幸せな日々
◇
冬場には珍しく太陽の温もりが包み込む病室で、成宮将吾は目を覚ました。時計に目をやると、午後の12時を回っている。
ベッドにはめぐみの姿は見当たらなかった。トイレに行っているのだろうか、彼女を探そうかと思ったが、やはりもう一度ベッドで眠ることにした。
僕と彼女は、あのまま寝てしまったのか。昨晩のことを思い返し、無意識に顔が弛む。彼女の純潔を僕が穢してしまったことが少し気がかりだが、最早そんなことはどうでもよい。彼女は僕を拒まなかったため、僕を信頼してくれているのだろう。それだけで満足だった。
暫く病室で眠っていたが、彼女が戻ってくる気配はなく、一旦病室から出ることにした。病室から身を乗り出すと、何やら病院内は騒がしい。廊下は走るなといつも注意しているナース達は、ばたばたとどこかへ向かい走っている。
「どうしたのですか」
丁度この病室の前を通り過ぎようとしていた、まだ若そうな茶髪のナースに声をかける。僕の顔を見た彼女は、恐ろしいほどに顔面蒼白で、奇妙だと思った。
「あなた、成宮将吾さん?」
彼女は、か細い声を震わせて言った。
「そうですけど」
僕がそう返答すると、真っ青な顔をした彼女は、更に当惑し、辺りをきょろきょろと見渡していた。そこに、こちらも慌てた様子の、40代くらいの、眼鏡を掛けたナースが通り掛かった。
「高橋さん!」
茶髪のナースは、眼鏡のナースに助けを求めようとしたらしく、すぐに彼女に駆け寄っていった。
「成宮さん」
眼鏡のナースに声をかけられた。彼女は割と落ち着いているようで、声はしっかりとしたものだった。彼女の後ろで、茶髪のナースが俯いている。
「成宮聖さん───あなたのお父様が、今朝亡くなったわ」
「は?」
このナースは何て不謹慎なことを言うのだろうか。その割には、深刻な表情で、僕の目を見ている。
「父さんが死んだ?」
「はい」
確認のために問いかけると、あっさりと返答が返ってきて、不愉快だった。
「私達も、先ほどその知らせを聞き、今からそちらへ向かうところだったのです」
若いナースが震える声で言う。
「では、成宮さんも、私達と行きましょう」
眼鏡のナースに導かれ、エレベーターに乗った。1階のボタンを押すナースは、随分と慌てているようだ。エレベーターを駆け足で降りて、病院の玄関へ向かう。沢山のナースが、同じように玄関に向かって走っている。いつの間にか、パトロール・カーのサイレンが鳴り響いている。中には、その音を聞いてなのか、病衣を着た患者たちの姿もちらほらと見受けられた。
そういえば、今朝からめぐみの姿を見ていない。どこへ行っているのだろうか。きっとこの騒ぎを聞いて、先に外へ出ているのだろう。僕は、玄関でごった返すナースの群れを押し退け、外に飛び出した。
雪が膝辺りまで積もっていて、靴だけではなく、病衣の中にまで冷たいそれが、歩く度に侵入してくる。
病院から出て左の道へ回ると、僕の目は白衣を着た男性や、ナースたちの後姿を認めた。青い服を着こなす数人の警察官も見えた。
確かこちらには、一本の大樹しか無かった筈なのだが、どの視線も、そこ一点に集中している。どうやら、父はそこの奥にいるらしい。
「坊や、こっちに来たら駄目だ!」
人だかりまで走り、注意を促す警察を尻目に、大樹の方へ一直線に向かった。大樹がはっきりと確認した頃には僕は歩みを止めていた。雪の冷たさなどお構いなしに、地面に手をつき、小さくうずくまる。空っぽの胃は、胃液と空気だけを吐き出す。胃液の酸の臭いが、辺りに広がった。誰がが背中を摩ってくれたようだが、僕には礼を言える程の、心の余裕は残っていなかった。
僕はもう、目の前にあるものを直視することができなかった。この世のものとは信じられない───いや、信じたくもない光景だ。あれが父だと思うと、また吐き気が催す。喉をこみ上げてくるものを必死に両手で押さえつけた。
父はまるでキリストのように、十字に四肢をナイフで固定され、木に磔にされている。全身をナイフで刺されたようで、彼の履いているズボンは破れ、血塗れになり、肉の抉れた脚が露わになっている。彼が磔にされている大樹の下に積もる白銀の雪には、血液のような赤黒い液体が散乱している。彼を引き摺ったような血液の跡も残されていた。穢れの無い雪景色に赤い血は、とても目を引く。できれば目には入れたくないのだが、どうしてもその存在感に圧倒させられてしまう。
