ彼は死に、椎名家は燃えてしまったのだと聞かされただけだ。

 原因は気にならないかと言えば嘘になるが、それが役に立つ情報だとは思えないため、詮索はしないでいる。それこそ母の過去に触れ、彼女を悲しませることになるかもしれないのだから。


 母は、悪いことをしたのだろうか。外に出る事が、そんなにいけない事なのだろうか。

 確かに外には危険が沢山ある。彼女に耳が痛くなるまで教えられた。

「外に出てはいけないよ」

「外には怖いものや恐い人が沢山いるのよ」

「あなたがいなくなってしまったら、私は生きていけないわ」

 この言葉たちを繰り返す母には少し病的な部分が認められたが、僕を想って言ってくれている事なのだと信じ、外の世界への憧れを今まで隠していた。

 しかし、今思えば彼女も昔、外に憧れを抱いていた事には間違いがない。彼女は外に出て、何を観て何を感じたのか、それが無性に気になったのだ。


 気付けば僕は、彼女が眠る窓際に、音を立てないように足を進めていた。



 ◇


「ごめんね、薫・・・。薫を寝かす前に私寝ちゃったね・・・」

「大丈夫だよ。ご飯は?」

「ああ、もうこんな時間。朝ごはんにしましょうね」

 私はいつの間にか涙を流していた。不甲斐なさからなのか、薫がその事を気にしていないことへの安堵からなのか分からなかったが、どちらにせよ彼はいい子に育った。

 私へ文句を言うこともない。寧ろもう少し自分の意思を伝えて欲しいくらいだが。


 彼は自らの意思を持っていないのでは無いかと心配していたが、そんなものは杞憂だったようだ。

 空腹を一番に訴えてくるくらいなのだから、大人びた彼にもまだ子どもらしい思考も残っているのだと思うと、少し嬉しい。


 トーストにスクランブルエッグという簡単な朝食をとり、薫を部屋に入れ鍵を閉めた。

 これでやっと一息がつける。

 それでもまだ落ち着かず、彼の部屋の廊下を右往左往してしまう。仕方がなく台所に行き、コーヒーを淹れることにした。

 台所に向かう途中にある出窓を不意に覗くと、晴天の空の下に生い茂った雑草の間から小さな黒猫が飛び出してきた。毛は短く、華奢な身体に落ち葉が張り付いている。梅雨の所為で地面が濡れ、汚れてしまったのだろう。綺麗な黒い毛が泥で台無しだ。

 黒猫は私を一瞥すると、すぐに何処かに駆けて行った。


 コーヒーの入った瓶を取り出すためにシンクの上にある戸棚を開けたが、そこには何も入っていなかった。

 他の扉や引き出しを開けても結局見つからず、不服な思いで冷蔵庫を開け、薫のために買ってあった林檎ジュースをグラスに注ぐ。

 果汁百パーセントだが、これは凝縮還元された製品だ。この前飲んだ別の会社の林檎ジュースは、文字通りストレート、絞ってそのままパックに入れただけのものだった。

 同じ果汁百パーセントでもここまで味が違うと、前者のパーセンテージへの疑いが出てくるのだが、そんなことは今はどうでもいいだろう。

 ジュースを飲み干し、グラスを洗うついでに朝食で出た洗い物をする。終わる頃には私は、大分落ち着きを取り戻していた。


 改めて昨夜のことを思うと、如何に自分が軽率なことをしたのかが浮き彫りになる。彼は大人びているとはいえ、まだ子どもだ。現に彼は朝、泣きそうな顔で怖かったと訴えていたではないか。

 そんな五歳の息子を放置し、自分は窓辺で眠るなど、どうかしている。

 確か私は窓辺で眠っていた。網戸も開けていたような気がする。もし彼があそこから外に出ていたらと考えると気が気でない。大人しくしていてくれたようで本当に良かった。

 ───いつまでもこんなことを考えていても拉致が明かない。もうこんなことは起こさないように、更に気をつけなければいけない。

 彼は私の大切な、唯一の宝なのだから。




 ◇


 六月に終わりを告げ、日本は七月を迎えた。相変わらずの空模様にはうんざりさせられるが、自分の部屋では外の様子を知ることができないのだから、あまり気にすることはないだろう。

