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壊れゆく愛

 

 ◇


 僕とめぐみはある暖かな休日、近くの海へドライブに出かけた。

 春の海は勿論入ることはできないが、潮の香りを感じたくなったのだ。ここ最近の多忙の疲れを癒すには、良い景色が一番だと踏み、寝起きのめぐみを、有無を言わせず車に押し込んだ。

 身支度をまともにすることができなかった彼女は、始めは不機嫌に頬を膨らませていた。しかし、車の助手席から見える色とりどりのチューリップが目に入ったようで、食い入るように見つめ、いつの間にか機嫌を直していたようだ。

 海に到着する頃にはすっかりと上機嫌になっていたようで、僕が車から荷物を下ろしている間に、遠くの浜辺を飛び跳ねていた。

 走って追いかけるも、意外と彼女は足が速かった。追いつく頃には、額に少し汗が滲んだ。


 彼女が急いで着た水色の涼しげなワンピースは、良く似合っていた。春というよりは、夏を感じさせるような色合いだった。

 彼女自信は、そのワンピースは気にっていないようで、僕にしきりに感想を求めてくる。似合っていると何回も褒めるが、あまり納得はしていないようだった。


 浜辺に転がる貝殻を拾い集めている彼女はやはり、まだ子どもなのだと思った。彼女は、2月にやっと18になったばかりだ。僕は1月が誕生日で、さほど変わりはしないのだが。

「将吾、こっちに来て!」

 彼女は、僕に手を振りながら叫んでいる。少し目を離した隙に、かなり遠くの方へ移動していたらしい。

「あまり遠くにいくなよ」

 やっとのことで追いつき、注意を促す。何らかの弾みで海に流されてしまったなんてことは、絶対にあってはならない。

「ごめんごめん」

 彼女からは反省の色は伺うことはできなかったが、謝罪の言葉が出たのなら上出来だ。

「これ見て」

 左手の親指と人差し指でつままれていたものは、割りと大きめな貝殻だった。ヒメニッコウガイというもので、約4センチの貝殻で、

 クリーム色の楕円形の地に、薄い桃色の頬紅をしている。その桃色はまるで、彼女の唇を思わせた。

「綺麗でしょ」

 素直に相槌を打つ。これを見せるために僕を呼んだのだと思うと少し残念だったが、彼女の笑顔が見られただけでも十分すぎるほどの成果だ。

「めぐみ、折角海に来たのに、海見てないだろ」

「あ、忘れてた」

 時々、彼女の考えていることが分からなくなる。しかしそこが彼女の天然さであり、可愛らしい部分だ。


 昼の海は、夜のようなロマンティックさに欠けていたが、昼は昼で、別の表情の海を見ることができた。

 二人は無言で、海を見つめていた。青い空に線を引く飛行機雲。雲の切れ目から覗く太陽は、海を容赦無く照りつけ、宝石のような輝きを与える。

 海鳥は群れになり遊び、その向こう側を大きな客船が通った。水飛沫で新たな波が生まれる。視界は晴れ、遠くの緑の山々まで確認することができた。

「海、初めて来た」

 不意に彼女が口を開いた。

「俺も、久しぶりかな」

「海って、大きいのね」

 そう言うと、水面を見つめながら感嘆に似た溜息をついた。

「連れて来て、良かった」

「ありがとう。私の知らない世界を見せてくれる将吾は、私の王子様よ」

「───いきなりなんだよ」

 咄嗟に俯く。顔の熱だけ上がっているような感覚だ。

「ふふ。なんでもないわ」

 そう言うと彼女は水面に向かって走り出した。

「そっちは危ないから!うわ!」

 春の海はまだ僕には早いようで、冷たい水に足を取られてしまった。

「あはは」

 彼女の笑い声が大きな海に優しく響いた。



 ◇


 夜は暮れ、僕たちは海辺に佇むホテルに泊まることになった。たまには豪華な部屋の、豪勢なベッドで寝てみたくなったからだ。

 ルームキーを受け取り、部屋の鍵を開ける。ツインルームになっており、かなり広々としている。アンティーク調の家具が、何とも言えぬ豪華さを醸し出していた。そして、8階という高さが、更に僕達の胸を射抜いたのだ。