彼は憤怒と苦悶の表情を浮かべて死んでいた。大きく見開かれた瞳は怒りに満ちて、彼を虐殺し、立ち去っていった犯人を、死んだ後も睨み続けているようだった。
この死体を創り上げた人間は、常人の域を遥かに凌駕し、最早怪物とでも言い表したほうが妥当のような、恐ろしい存在だ。これまでの人生、このような異常な光景を目の当たりにした者は皆無ではないだろうか。これを見た数多くの人間は、長年の記憶の中に刻まれるだろう。
突然、父を理不尽に殺された怒りと、悲しみの両方がいっぺんに押し寄せてきた。責任ある仕事を全うし、男手一つで僕を育ててくれた彼が、何故こんな形で殺されなくてはいけないのか。気が付くと、僕の二つの目から、滝のように涙が溢れていた。
野蛮な殺人鬼には、人間の心は僅かにも無いのだろうか。父の死体の傷には、躊躇いというものを感じられなかった。殺しを根本から楽しんでいるとしか、考えられないだろう。
犯人をこのまま野放しにしたら、またどんな惨たらしい死体が生まれるか分からない。一刻も早く犯人を見つけて、同じように復讐してやりたいと思う。
すぐにそんな勇気など持ち合わせていないことに気付き、膝を折って泣くことしかできない無念さを恥じた。
◇
誰がが成宮先生の死体を見つけたのだろう。病院内がやけに賑やかになった。賑やかというような明るさではなく、焦りを含んだ騒々しさなのだが。
私が一時間前から滞在している、人が疎らなカフェを走り抜けるナース達の顔には、大きな不安の表情が浮かんでいた。
既に冷めきったミルクを飲み干し、屋上に向かうことにした。あそこなら騒ぎ出したナースに見つかることもないし、大人しく読書をすることができると考えたからだ。
屋上は雪に埋れ、読書は愚か、足の踏み場もなくすぐに引き返した。またカフェに戻るのも気が引けて、結局はトイレで時間を潰すことに決める。
トイレでの読書は、案外良いものだった。便座は綺麗に磨かれているし、気になった便所の臭いは、無臭だった。外の騒がしさに気を散らす以外には静かであり、誰も入ってくることもなく、何の申し分もない寛げる場所だった。
いつかのテレビ番組で、一番安心できるところはトイレだと言っていた者がいたが、あながち間違ってはいないと思った。
午後一時頃には、病院本来の静けさを取り戻していた。トイレの外から聞こえる物音も、普段通りのものだった。
読み終えた本を抱え、鍵を開けて個室から出る。洗面所にも清潔さが溢れており、入念に掃除をしているであろう掃除員に、賞賛の拍手を送りたい気分だった。
手を洗うも、新しい病衣にはハンカチを入れていないことを思い出した。仕方なく備え付けのジェット・タオルに腕を突っ込む。轟音とともに放出される温風で、すぐに手に付着していた水滴は飛ばされていった。
私はこの轟音が嫌いであまり利用していない。自分がトイレにいるということを、他人に言いふらしているようなものだからだ。特に今日は、できることなら使いたくはなかった。
トイレの前に誰もいないことを確認し、そそくさと病室に向かい足を進める。ここまでこそこそとする必要もないが、念には念を、だ。用心するに越したことはないだろう。
病室に向かう途中に、仲の良いナースに声をかけられたが、特に気にするような話題はなかった。私が疑われるようなことは、今のところ心配しなくていいようだ。
あの時に脱ぎ捨てた病衣と手袋は、病院の裏に、雪に埋れて見えなくなっている。時間がある時に回収し、捨ててしまえばいいだけのことだ。
病室の引き戸を開けると、将吾が待っていたかのように私に目を向けた。
「めぐみ」
いつもとは違う、暗い声を放つ彼は、別人のようだった。
「どこに行っていたんだ?」
私から目をそらし、どこか遠くを見つめて動かない。
「腹痛で、トイレにこもってたの」
元気な腹を、あたかもまだ痛そうに顔を歪ませながら押さえた。
平気で嘘をつけるようになった自分は、少し気味が悪いと思った。トイレにいたことについては、嘘は付いていないのだからいいだろう。
「よかった。心配したんだぞ」
私の言葉を聞き、彼の表情が少し柔らいだような気がした。視線は未だに宙を浮いているのだが。
「ごめんね」
私は素直に謝った。この言葉には、彼の父親を殺したことと、彼に嘘をついているという、二つの謝罪の意味が込められていた。
「いいんだ」
