裏切り者の末路
◇
雪が深く降り積もる、長い長い夜。カーテンを閉めずに外の銀世界を眺めていた。相変わらず降り続ける粉雪に飾り付けをされた、松の木が覗いている。
今日は神聖な夜と言われている日だ。私は生憎、宗教には興味はない。しかし、クリスマスは毎年、父親がケーキを買ってくるため、自然にこれは、大切な行事なのだという印象を持っていた。
きっと、今の日本人は何の疑問もなく、この日を祝っているのだろう。祝っているというよりは、楽しんでいるだけのような気もするが。
その思考を頭の端に追いやり、目の前に並べられた本を、右から順に見回す。今朝に、成宮先生から手渡されたものだ。最近私が本を読んでいることを知り、よく差し入れをしてくれるようになった。
彼が私に与える本は、殆ど異常者が絡んだ話ばかりだ。快楽殺人や、人肉食、世にも恐ろしい文化や悪習だ。
これを私に読ませて、何を伝えたいのかはわからない。しかし、私にもう殺人をさせないように、殺人の恐ろしさを考えさせようという魂胆だろう。残念ながら私は、本で読んだ殺人者に、少なからず憧れを抱いた。これは彼の計算外だろう。
それぞれの人間が、それぞれの美を追求している。ただ彼らの求める、美というものが、殺人という方向に向いていただけなのだ。
そんなことを考え恍惚としていた私を現実に引き戻すように、廊下から大きな足音が聞こえた。その刹那、この部屋は乱暴にノックされた。返事を待たずして病室の扉を開けた成宮将吾は、少年のような笑みを浮かべていた。
「どうしたの。今は真夜中じゃない」
私は彼の笑みの理由を理解できずに、現実的な言葉を放った。
「ホワイトクリスマスだぞ。夜が楽しいに決まってるじゃないか。」
彼はこのような行事を、素直に楽しむ側の人間らしい。
「ここ、病院だよ」
病院で声を荒げて夜中に騒ぐ彼は、いくらクリスマスだからといって許されるものではない。そんな彼に飽きれながら、私は苦笑いした。
「ごめん」
私の態度から自分のしていることを理解したのか、すぐに彼は声をのトーンを落とした。私は、そんな素直な性格の彼に惹かれたわけなのだが。
「それで、何の用なの?」
私は彼の元気を無くした目を見つめながら言った。
「これ、渡そうと思って。」
彼はそう言うと、ベッドに備え付けられたテーブルに何かを置いた。赤いリボンがかけられた、掌にすっぽりとおさまるくらいの小さな箱だ。
「何が入っているの?」
「いいから、早く開けてみて」
いつの間にか彼の顔に笑顔が戻り、早く箱を開けろと催促する。私は適当に相槌を打ちながら、その箱のリボンを解いた。
「これは───」
銀色の小さな指輪ピンキーリングだった。桃色のハート型の石が、はめ込まれている。
「貧乏だから安いものしか買えなかったけど、許してくれよ。今度はその指輪の隣にもつけさせてやるからな」
プロポーズの言葉を威勢良く、遠回しに言う彼が愛らしくて仕方がない。
「いつまでも待っていますよ」
そう言葉を放った刹那、彼の唇が私の口を塞いだ。
◇
成宮将吾は、椎名めぐみと別れた後、自分の家へ帰宅した。濡れた靴下を洗濯機に放り込み、そのままベッドに倒れ込んだ。
病院から家までは僅かな距離だが、膝まで積もった雪で、白いスニーカーはすっかり埋まってしまった。約2時間前の粉雪からは打って変わり、大きな塊のような雪に変わっていた。差した黒いビニール傘を、大粒の雪はすぐに白に塗り潰した。
僕はベッドにうつ伏せになり、先刻の彼女との出来事を思い出していた。
病院で走り回ったり声を荒げたりしたことは、とても反省していた。しかし、クリスマスに彼女と過ごせるなど、誰でもこうなるに決まっている。
兎に角、あのプレゼントを渡せたため、一件落着だ。最近表情の硬い彼女が、あれほどまでに笑顔を見せたのは久しぶりだった。安物の指輪でも、喜んでいてくれたようでよかった。