 夜が遅いために食事は用意されないとのことだが、それは仕方ないだろう。コンビニのサンドウィッチと、葡萄の炭酸飲料をテーブルに置けば、レストランのディナーのように見えなくもない。


「うわ!」

 めぐみが部屋のワインレッドのカーテンを開いたと同時に、大きな声をあげた。

 何事かと近寄って見ると、先刻まで見ていた海が映った。綺麗に磨き抜かれた大きな窓ガラスからは、闇に覆われた黒い海と、その海を照らす億千の星屑を眺めることができるようになっているのだ。まるでルビーやサファイア、エメラルドといった様々な種の宝石たちが、空という土台に埋め込まれているようだった。

 どのくらい時間が過ぎたのかは分からない。二人とも無言で一心に、宝石箱のような夜空に見惚れていた。手に持った安価な炭酸飲料すら、淡い紫色に輝き、アメシストのように見えた。

「ねえ、私たち、いつ結婚する?」

「俺がもう少し、安定した収入を得られるようになってからだな」

「そうね」

「結婚しなくても一緒にいられるから、あまり結婚にこだわらなくてもいいんだけどな!」

「ふふふ」

 彼女の微笑みが、やけに眩しい。

「子ども、はやく欲しいの」

「結婚するまでの我慢だな」

「だからはやく結婚したいのよ!」

 二人の笑い声が、ぴったりと重なった。


 このホテルはどの設備でも僕たちを驚かせ、今までにないほどの感動を覚えた。

 バスルームは勿論広く、一般家庭のそれよりも大きな浴槽が設置されている。めぐみと僕はお湯を溜め、二人で浴槽に浸かった。二人で入ってもまだ余裕がある。浴槽近くの壁にはボタンが二つあり、疑問に思った僕は、試しに片方のボタンに触れてみる。

「きゃ!」

 急に証明が消え、めぐみは小さな悲鳴を上げた。次の瞬間には、浴槽の湯はオーロラに変化した。規則的に湯船の色は変化し、合計で七色のライトがあるようだ。

「綺麗!もう一つのボタンも押してみよう!」

 めぐみがボタンを押すと、湯船の底や側面から水泡が噴射された。体のあらゆる部位に泡が当たり、少しこそばゆい。

 めぐみは勢いよく体に打ち付けられる水泡に興奮しているようだ。何かを見つけたようで、その長方形の小袋の封を開け、湯船に流し入れた。それは泡の入浴剤のようで、暫くすると、映画でしかみたことのない泡風呂が完成し、僕は度肝を抜かされた。

「凝っているな」

「楽しいね」

 泡を頭に乗せて遊ぶ彼女は、満面の笑みを浮かべている。急にそんな彼女が愛しくなり、彼女の腰を腕で押さえ、僕の方へ引き寄せる。

 沈黙が流れるバスルームは、ただライトが浴槽を虹色に光らせる。その色の点滅に合わせ、僕の瞳を見つめる彼女の全身も色を変えた。彼女の細い腰に左手を添えて、右手で彼女の唇を撫でた。

「もう、あがろうか」

「うん」

 バスローブに着替えて、グラスに入れた炭酸飲料を一杯飲む。かなり長い間風呂に入っていたせいか、かなりそれはぬるくなっていた。炭酸飲料を事前に冷蔵庫に入れておかなかったことを後悔する。

 大きなダブルベッドに横になり、風呂上りのめぐみを観察する。大きいサイズの、白いバスローブに身を包み、品やかな黒髪に櫛をいれながらドライヤーで乾かしている。風呂上がりの熱気からか、そんな普通の動作まで色っぽく見えるから不思議だ。