彼はそう言って、やっと私の顔を見た。涙を流したようで、目が赤く腫れている。
もしや私が彼の父を殺したことが気づかれているのではないかと焦ったが、どうやらそんなことはないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
「そういえば、何だか病院が騒がしかったわ。ナースさん達も、慌ただしいみたいだったし、何があったの?」
全てを知っている私が、何も知らない振りをするのは少々無理がある気がするが、仕方がない。
「父さんが、殺された」
彼は、顔を動かさずに淡々と今まであったことを話した。私は彼の言葉に、深く同情し、時には涙を流す振りもした。
演技は本当に難しいのだと感じ、そんな演技を軽々とやってのける俳優を、心から尊敬した。
「将吾、その犯人のこと、どう思っているの?」
答えは簡単に想像することができるが、敢えて彼の口から、本当の言葉を聞きたかった。
「殺してやりたいくらい、憎んでいるよ」
想像していた回答を彼の口から聞き、私は殺人を初めて後悔した。
彼の瞳は光を無くし、まるで川の水が濁ったような色をしている。
彼の表情には、怒りや悲しみ、様々な感情が混ぜ合わされており、読み取ることができなかった。
そんな彼を見るのが辛く、彼の父親を衝動的に殺してしまったことを悔いた。いくら邪魔が入ったといっても、彼が悲しむことをすることはもうこれ以上しないことにしよう。
「将吾」
私は、自分のせいで表情まで変わり果てた彼を、精一杯強く抱き締めた。
抱擁という形で彼へ赦しを請うことなどできないが、今の私には、これくらいしか彼にしてやれることはなかった。
「───めぐみ」
彼も私に縋り付くように、強く抱き締めてくる。病衣が少し、涙で濡れていることがわかった。
「めぐみ。めぐみ」
私の名前を呟き続け、彼は泣き、嗚咽する。抱き締める力が段々と強くなり、私の心も苦しくなった。
私の居場所は、彼の腕の中にしかないのだ。彼にまたこうされていられることができるのなら、私はまた、殺人を犯すかもしれない。彼の大切な人を奪い、その心に漬け込み、更に愛されようなんて、本当に私は人でなしだ。
自分の頭の中が、徐々に自分でも理解をすることができなくなってきた。
彼に愛される為なら、何だってするだろう。彼にこうやって抱き締められる為だけに、彼にとっての大切な命を奪うこともできる。しかしそれは、私にとっての瞬間での幸せでしかない。彼は苦しんでいる。その苦しみを慰めて、愛されたいという感情は、やはり狂っているのだろうか。
◇
成宮先生の葬儀に参列し、お焼香をあげた。告別式が終わると、成宮先生との最後の対面をした。
彼の眠る棺は、祭壇から静かに降ろされる。祭壇に飾ってあった、鮮やかなピンクの供花を手に取り、彼の棺桶を飾った。傷だらけの彼の体は白い経帷子を身に纏っていた。彼の顔は死んだ後も美しく、顔に傷を付けなくてよかったと思った。
将吾からの願いで出棺まで立ち会うことになり、火葬場まで車に乗った。遺族の人たちは涙を流す者もいたが、彼は終始無表情で、時々私の顔を見て僅かに微笑むくらいだった。
火葬も無事に終わり、帰りの車に乗り込んだ頃には、私は酷く萎縮していた。人が死ぬと、こんなに大勢な人が悲しむのだと知り、後悔の念に苛まれた。
あれから数日、私は眠ることが怖くなった。毎日同じ夢を見るのだ。自分が様々な人間にナイフを振り回し、高らかに笑っている夢だ。
私の父や、成宮先生、知らない人間から、将吾にまで、躊躇いなく刃を振るった。
夢を見ていると毎回感じるのが、これは夢だが、現実に起こり得ることだということだ。
実際に、二人も自らの手で斬殺している。殺害に抵抗はなく、寧ろ楽しかった。美しい血飛沫と、普段聞くことのできない悲鳴を上げる被害者が、とても魅力的に見えた。あの光景を思い出すだけで、興奮し、抑えが効かないほど昂ぶってくるのだ。これを狂気と呼ばないのなら、何になるというのだろう。
このままの生活していたら、いずれ私はまた殺人を犯す。できることなら、もう殺しはしたくない。死に触れる度に高鳴る心臓を、今すぐに握り潰してしまいたい。
殺害への興味をなくしてしまうことが、一番の策だ。彼からの愛情を受ければ、きっと殺しなどどうでもよくなるのだろう。わたしはそんな、単純な脳をしているのだ。