明日は父さんに、彼女との結婚を考えていることを伝えておこう。彼は彼女のことを良く思っていないような素振りをよく見せる。したがって、反対される可能性は極めて高い。
付き合って間もない───出会ってすら間もない彼女と結婚を考えている僕の意図は、自分でも余りよくわからない。
しかし、その意志は変わることはないだろう。彼女の家庭環境は、普通のそれとは違う。新しく家庭を持ち、家族の素晴らしさを彼女に教えてやりたかった。
「父さん、入るよ」
太陽の無い、暗く陰った朝、僕は病院にある父の書斎にノックをした。留守にしているのか、返事はない。鍵はかかっていなかったようで、ドアノブに手をかけると、軽く扉は開いた。
留守にしているとばかり思っていた父は、一心にパソコンに向かい、キーボードを叩いていた。何者かの気配を感じたのか、彼は入口の方へ振り返った。
「将吾か。おはよう」
突然の息子の訪問で驚いたらしい。そういえば彼の仕事場へ入るのは、何年振りになるのだろうか。
「おはよう、父さん」
おはようの時間ではないだろうと考えながら、挨拶を返す。
「何が用があって来たのか」
彼は、おもむろに黒縁の眼鏡を外した。こちらに目を向けず、眼鏡を拭いている。
「ちょっと」
一息付いて、彼の目を見る。眼鏡を外した父は、僕に酷似している。確かめぐみも、そんなことを言っていた。
「めぐみと、いつか結婚したいんだ」
覚悟を決めて放った言葉に、彼は一瞬の狼狽が見られた。目を見開き、驚愕した顔を浮かべている。無理もないだろう。まだ十七の息子が、結婚という単語を口に出すことなど、誰が予想するだろうか。
「それは本気で言っているのか」
「ああ」
迷うことなく言葉を放つと、彼はさらに大きく目を見開いた。
「彼女はやめておけ」
そう言うと彼は、僕から目をそらし、パソコンのほうへ向き直した。僕はその言葉が納得できず、父の座る回転式の椅子を乱暴に掴んだ。
「どうして駄目なんだ。すぐに結婚するとは言っていないだろう。まだまだ先の話じゃないか」
顔を真っ赤にしながら、僕は声を荒げる。
「彼女との結婚は、僕は絶対に許さないよ。父として、息子の為に言っているんだ」
「めぐみに家族がいないからか?めぐみが殺人をしたからか?」
「違う!」
父が出した、今まで聞いたこともないような大きな声に喫驚し、僕は閉口してしまった。
「いいか、将吾。彼女にこれ以上近づくな。彼女は異常者だ。自ら望んで父を殺し、家を燃やした。魚も、彼女が殺したんだ」
「嘘だ」
「彼女は幼い頃に母親を殺した。医者からの診断で異常性が認められ、社会から遮断しなくてはならない存在になってしまった。父が監禁したのではなく、そうせざるを得なかったんだよ」
「そんなのは嘘だ」
「お前が彼女から聞いた話は、全て彼女の妄想だ。惨い食事も、お父さんが彼女を襲った話も嘘だ。彼女はお前に同情して欲しかったんだよ」
「うるさい!」
「これ以上、彼女と接触するな。お前に依存されたら何を仕出かすかわからない」
「ふざけるな」
父の言葉に、言いようのない憤怒が込み上げてくる。彼女を知らない彼に、とやかく言われる必要はない。
「将吾、お前の為を思って言っているんだ。わかってくれ」
「もういい!これは俺一人で解決する。もう父さんは口を出さなくていい」
「まて、将吾!」
ドアをわざとらしく音を立てて閉め、廊下を走る。父も続いて部屋を出て僕の名前を叫ぶが、それを無視してエレベーターに乗る。
これ以上、彼の言葉は聞いていられなかった。いや、聞きたくなかった。彼女への信頼を見失ってしまいそうで怖かった。同時に、父親への怒りも湧いた。彼女との接触を否定されることよりも、彼女自身を否定されたことが許せなかった。
彼女が異常者など、あるはずもない。あの透き通るように美しい瞳が、血塗られた世界を渇望しているなど、とても考えられない。彼女は素直で、こんな僕を好いてくれる、素晴らしい女性だ。