 僕は白い部屋に再び閉じ込められ、退屈な生活に戻る事を余儀無くされた。

 毎日見ているこの景色が、こんなにも色のないものだとは今まで感じることはなかった。

 しかし、あの日のあの時間に経験したことが、故意的に倒錯させられた「僕の常識」というものを塗り替えた。

 僕は六月のあの夜、外の世界に出た。今まで感じることの無かった風の冷たさが身に染み渡った。

 初めて直接的に見た満月は途轍も無く大きく、僕に翼が生えたとしたらすぐ届きそうなほどだ。

 やはり、いくら本で学んでいたとしても、実物を見なければそのものの本質は見えてこないのだろう。

「実存は本質に先立つ」という、かの有名な思想家の言葉は間違っていないことが、僕の頭の中で結論付けられた。


 母の寝ている横を通って窓から出る時には、大きな勇気が必要だった。

 洗脳のように毎日聞かされていたあの言葉───外には怖いものや恐い人が沢山いるのよ───が脳裏に(よぎ)り、躊躇いがあった。

 未知への前進に脚は震え、母を裏切った罪悪感に苛まれながら窓の冊子に手をかける。

 思い切って窓から飛び降りると、地面には草が生えていたようだ。梅雨のせいか雑草はひどく濡れており、足の裏とパジャマの裾がビシャビシャになってしまった。

 今まで一度も踏みしめたことのない大地に立っていることが、嬉しいとはまた違う、言いようのない感情にさせる。

 草で縺れる脚をうまく動かし、月明かりだけで進む。どこに向かっているのかすら分からないが、とりあえず前進を試みる。

 目も暗順応し、辺りが多少見回せるようになった。

 まず家の周りを探索してみることにした。庭は伸び過ぎた雑草で荒れに荒れ、庭とは呼べないほどになっている。触ってみると鋭い葉をしているものもあり、迂闊に触れると肌を切ってしまうかもしれない。

 一通り見回したら、玄関へ行き、そこから伸びている階段を下って道路に出た。

 アスファルトはひやりと足の裏を刺す。雨で濡れて余計に冷たく、長時間素足で歩くことは憚られる。

 道路沿いに自宅と間隔を開けて数軒家が建っているが、当然明かりはついていない。手入れのされていない緑が多く、住宅が少ない平地は、身発展の寂れた寒村を思い浮かべる。

 道路沿いにしばらく歩くと、小さな公園のようなものを見つけた。

 ───こもり沼公園。名前からすると子守りや篭もりが考えられるが、得にこの名前は考える必要はないだろう。

 迷いもなく、僕は公園に足を踏み入れた。


 静か過ぎる夜闇。虫の音も聞こえない。俗に言う草木も眠る丑三つ刻、跳梁跋扈する魑魅魍魎に恐れ慄く時刻である。その中に佇む錆びた小さな公園は、否応なしに夜の不気味さを掻き立てた。

 こもり沼公園には、遊具という遊具は殆ど残っていない。残ってはいないのではなく、元から無かったのかもしれない。結局小さなベンチとブランコ、時計しか見つからなかった。

 公園の周りは生い茂った雑草に囲まれており、その先を見渡すのは困難だった。

 近付き雑草を掻き分けてみると、雑草の間から僅に、奥に進める道のようなものが見えた気がした。

 暗闇の中は遠くまで見渡せないが、あそこに行けば何か面白いものが見れるかもしれない。

 僕は好奇心に突き動かされるまま、奥に進むたびに高くなる草むらをくぐり抜けてゆく。やっとのことで広い道にたどり着いた頃には、脚や指に切り傷が付いてしまっていた。

 一息付き、改めて開けた道をぐるりと見渡す。地面は雑草も少なく、芝生のように綺麗に刈られている。腰あたりまで伸びた草に、壁のように円状に囲まれており、まるでここは、いつか本で見たミステリーサークルのようだと思った。