成宮病院は新しい精神科医を迎え入れ、営業は無事に続けられることになったようだ。
肉親のいない私たちは、暫くここで生活をさせてもらえることになっていた。
「将吾!」
「また来たのか」
あの事件以来、私は将吾の病室へ遊びに行くようになった。しつこいくらいに部屋を訪れては、無駄話を永遠としたり、恋人同士の愛の象徴である、抱擁や接吻をせがむ。
彼も満更でもない顔をしているために、更に調子に乗って我儘を言う。彼も少しは迷惑だと素直に言えばいいものを、そういうことは言えないたちなのだろう。
「ねえ、将吾。私たち、これからどうしよう」
彼の腕に抱かれながら、ふと思ったことを口にする。
「二人でここを出て、父さんが建ててくれた家で生活をしよう。俺は高校を卒業したら就職するつもりだ」
彼は今後のことを考えていたようだ。
「お父さんの家に?」
「ああ。新しくマンションを借りたりするには、金がいるだろ?あそこなら家具も揃っているし、暫くは父さんの残した遺産でなんとか暮らすこともできる」
彼の言葉は、最もだ、と思った。このまま病院に世話になっているわけにもいかないし、賃貸は敷金や礼金もかかる上に、快適な暮らしをするには向かないところだ。
「将吾と二人で暮らすの、夢だったから、嬉しいな」
「冬が明けたら、ここを出よう」
「うん」
私たちは朝から晩まで、未来のことを飽きることなく話し続けた。
彼と過ごす毎日が幸せで、私の中に眠る狂気の存在は希薄化していった。
彼のおかげで、私は普通の女として生活することができるようになったのだ。感謝の言葉では言い表すことはできないくらいに、彼は素晴らしい男性だ。
◇
春の訪れを知ったのは、ほんの数時間前に、カーテンから暖かな木漏れ日が漏れ出してきたときだった。
雪に埋れていた草花は、緑色の掌を太陽に向かって伸ばす。鮮やかな色をした小鳥たちが、楽しそうに囀り、熟しきらない木の身を啄ばんでいる。
将吾の父親が死んでから4ヶ月。私は、彼の父親の残した一軒家で二人で暮らしている。当分は父親の遺産で生活ができるため、今のところは幸せな日々を過ごしている。
将吾は高校を何の苦難もなく卒業し、無事に近所の小さな株式会社に就職をした。一方の私は、義務教育すら修了していない。勿論働くこともできず、この家で全ての家事を担当している。
家事は死んだ父がしていたために経験がなかったが、掃除や洗濯はすぐに慣れた。料理のほうは、レシピを見て、日々研究をしている。
初めて作ったときから、どんどん上達していると、将吾に褒められた。私はやはり単純で、その一言から、料理に熱をいれるようになった。
彼は朝早くから出勤するため、私は早起きをして朝食と弁当を作る。愛妻弁当というものに憧れていたため、毎日精一杯の工夫を凝らしている。
夜に彼が帰ってくると、いつも弁当の感想を教えてくれる。そこから、彼の好みや嫌いな食材を知ってゆくのだ。ちなみに彼は、椎茸が昔から食べられないそうだ。私がそれを知らずに弁当に入れていたときは、我慢して飲み込んでいたという話を聞かされた。
彼が残業で帰りの遅い夜は、帰ってくるまで家事をして待っていた。寝てもいいと言ってくれているが、一人でいることが寂しく、帰宅した彼を見るだけでも救われた気分になるのだ。
「おはよう、めぐみ」
「おはよう」
彼はパジャマ姿でテーブルにつく。同じベッドで寝ていても、起きる時間が違うために、朝の挨拶は欠かせない。
「お!今日はトーストか」
将吾の視線は、テーブルに置かれたトーストに注がれている。
「これ、将吾が好きだよね」
このトーストは、ウインナーを平たく切りトーストに乗せ、その上に細切りにしたチーズを乗せて焼くだけの簡単なものだ。
忙しい朝には手軽に作ることができる。更に、とても美味なのだ。
トーストの皿の横には、トマトとレタスのサラダも添える。そして、パンと言ったら牛乳が欠かせないだろう。コップ一杯の牛乳も忘れずに置いた。
「やっぱりこれ、うまいな」
トーストに齧りつく彼は、社会人になっても、まだ幼い子どものようだった。彼のビー玉のような黒い瞳がきらきらと輝いている。
「野菜も食べてね」
「わかってる」
ほんの数分で完食した彼は、顔を洗いに洗面台に向かった。そしていつも、そのまま着替えに部屋へ戻る。
「いってきます」
「いってらしっしゃい」