二階への到着を知らせる鐘を聞き、エレベーターから降りる。めぐみの病室へと進み、引き戸に手をかける。ここで思わず、躊躇した。このことをめぐみに伝えたら、酷く悲しむだろう。彼女には何一つ狂ったところなどない。彼女が犯した罪は正当防衛で、償う必要もないし、彼女が気に病むものでもない。全ては彼女の父親が悪いのだ。狂っているのはそう、父親の方なのだ。
しかし、彼女はあの時に笑っていた。父を殺したというのに、悪びれるでもなく、悲哀するでもなく、眈々と言葉を放っていた。いや、それは僕の勘違いだろう。彼女は、父を殺したことを僕に話すのが辛かったのだろう。
自分に都合のいい考えだけを植え付け、彼女から僅かに垣間見える側面は、心の奥底に押しやった。
◇
エレベーターに乗って行く息子を追うのを諦め、成宮聖は自分のデスクへと戻り作業を再開した。キーボードを打つ手が進まず、頭を掻き毟る。
まさか将吾に、彼女との結婚の意志があるなどとはまだ考えていなかった。彼らはまだ幼い。結婚の重みを知らないのだから、仕方がないことなのだろうが。
しかし、よりによって椎名めぐみ───異常者に。彼女は彼の前では、あの狂気を見せてはいないのだろう。今まで一人だった彼女が、ようやく見つけた理解者だ。彼女は、彼を心底慕っている。何があっても手を離すわけにはいかないのだろう。悲劇のヒロインを演じて、同情を買うのだ。狡猾な口に将吾は、まんまと騙された挙句、容姿端麗な彼女に惚れてしまったのだろう。
そうは言っても、息子に全てを話してしまったのは迂闊だった。このことが彼女に知れたら、次の被害者は間違いなく僕だろう。
僕の部屋を飛び出した将吾は、あの後エレベーターに乗った。彼女の病室へ向かったのだろう。
心配性な彼が、流石に彼女を傷つけるような言葉を言う筈はないと思っているが、実際にはどうだろうか。あの時の将吾は気が動転していたように見える。何かの弾みで彼女の耳に入る可能性も十分にあるのだから、用心しなくてはいけない。
行きつけのカフェへ向かう途中、白い病衣を着た椎名めぐみと将吾とすれ違った。彼女こそ気付いてはいないものの、将吾の方はあえて僕の視線から逃れるかのように早歩きになった。
仲睦まじそうに喋る二人は思いのほか絵になることが、僕には皮肉だった。椎名めぐみの黒髪は、白い肌をより一層際立たせている。そして、豊かな睫毛に彩られた猫目よりの大きな瞳は愛らしい。一言で例えると、人形のようだった。
そして将吾は、そんな彼女とは打って変わり、筋肉質の体は、日焼けをしたような小麦色だ。人形のように精彩に欠ける彼女と、彼の生き生きとした笑顔。
相反するものが交わると、芸術のような魅力を感じる。彼らからも、それらと同じような美しさを感じてしまった自分を嘲笑した。
◇
成宮将吾は父親とすれ違った後、昼の食事を終えて、椎名めぐみと公園へ出かけた。太陽の光で煌めく銀世界は、何とも幽玄的なのだろうか。
「遊具が雪に埋れて遊べないや」
少し寂しそうな彼女を見て、僕は笑った。
「めぐみは、公園が本当に好きなんだな。もうここに何回も来たじゃないか」
「将吾と初めて行ったところだもん」
彼女は柔らかな微笑みでそう言うと、僕の目を見つめた。
「将吾。───大好きだよ」
彼女の頬が、僕の胸に押し付けられる。白く細い腕も、しっかりと僕の腰に回された。
「俺も、大好きだ」
両の腕を、彼女の引き締まった腰に回す。これ以上無いくらいに、強く抱いた。
「痛いよ」
そう言いながら、満更でもなさそうに笑う彼女が愛おしい。僕が顔を近付ける、彼女は瞳を閉じた。敢えて近付けた顔を離し、彼女のその顔を見つめた。異変に気付いた彼女は目を開ける。
「期待させないでよ!」
真っ赤に染めた頬が可愛らしくて、もっといじめてやりたかったが、ここは彼女の期待に沿ってやることにした。顎を軽く親指で上げて、唇を重ねた。彼女の桃色の唇は、僕の唾液でしっとりと濡れた。