 ぼうっと彼女を見ているうちに、眠気が俄かに襲う。いつの間にか支度を終えた彼女が、ベッドで僕の手を握っていた。一気に眠気は飛んでゆき、手をきつく握り返す。彼女が目を閉じたところで、僕は彼女に接吻をした。始めは触れるだけだったそれも、次第に濃厚なものに変わっていく。

 寄せては返す波の音と、彼女の甘い声が響く部屋。激しくお互いを求め合ううち、静かに夜は明けていった。



 ◇


 麗らかな春は、次の季節へと模様替えを始めようとしていた。いきなり春がやってきたと思ったら今度は、あっという間に初夏が近づいてくるようだ。7月の日差しは、真夏のそれとは余り変わらないほど眩しいものだ。

 将吾の出勤を見送り、皿洗いをしていた手は思わず泊まる。海に行ったあの日のこと思い出していたのだ。数ヶ月経った今でも、胸が高鳴るのが分かった。


「うう」

 突然の吐き気と立ちくらみに襲われた。あまりの痛みに立ってなどいられなかった私は、成宮病院に電話を掛ける。

「はい。成宮病院です」

「椎名めぐみです」

「めぐみちゃん?どうしたの?」

「安田さん・・・理由は分からないけど、動けなくて・・・」

「待ってて、すぐに行くから!」

 その言葉を最後に電話は切れた。

 安田さんとは、私が入院していたときに良く会話をしていたナースだ。将吾と付き合っていることも知っている。私にとっては、年の離れた姉のような存在だ。


 数分後、救急車のサイレンが家の外から聞こえた。家に鍵を掛けるのを忘れていたのが幸いして、すぐに私は救急車に乗せられた。

 痛みのせいなのだろうか、その後のことはあまりよく覚えていなかった。

 目を覚ますと、見飽きるほどに目に焼き付いているあの景色。成宮病院の一室で、ベッドに横になっていたようだ。誰かの影に気付き、そちらの方へ向くと、電話に出た安田さんが心配そうに私を見つめていた。

 私が目を開けたことに気づいた途端に、見慣れた笑顔が咲いたが、すぐにそれは真剣な表情に変わった。

「めぐみちゃん、楽になった?」

「はい、だいぶ良くなりました」

「病院に電話をする前に、まず救急車を呼ぶのよ」

 彼女はいつもの優しい声から打って変わり、厳しいものになっていた。私を見つめ注意を促す。有無を言わせない瞳だ。

「ごめんなさい。そんなこと、頭になくて。咄嗟に思い付いたのがここだったんです」

「まあ仕方がないか。それで、将吾くんは?」

「将吾は仕事しています」

「そっか。あ、産婦人科の先生が呼んでいたわよ。4階の」

「分かりました。行ってきます」

「ああそうだ、まだ安静にしとかないと。私もついて行くわ」

「ありがとうございます」

 私の隣で歩く安田さんから、甘い匂いが漂ってくる。香水なのか、シャンプーの香りなのかは定かではないが、花のような香りだ。彼女が他のナースよりも数段と魅力的に見えるのは、この香りからなのではないかと納得する。


 4階の産婦人科というプレートの掛かったところに到着した。部屋の前の椅子に座り、ひとりで呼ばれるのを待つ。

 安田さんは、エレベーターを降りてからすぐに、ナースコールがあったようだ。手を合わせて私に謝罪しながら、エレベーターを再び下っていった。彼女の慌てっぷりはなかなかなものだった。

 ナースコールが鳴る度にああやっているのなら、看護師という仕事は相当の持久力が必要なのだろう。それが子どもの悪戯だとしても、他の患者の対応を振り切ってまで優先させないといけないのだ。