スーツに着替えた彼は、すぐに出勤だ。別れの挨拶を交わし、彼の車が見えなくなるまで見送った。こんなありふれた日常がいつの間にか、私にとっての生き甲斐となっていた。
空になった皿をシンクまで持っていくだけの作業が、とても幸福なことのように思えた。掃除も洗濯も、何も苦ではなかった。二人で過ごすことができるだけで、十分幸せだと言える。この生活ができるのも、死んだ彼の父親のおかげだ。感謝してもしきれない思いが募っていった。
最近は、一人になり、家事を終わらせて手持ち無沙汰になる度に、決まって彼との出会いを思い返す。
あの日、窓ガラスを叩いた彼が、絵本に出てきた王子様の影と重なった。殆ど一目惚れだったような気がする。外の世界を見たことがない私を連れ出してくれた王子様。夕陽を見せてくれたときの彼の表情を、私は未だに忘れることができない。
そんなことを考えているうちに太陽は西に傾き、日が暮れていく。春の長い黄昏は、優しい橙色をしているように感じた。
◇
成宮将吾は、夜勤から解放された直後、車に乗り込んだ。免許は卒業前に取得し、今は中古の黒い軽自動車を愛用している。
夜勤のときは毎日のことなのだが、めぐみの顔が早く見たくて仕方がない。彼女のもとに帰るだけで、疲労が全てどこかに消えていく気がするからだ。
自動車を走らせながら見える風景は、その日によって色を変える。特に最近は、春になってきたからか、花が増えたようで、外灯に照らされたチューリップが、道路を彩っている。今度の休日には、めぐみを連れてドライブに出かけることにしよう。
「ただいま」
玄関に靴を揃えて置き、スリッパに履き替えリビングへ向かう。リビングとキッチンやダイニングは一つにまとめられていおり、どこの扉から入っても、全ての部屋を見渡すことができるようになっている。
リビングの扉を開けると、ダイニングテーブルに置かれた夕食の横で、めぐみが眠っていた。
時計を見ると深夜の12時を過ぎており、彼女が寝てしまうのも無理はなかった。最近は夜勤が続いている。いつも僕の帰りを待っていて、疲労が溜まったのだろう。
彼女は家事の面でも無茶をしやすいため、自分の健康管理にまで手が回らないのだ。明日彼女が起きたら、きちんと睡眠をとるように言わなくてはならない。
冷たくなった夕食をレンジで温めている間、僕はめぐみの寝顔を観察した。こんな安らかに眠る彼女が、到底殺人を犯したなどと考えられない。何かの間違いであってほしいと、僕は心から望んでいる。最近はおかしな言動はめっきりとなくなったため、やはりあれは彼女の父親が原因だったのだと思う。彼女は何一つ間違ったことはしていなかった。もうこのことは記憶から消し去り、目の前の彼女自身を愛そう。
夕飯を終え、皿を片付ける。いつも彼女が一人で全てを行っている。僕は全く家事をしたことがなかったが、皿洗いくらいはできるはずだ。寝ている彼女に少しでも楽をさせてやりたいのが本心だ。
皿洗いは正直、僕の苦手な分野だったようだ。細かい作業を得意としない僕には、箸や小さな皿の扱いは難しかった。僅かな量ではあったのだが、予想以上に時間をかけてしまった。
彼女を抱いて寝室に向かう。痩せた体からは、両の腕で優しく包み込むようにしなければ、すぐに骨が折れてしまいそうな脆さを感じた。
彼女をベッドに寝かせ、布団を肩まで掛けてやる。黒い髪の毛が顔にかかっていたので、指で顔に当たらないようにした。
寝息を立てる彼女は、陶器でできた人形のように美しく、僕は暫く目を離せないでいた。
手入れを怠っていない黒い品やかな髪も、触れると壊れてしまいそうな頬も、薄い桃色の唇も、全てが美しかった。
人間のそれとは思えないほどの魅力を感じ、まるで眠り姫のような彼女に、僕は接吻をした。
その後に僕は風呂から上がり、一杯の水を飲む。彼女の寝顔でビールの一杯でも呑みたいところだったが、未成年というハンデがあり、それは未だ叶わぬ夢となった。
トイレで用を足してから、彼女の眠るダブルベッドへと体を埋めた。冬の寒さが残っているはずの布団も、彼女の体温で既に温かく、寝心地が良い。
「おやすみ」
彼女を見つめながら、囁くように言った。返事はないが、それに答えるように、僕の名前を呟いた。彼女はどんな夢を見ているのだろう。そこでも僕が恋人であってほしいと思う。
規則正しく彼女の時を刻む鼓動の音で、僕は次第に眠りの渦へと巻き込まれていった。