無理矢理に舌を入れると、彼女の小さな舌に触れる。柔らかく、温かいそれに優しく絡め、彼女の様子を窺う。
「んっ」
彼女が普段出すことのない、官能的な声が響いた。僕はその声を聞いた後、激しく舌を動かした。ゆっくりと口内を犯す。歯の裏に舌を這わせ、唇を吸う。
彼女が漏らす甘い声に、すっかりと自分を見失っていた僕は、彼女の病衣に手を入れていた。僕の右手は、彼女の腹に触れ、徐々に上へ沿って指を滑らせていった。
「将吾、ここでは駄目だよ」
胸に触れるか触れないかの距離で、彼女の口からそう放たれた。僕は慌てて手を離す。
「ごめん」
この昼間から公園で不純なことをしようとしていた僕が、とても恥ずかしかった。幸いにも通行人はいないようで、小さく溜息をつく。
「もう、病室に戻ろう」
彼女はそう言うと、濡れた唇を病衣の袖で拭いながら歩き出した。
「さっきはごめん」
病室に戻り、ベッドにもぐり込む彼女に頭を下げた。ふと見えた空は、まだ17時を過ぎたころだというのに、すっかりと暗くなっていた。
「気にしないで。それよりこの前さ、成宮先生に結婚の話をするって言ってたじゃない。それ、どうだったの?」
その質問に僕は凍りついてしまった。暫く閉口していると、そんな僕に構わずに彼女は口を開いた。
「反対、されたよね」
「───ああ」
「理由は?」
またしても黙り込む僕に、彼女は呆れながらまた問いかける。
「何で、駄目だったの?」
「それは───父さんが、めぐみのことを異常者だと決めつけて、これ以上関係を続けるなって言ったんだ」
「どんなことを言っていたの?」
彼女はだんだんと冷たい瞳に変わってゆく。本当のことを言う必要性を感じた上に、彼女の目が怖かったのもあり、僕は父が言った話をできるだけ再現した。
「───そう」
彼女はとても悲しそうな顔をしている。やはりこのことは、言うべきではなかったのかもしれないと後悔した。
「俺は、めぐみのことを異常者だなんて思っていないから安心して」
「本当?」
「当たり前だろ、俺を信じろ」
僕がそう言うと彼女は、力なく笑った。
「続き、する?」
「え?」
暫くの沈黙が続いた後、彼女から発せられた言葉に驚きを隠せなかった。
その刹那、彼女の唇が僕のそれを包んだ。僕はそのままベッドに倒れこみ、彼女の全身を愛撫した。
「あっ・・・」
周りに声が漏れないように、口を抑えて我慢しているようだ。一つ一つの僕の動作に反応して、可愛い声で鳴く彼女。僕は彼女の全てを愛している。この姿は、僕だけに見せているのだ。
僕は、だんだんと彼女への征服欲が膨らんでいることが分かった。一刻も早く、彼女を僕だけのものにしたい。そんな思いが高じていた。
「めぐみ、力抜いて」
僕は彼女に腰を沈め、彼女の小さな空洞を一気に貫いた。
◇
すっかり日も暮れ、暗がりの帰路につく。病院は夜勤のナースに任せ、今夜は家でゆっくりと睡眠をとるつもりだ。
寿命が近いのか、不規則に点滅しているヘッドライトの明かりを頼りに、闇の深い細々とした道を辿る。自宅までの僅かな距離も、日の短い冬のせいか、非常に長いもののように思える。
「ただいま」
呟くように言った言葉も、静謐の空間に虚しく響く。それもその筈で、もう12時を過ぎている。将吾はもう寝ているのだろう。
熱いシャワーを浴びて、ベッドに横たわる。目蓋を閉じた刹那、意識は何処かへ消えた。
「やめろ!」
大きな叫びと同時にベッドから飛び起きる。寝間着は、ぐっしょりと汗で濡れている。
いつもの習慣で、目覚まし時計を見る。もう出勤の時刻は迫っており、仕方なく湿った寝間着を放り投げ、ワイシャツを袖に通した。
朝食はあのカフェでとることにして、支度を急ぐ。相変わらず溶けない雪の道に躓きながらも、何とか時間内に出勤することができた。
「おはようございます」
「おはよう」
ナース達の挨拶に答えながら、足早に自分の書斎に向かう。朝食の前に、至急やっておかねばならない仕事ができたからだ。