 そういえば、なぜ私が産婦人科に呼ばれたのだろうか疑問だが、まあそれはすぐにわかることだろう。深く考えないことにする。


「椎名めぐみさん」

 診察室の引き戸が開き、若くて可愛らしいナースに名前を呼ばれる。彼女に続いて部屋に入り、すすめられた椅子に浅く腰かける。目の前の椅子には、化粧の厚く、少し小太りな女性が座っている。地肌よりも数段明るい色のファンデーションを塗りたくったような白い顔には、皺が深々と刻まれている。白髪混じりのカールしたミディアムカットの黒髪と、真っ赤な口紅が印象的だ。

「めぐみさんね」

「はい」

 名前をそこまで入念に確かめる必要などないだろうが、素直に返事をした。

「あなたにはどうかわからないけれど、短刀直入に話すわ。───おめでたよ」

「え?」

「赤ちゃんできたのよ。3ヶ月目。おめでとう」

 そう言う彼女は、引きつった笑みを浮かべている。対する私は、彼女からの衝撃的な告白に驚きを隠すことはできなかった。

「───私が、妊娠したんですか」

「ええ。あなたが苦しかったのも、妊娠してたのだから、無理はないわ」

「あまり実感が湧きません」

「実感が湧かなくても、受け止めなきゃならない現実なのよ」

 彼女は、いきなり真剣な眼差しで私を見た。彼女はこの歳の妊娠をよく思っていないのだろう。あの笑みの原因がわかった私は、彼女と少し距離を置いて話すことにした。

「───それで、赤ちゃんは順調ですか?」

「今のところ何の問題もないわ」

「よかった」

 思わず深い溜息をつく。

「まだ安心するわけにはいかないわ」

 私は「そうですね」と答え、目の前にいる彼女から目を逸らし、俯く。彼女のふくよかな脹ら脛がよく見える。

「めぐみさん、この子、産むつもり?」

「───え?」

 この医師は何を言っているのか。宿った命を産み落とすことは、当たり前のことだろう。

「18でしょ、まだ。結婚もしていないのに」

「だからって・・・」

 私の言葉を遮るように、彼女が口を開く。

「取り敢えず、成宮さんとよくお話しをしておいてくださいね。痛みは引いた?」

 私は無言で頷く。

「なら、もう今日は帰っていいわよ。具合が悪くなったら、また来て頂戴」

 そう言うと彼女は、回転式の椅子をくるりと回し、私に背を向けた。もう出て行って欲しいのだろう。私は若いナースに見送られ、診察室を後にした。



 自宅の鍵を開け、乱暴に荷物を放り投げる。物を雑に扱うなど私としては珍しいことだが、今日ばかりは仕方がないだろう。産婦人科の医師の対応に少し腹を立てていたことは否めない。

 しかし、病院が自宅から僅かな距離にあることは、とても心強い。何かあったらすぐに駆け込むことができるこの環境は、とても恵まれていると言える。

 リビングのソファにどさっと倒れ込む。革製の黒いソファは、あまり弾力がない。倒れ込んだ感触は、心地よいとは到底表現することはできないだろう。

 ごろんとソファの上で転がり、時計を掴む。5時58分。そろそろ溜まっていた家事を終わらせておこう。赤ちゃんのことは、将吾が帰ってきたら大々的に知らせることにする。彼の喜ぶ笑顔が待ち遠しく、家事を進める手も止まることを知らなかった。



 ◇


 今日も勿論残業をさせられていたが、いつもよりは早めに引き上げることができた。自宅に着いたのは、午後23時を過ぎたくらいだろう。相変わらず部屋の明かりがついている。

 僕は「ただいま」と小さく呟き、靴を脱いでスリッパに履き替えるために、身を低く乗り出す。

「お帰りなさい!」

 何やら元気な足音が聞こえたかと思い顔を上げると、いつもより明るい声で出迎えるめぐみの姿が映った。

「どうしたんだ、いつにも増して嬉しそうな顔をして」

「いいから、早くご飯食べてください」

 悪戯を仕掛けているときの子どものような表情を浮かべる彼女は、僕の背中を押しながら、ダイニングへと向かった。強制的に座らされた椅子の目の前には、まだ温かな湯気を放つ夕飯が並んでいる。