 そこにある不気味な雰囲気を感じるよりも前に、それよりも異様な存在感を放つものを視界に認めた。

 直径十メートル程の草の円の、丁度正面に佇む赤い鳥居───公園には有るはずもないそれは、過去に本で見たものと比べると小さなものだったが、違和を感じさせるには十分な何かがあった。

 長年忘れ去られてきたものなのだろうか。錆が進み、赤も大分くすんできている。

 いや、鳥居の周りは雑草一つも生えてはいないようだ。つい最近も、誰かが訪れて掃除をしているのだろう。

 この鳥居はまだ、誰かが管理し、神聖なるものとしてここに佇んでいるのだろうか。しかし、何故ここに鳥居などが有るのだろうか。

 ───この村のことなど、母でさえ知らない。それを僕が調べる事など無駄な努力だ。それよりも、ここの探索を進めるほうが得策だろう。

 恐る恐る近付きながら観察してみると、鳥居は高さ三メートルもないようだ。

 その大きいとは言えない赤い鳥居の向こうは、周りよりも闇が薄く、微かに明るく感じた。

 その先が気になり、早足で鳥居に近づく。鳥居の持つ何かに吸い寄せられるように。

 近付く度に前方は明るさを増していき、とうとう僕は鳥居の真下に到達した。



 壮観だった。

 黒く平坦に塗り潰されていた空は、ぼんやりとした紫色に塗り替えられた。

 霧のような靄が立ち込める中、緑色の沼の上や周りで点滅するもの。

 濁り切った沼の水面に掠れたように映るそれは、まるで朧月のようだ。

 僕は瞬きをすることさえ忘れ、宝石のようなそれを見つめ続けていた。

 名も知らぬ物体だとしても、白い無機質な壁からは決して見ることの出来ない風景に、感動というものを憶えた。溜息をつきたくなる程に美しく、これは外の世界でしか味わうことのできないのだと確信した。

 自分の常識が崩壊する瞬間を、自分が感じることが出来るとは今まで思っていなかった。

 僕や母のような環境の中で生きぬ限り、この感情を手に入れることは難しいだろう。

 素晴らしいものを見ることは容易なのに、そのことが当たり前になってしまっている世間は、羨ましい反面、不憫にも思われる。

 だからと言って、あの白い牢獄にいつまでも繋がれ続けることを肯定する訳にはいかないのだが。


 鳥居の向こう側にある世界を満足のゆくまで堪能し、家路についた。

 家にたどり着く頃には、夜明けが近づいて来たことを知らせる二番鶏が高らかに鳴いていた。

 家の窓から見える母は、まだ眠っているようだ。ほっとすると同時に罪悪感もあったが、終わってしまったことなのだから仕方がないだろう。

 窓から家の中に上がる時、母の身体に肩が触れてしまった。

 彼女の顔を真近に見ることなどあまりなかったために、思わずじっと見つめてしまった。

 母の白い肌、赤い唇はとても美しい。そこに垂れる黒髪が、彼女の端正な容姿を際立たせているようだった。

 素早くソファに戻り、疲れた身体を横にして瞼を閉じた。


 母は外の世界に出て、僕と同じように美しいものを観たのだろうか。飽くまでも僕の母なのだから、僕の感じた感情も彼女は感じて来たことだろう。

 目には見えぬが感じることのできる鉛。足首に絡みつく、家族と言う名の束縛の鎖を断ち切りたいと、彼女だって望んだ筈だ。苦しんだ筈だ。

 自由への望みが叶ったから僕はここに存在している。

 それなのにどうして、僕のこの両腕に嵌められた荊の枷を外すことはしてくれないのだろうか。



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