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暴かれた狂気

 ◇


 午前9時の病室から眺める草木は、昨夜の雪をかぶり、小洒落た白粉をしているかように見える。 今日は灰色の空と打って変わり、素晴らしい青空。雲も綿菓子のような白さだ。控えめな太陽は、雲の脇から申し訳程度に見えていた。

 病室の小さなテレビからは、小さな音量でニュースが流れている。私が燃やしたあの家が映っているようだった。

「父親は、娘と心中を図ろうと企てるも失敗。自身だけで焼死自殺、ね」

 背の高い精神科医は、そう呟いた。

「実際はどうなんだい、めぐみちゃん」

「───ニュースの通りです」

 やや俯き加減で、私はそう答えた。真実は、自分の中で閉まっておこう。これは、誰にも知られてはいけない、大きな秘密なのだ。

「隠さないで、本当のことを言ってご覧よ。僕は怒ったりしないからね。勿論、警察なんかに突き出したりもしないよ」

 笑顔の彼は、本当に将吾に似ている。父親なのだから、当たり前なのだが。

 彼の眼鏡の奥で光るビー玉のような黒い瞳に、吸い込まれそうな不思議な感覚に陥った。

「本当ですか?」

 それでも彼の瞳からは目がそらせず、目を見ながら尋ねる。

「当たり前だろう。僕は精神科医だ。言いたいことを全て、思う存分に話しなさい。秘密は厳守する。君の為に、今いちばん大切なことを教えて、良い方向へ導いてあげたいんだ」

 どうやら彼は、私のこれからのことをちゃんと考えてくれているらしい。学校や、あるいは仕事の紹介もしてくれるようだ。

 私がどんなことをしていたとしても、私を守るという条件で、全てのことを彼に話すことに決めた。


「そんなことがあったのか。それで、その時は、彼のことを君はどう思った?」

 彼は、私のベッドの横でパイプ椅子に座っている。腕を組み、頷きながら私の話を聞いた。

「正直、憎いと思いました。殺してやりたいくらいに。でもその時はまだ、ちゃんと自分の理性を保てていたし、父の言っていることが分からなくもありませんでした」

 自分の顔が、緊張で強張っているのが分かる。全てを正直に話すことは、私にとっての苦痛でしかなかったのだから。

「そうか。では、窓の無い白い部屋に閉じ込められた頃はどうだったのかい」

 感覚を置かずに質問を続ける彼に少し窮屈さを感じながらも、その時を思い出して必死に答えた。

「その頃には、何もかもがどうでもよくなってきていました。ああ、頭の中で、もう一人の自分が叫んでいるような音が聞こえました。言葉にはなっていませんでしたが、きっとそれが、私の吐き出せない苦しみを代弁していたのかもしれません。

私がただ、連日のあの食事で、気が触れてしまっただけなのかもしれませんが。」

 そういえばあの後から、頭の叫びは消えた。やはり、彼を殺してしまったからなのだろうか。

「もう一人の私、ね」

 彼は、そとの雪景色を眺めながら呟いた。何かおかしなことを言ってしまったのか、心配になってしまった。

「君はお父さんを殺したんだね?」

直球な質問に狼狽えたが、もう彼にはお見通しなのだろう。

「はい。殺しました」

その言葉を聞いた成宮先生は、顔色一つ変えずに様々な質問を投げかけてきた。私が正直に答えるとまた別の質問をする。実につまらない作業だった。


「最後にいいかい、めぐみちゃん。君がお父さんを殺した時と、家を燃やした時。どんな気持ちだった?」

 彼はきっとこのことを聞きたかったのだろう。真剣な瞳が眼鏡から筒抜けだ。

「気持ち、ですか。───そうですね。父を殺した時は、それはもう清々しいほどの達成感でした。何と言うのでしょうか、私が彼の頭にナイフを突き刺したときは、興奮しました。

いや、抜いた時が、いちばん楽しかったですね。刺したときには出なかった血が、抜いた時に、一気に出たのです。トマトのように、真っ赤な鮮血。

彼への恨みと言っておきながら、私は彼をただ刺したかったのだと思います。ただただ、血に塗れて人間の姿を無くしていく彼を見ているのが、楽しかったのだと思います。火を付けたのも、同じ思いからです。灯油を───」