「で、何でそんなに幸せそうな顔をしてんの?」

 焼き魚に箸をつけながら彼女に尋ねる。今日は鮭の塩焼き。彼女の得意料理だ。

「さあ、何故でしょうか!」

「クイズか!」

「思い当たることはない?」

 僕は「うーん」と唸ってみるが、何も思い当たる節はない。

「もう、鈍感なんだから」

 彼女は僕の心中を察してか、先ほどからつんと口を尖らせている。

「ギブアップ!」

「つまんないの」

 彼女の頬がどんどんと膨れている。僕が何をしたというのだ。

「実はね・・・」

 そう言った後、直ぐに続きが発せられることはなかった。長い沈黙が続く。

「───からかってるのか?」

 焦ったさと苛つきが顔に出てしまっていたようで、彼女は「ごめんごめん」と謝り、真剣な表情になった。

「実はね。───子ども、できたの」

「───子ども?」

 彼女から告げられた言葉を飲み込めず、思わず聞き返した。彼女は嬉しそうな顔で「そうよ」と返す。

 続けて発せられた、「三ヶ月目なんだって」という声に、僕は顔をしかめた。

「あのホテルのときか」

「そうだと思うわ」

「───めぐみ、その子ども、産む気でいるのか?」

「───え?」

 めぐみは、当たり前でしょ、とでも言いたそうな顔で僕を見つめて笑う。

「将吾、嫌なの?」

「嫌というか・・・」

「私は絶対に産むからね」

 にこにこしながら僕の手を握る。

「無茶言うなよ。まだ結婚すらしてないし、それに金もない。子どもは、俺が金をある程度稼げるようになってからだって言っただろ」

「そんなの知らないもん」

 彼女は、何がなんでも出産するつもりでいるようだ。いくらなだめすかしても、聞く耳すら持ってはくれやしない。


「───将吾は子どもを産むことが嫌なの?」

 いつの間にか俯いている彼女の肩は、小刻みに震えている。このままでは彼女は、何を仕出かすかわからない。

「違う!めぐみとの子どもは、勿論望んでいるよ。でも、流石にまだ早すぎる」

「世話は私が全てするから!お願い」

 穏便に事を運ぶことは、どうやら難しいようだ。既に彼女の瞳には涙が溜まっている。

「わかってくれ、めぐみ。今回は残念だけど、まだ次があるんだ。俺たちが成長したら、ちゃんと子どもを産もう」

「───次?」

「次って何?子どもを物のように扱って。一つの命なのよ。将吾は平気でそんな命を奪うんだ。そのことに何も感じないの?」

「───俺だって」

 僕は彼女の勝手な想像に我慢ができず、思わず言葉を遮ってしまった。

「───育てられるものなら、産ませてやりたいさ。でも、仕方ないんだ」

「この人殺し」

「───お前がそれを言えることなのかよ」

 遂に本音が出てしまい、後悔する。しかし、ここで黙っているわけにはいかないだろう。彼女には、事の重要さをわかってもらわなくてはいけないのだから。

「───何、言ってるの?」

 そう言う彼女の声に異変が起きた。怒鳴り散らしていた時とは異なり、酷く冷たい声だ。そして、刺すように鋭く尖っている。

「そうよ、私は人を殺したわ。私のお父さんと、あなたのお父さん」

 僕の顔面は赤く熱を帯びている。悔しい。そんな感覚だ。

「どうしたの、そんな顔して。そっか、わからなかったのね。成宮先生は、私が殺したの。あなたに私のことを全て話した罰。大きな樹に磔刑にして、ナイフで固定したの。嘘つきには丁度いいでしょう?」

 僕は、彼女の存在に初めて恐怖を感じた。自分の父を殺した犯人が、僕の最愛の彼女だったなんて、到底信じられない。

「嘘、だよな?」

「私が嘘をついたこと、あった?彼は、私たちの結婚を反対していたのよ。私が殺人鬼だって!」

「───ああ」

 僕は膝をがっくりと折り、床に跪く。目の前にある大切なものであるはずの存在が、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。もう僕には、幸せも何も、残っていないのだろうか。