書斎の鍵を開けて、ドアが半開きになっていることを気にせず、急いで安物のノートパソコンを起動させる。安物と言っても、機能は良く、案外気に入っているのだ。
そういえば、昨夜は恐ろしい夢を見た。椎名めぐみが僕を殺しているところを、第三者として見ている夢だ。彼女は満面に浮かべた無邪気な笑顔で、僕に凶器を振り下ろしていた。
致命傷は与えず、徐々に傷を増やしていく。彼女は、心から殺しを楽しんでいるように見えた。肉が抉れ、臓器という臓器は床に引きずり出されていた。
僕の全身に広がる鉄臭い血液は、夢の中の映像なのに、妙に現実味を帯びていた。あたかも現実にあったことのようで、気分が落ち着かない。
そんなことを考えていても仕方が無いだろう。いくら彼女が狂っていたとしても、将吾がいる限り、暫くは下手に動けないだろう。そして、彼女がまた殺人をするとは限らないのだから。
ぼくはただ、彼女の隠された過去を知り、疑心暗鬼になっているだけだ。
今日は特に、大きな仕事は無い。この仕事を終えたら、カフェでのんびりと休息を取ろう。
◇
私は彼に抱かれ、心から体まで彼のものになったようで嬉しかった。彼の太く逞しい腕に抱かれ眠り、とても至福の時間を過ごすことができた。
もう少し幸せに浸っていたかったが、私にはしなければいけないことができてしまった。できればこんなことはしたくはない。しかし、私と彼の障害になるものは、何としてでも排除しなければならないのだ。
彼の眠るベッドから抜け出し、本の入っていた紙袋に隠したナイフを、紙袋ごと抱えた。ナイフの他に、ゴム手袋や病衣などが詰め込んであり、なかなかの重量がある。
物音を出さないように病室の引き戸を開閉する。ナースに見つからないように、廊下を見渡しながらエレベーターに乗り、5階へのボタンを押した。静かなモーター音が、私の高鳴る心臓の鼓動を響かせた。
エレベーターから降りたと同時に、どこかへ向かう成宮先生の背中が見えた。書斎の方へ早足で歩いているようだ。数メートル後ろから尾行し、彼が書斎に入っていくのを確認した。
鍵が掛けられていればそれまでだったが、幸いにも扉は半開きの状態になっていた。
息を殺して、足音を立てないようにその扉に近づく。紙袋に忍ばせたナイフ同士がぶつかり合い鈍い音をさせる。ゴム手袋をはめて、銅製の冷たいドアノブに手を掛ける。中を覗くと、彼はこちらに背中を向けて、黙々とノートパソコンを操作していた。
紙袋を廊下の端に置くと、どすんと大きな音が鳴ったが、作業に熱中している彼には聞こえていないようだった。
そして、この5階には、彼の書斎の他に個人の病室が2部屋しかなかった。
それもフロアの中央階段やエレベーターがあり、病室があるのは彼の書斎の真反対だ。多少物音がしても誰も気にすることはないだろう。そしてこの階の患者は比較的精神の異常は軽く、日中は病院から出て、散歩をしたり絵を描いたりするのが日課だった。
私はナイフを一本取り出し、指を刃に沿わせた。触れるだけで私の指は線状に切れ目が入った。そこから滴る血液に思わず舌舐めずりをする。
───ああ、早く美しい死をじっくりと鑑賞したい。
静かに扉を開き、彼の真後ろに立ってみる。未だに他者の侵入に気付かない彼は、キーボードを打ち続けている。そんな呑気な彼に、流石に苦笑してしまった。
彼の後ろで暫く踊ったり回ったりしてからやっと、彼はディスプレイに映る何者かの影に気付いたようだ。慌てて振り向き、私の存在を認めると、彼の顔が恐怖に満ちていた。
「これは、夢だ・・・」
頭を抱えて震える彼の言葉を聞き、私は少し不思議に思った。
「夢?」
返事はなく、ただ彼の言葉にならない呟きが、5畳半ばかりの部屋を浮遊している。
「先生、これは夢なんかじゃないよ」
私はそう言い放ち、右手に握るナイフを彼の左脚を目掛けて、大きく振りかざした。彼は抵抗する気がないのだろうか、素直にその刃を受け入れた。それと同時に、小さな悲鳴が上がる。
「痛みがあるでしょう?これは、れっきとした現実」
次に右脚の足首を刺す。まず脚を狙って、身動きを取れなくしようという魂胆だ。本当に私は意地が悪いと思った。肉を抉る感覚と、噴き出す血液の匂いに、我を忘れそうだ。
「痛い?先生」
「どうして僕にこんなことをするのだ」
両脚の痛みに耐えながら、途切れ途切れに彼は言った。
「自分がしたこと、自覚はないのね」
「何のことだ」
彼の言葉に、私は呆れて溜息をつく。
「誰にも言わないって言ったのに。裏切ったのね」
「───ああ」
ようやく自らの過ちに気が付いたようで、申し訳なさそうに俯いている。
「あれは、仕方なかったんだ。息子を守るためにも」
「将吾は私のことを理解してくれているわ」
「将吾がお前に興味がなくなったら、お前は将吾を殺すんだろ?」
彼のその言葉は、私の感情を逆撫でする。
「裏切り者のユダには、お仕置きを与えないといけないわ」
余り早く殺してしまうことは避けたかったが、今この状況だ。誰がこの部屋に偶然訪れてきても、おかしくはない。
ナイフを彼の心臓に突き刺し、暫くすると彼の意識は途切れた。身動きもなく、呼吸はしていないようだ。彼の両腕を掴み、書斎から引き摺り出す。彼が引き摺られたところは赤黒い跡がつき、彼が無事ではないことを堂々と証明している。
死体を外に運びたいのだが、この重さの死体をエレベーターで誰にも見つからずに運び出すことは不可能だろう。
ふと書斎の窓を見る。この高さなら、私にも持ち上げることができるだろう。彼の死体を窓から落下させることにし、窓を開けた。冷気が肌を擦り、身震いする。
この下は雪が積もっているために、大きな衝撃音は雪に吸収されるだろう。
渾身の力を振り絞り、私よりも重い体を持ち上げる。窓の冊子に乗せてしまえば、案外楽に事を運ぶことができた。
彼が落下したのを確認すると、私は紙袋を持ち、病院の外に出た。やはり早朝はナースも仕事をしたくないのだろうか、未だに一人もナースは見当たらない。
成宮先生が落下した位置に到着すると、彼は見事に雪に埋れていた。その近くには大きな木があり、私は彼をそこへ引き摺った。
袋からナイフを数本取り出しておく。それの一本を口に咥え、彼を大樹を背もたれとして直立させる。彼の両腕を横に開かせ、まずは右の手首に、咥えていたナイフを突き刺す。
木にナイフを刺すには、思ったより力がいる。彼が倒れないように押さえつけながら、もう片方の手首にも同じように刃を振る。
一息つき、彼を眺めていると、刃があまり深くまで刺されていないことに気が付いた。私は両手を使ってナイフの枝を握り、木の奥へ奥へと押し付けた。
最後に両脚をナイフで固定し、作業は終了した。かなりの時間が掛かってしまったようで、辺りが明るくなり始めている。
彼をもう少し眺めていたかったが、もう時間も限界のようだ。私は病院の裏に隠れ、返り血に塗れた病衣とゴム手袋を脱ぎ捨てる。新しい病衣を身に纏い、何事も無かったかのように病院へと戻った私は、彼の死体を思い出していた。
大樹に磔にされた人間は、夜な夜な思い描いていたものよりも、格段に美しかった。ナイフを杭に見たてて、四肢に打ち付ける作業は、とても楽しかった。白い雪に滴る赤黒い液体が、何とも麗しく、この世のものとは思えぬくらいに美しく、芸術的だった。他人の死を見つめている時間が、唯一私が、本当の私に還ることができるのだ。
裏切り者の彼を、聖なるイエスと同じ形で磔刑にしてしまったことは、正直相応しいものではないと思った。しかし、あの美しい死体を見ることができただけで満足だ。
私は疲れがどっと出たようで、立ちくらみを起こしたが、後で病室で眠ればいいだけのことだ。エレベーターの3のボタンを押し、彼のよく行っていたカフェに立ち寄り、熱いミルクを啜った。