 行き場を無くした腕は宙で遊び、床に立てた両脚は鉛のように重かった。


 ◇


「将吾は、私のこと好き?」

「───もう嫌いになっちゃったの?」

 できるだけ甘い声で彼へ問いかける。勿論返答は期待などしていないのだが。しかし、目の前で力無く崩れた将吾は、私にはまだ愛しく見える。

「私は、将吾のこと大好きだから」

 床に倒れこみそうな彼を支え、耳元でそう囁く。心なしか彼の緊張で固まった表情が和らいだ気がする。しかしきっとそれは、私に愛を囁かれたことに対する喜びではなく、自分の寿命が延びたことに対する安堵だろう。

「将吾、好きだよ」

 私は幾度となく、その言葉を繰り返した。彼への愛情は衰えるばかりか、今だに高まりつつある。

 先刻、産婦人科のあのおばさんと同じように彼にも、産む気があるのかを聞かれたときにはどうしようかと思った。

 それは彼なりに家族の為に考えてくれていたことなのだろう。私にもやっと、子どもを持つことの大変さというものを理解することができるかもしれない。

 しかし、やはりこの腹の中にいる生命を無駄にしてはいけない。今まで二度も殺しをしたが、授かったこの命には、死んだ彼らとは比べものにならないほどの価値があると思っている。勿論それは、私の腕に抱かれている将吾にも言えることだ。


「ごめんね、将吾。やっぱりお腹の赤ちゃんは産むわ。この子が大切なの。───他の誰よりも」

 私のその言葉を聞いているのかいないのか、彼の向ける視線の位置は定まらない。

「声が出せないのなら、聞いてくれるだけでいいわ」

 彼の顎に手を添え、こちらを向くように動かす。

「私が殺人鬼って分かって、将吾はもう私のことを恋人だなんて思っていないでしょう?寧ろ親の仇で、憎いでしょう?」

「───めぐみ」

 もう声を出すことすらできないと思っていた彼が、私の名前を呼ぶ。つい嬉しくなり、「なあに?」と返した。

「───君は勘違いをしている。めぐみの父さんは、いい人だったんだ。めぐみがされてきたという酷いことは、全て妄想だ。彼は、君を愛していたよ」

「何を言っているの?父さんは私に一生消えない傷を付けたのよ」

「それは、君がいいように記憶を書き換えているだけだろう?思い出してくれ。君のお母さんは、君が殺したんだ!そのときに妊娠していた子どもまで殺した!」

「うるさい!」

「めぐみは、後ろめたい過去を都合のいいように変換していたんだよ」

「黙れ!」

 部屋に沈黙が走る。自ら発した声は、金切り声のような高音。自分の鼓膜すら破ってしまいそうなほど、大きく不快な声だった。

「将吾に私の何が分かるの?私は今まで、幸せな思いをしたことがなかったのよ。やっと掴めた幸せも、こうして歪んでいくの」

「───めぐみ」

 彼はそう言うと、私の体を強く抱いた。逞しい腕が私を覆い尽くしている。

「───めぐみ、君は今からでもやり直せるさ。病院に行って、診察を受けよう。時間がいくらかかっても、僕はいつまでも待っているから」

 緊迫した雰囲気を和ます彼の優しい声に、私は思わず涙を零した。

「将吾、ごめんね」

「ああ」

 いつもと変わらぬ声で、私を抱く彼の体温を感じる。私は涙を手で拭い、彼を押しのける。

「ありがとう、ごめんなさい、将吾」

「謝るなよ。僕たちの問題なんだから。───じゃあ明日の朝、病院いこうか。もう時間は遅いから、もう寝よう」

 そう言って彼は寝室の方へ足を進める。私は彼を早足で追い、背後から深々とナイフを突き立てた。


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