「もういいよ、めぐみちゃん」

 彼は眼鏡の位置を直し、静かに言った。

「君はここで暫く休んでいてくれ」

 そう言い、彼は病室から出て行ってしまった。

 今のは何だったのだろう。私の話を遮ってまで、止めさせたかったのだろうか。何かおかしいことを言っていたのか、全く検討がつかない。ただ私は、ありのままを話しただけなのだ。



 ◇


 成宮聖は、自分のデスクに戻り、頭を悩ませていた。彼女は、かなり精神が参っているようだ。

いや、とてもそんな風には見えない。寧ろ極めて冷静で、嘘などは勿論、言ったことは全て、本当の事なのだろう。

 このデスクでは、いつもカルテが散らばっており、気が散って考え事に集中ができない。僕は、考える場所を場所を移動する事にした。

 僕は一服がてらに、院内にあるカフェに向かう。長いリノリウムの廊下だ。埃は目立っていないかをチェックしながら歩く。この、成宮病院は、先代からの精神病院だ。そのお陰で周りからは常に、異常者ばかりいる病院だと白い目で見られていた。その為に、院内の掃除などの細やかなところまで気を遣っている。


 カフェの自動ドアをくぐり、いつもと同じ注文をする。いつもと同じ席に座り、考え事を再開した。

 きっと彼女は、自分の思想が、他人とずれていることに気付いていないのだ。

 父親は普通のサラリーマン。母親は彼女が五歳の時に病死そこから、本当の意味での二人暮らし、か。

 複雑な家庭環境からの精神疾患のケースは珍しくもないが、殺人を犯してもなお、あの楽しむような言動。並のリハビリでは、まともな人間に治してやることは難しいだろう。

 偏った思考からの、倫理の欠落なのだろうか。父親は、どんな教育をしてきたのかが、どうも気になってしまう。父親が、異常者で、その血を引く娘もまた───いや、私が彼女を信じないで、誰が信じてやれるというのだ。僕の手にかかれば、彼女を立派に更生させることはできるはずだ。

 しかし、ここは病院だ。患者もたくさんいる。ここで問題を起こされたら、それこそ警察沙汰だけでは済まないだろう。

彼女は暫く社会に出ることは諦めてもらうしかない。もう少し話を聞いて、彼女の本質を探ろう。

 ───そうだ、もし彼女が昔からああいう性格だったならば、幼い頃に医師の診断を受けているかもしれない。あの家からいちばん近い、精神科医のいる病院は、確か紫ヶ丘病院か。

 また彼女に、少しでも異常な点が見つかったら一か八か、ここに連絡してみるのも、一つの手かもしれない。それまでに、良いケアの仕方を考えておかねばならないな。



 ◇


 成宮先生がいなくなってから、すっかりとする事がなくなってしまった私は、彼から差し入れされた本を読むことにした。

 分厚い紙袋に沢山本が入っている。その中から、気になった題名の本を選ぶ。『もう一人の狂気』というタイトルだ。

 狂気。私の中に芽生えた狂気も、父殺害のあの時に一度暴れ出したが、もうすっかり大人しくなり、根を枯らしてしまったようだ。しかし、彼を殺したのは、自分自身の意志であり、狂気がそうさせたのではない。

狂気とは何なのだろうか。未だに自分でもよくわからない。


『もう一人の狂気』の主人公の少年は、小さい頃から通称、反社会性人格障害者であり、社会から隔離されて生きてきた。

 その少年は、昼間の間は至って良い子で、人を困らせたことなどなかった。しかし夜になると、彼曰く〈もう一人の自分〉が彼を侵食し、暴れ出すらしい。時には、どこから手にいれてきたのかは知らないが、医療用メスで他の病室の患者を切り殺したりもしていた。

 少年は年を重ねるにつれ、〈もう一人の自分〉を恐れるようになる。自殺を試みるも、いつも同じナースが見つけ、いつも未遂に終わった。

 最終的に彼が死んだのは二十八歳のとき、持病の喘息の悪化が原因だった。彼は結局、〈もう一人の自分の〉を止めることもできずに死んでいった。

 彼が自殺でも何でも、早くに死んでいれば、彼の狂気の被害者は少なく済んでいた筈だ。自殺を止めたナースは何を考えていたのだろう。一人の命を捨てて、沢山の命を救おうという考えはなかったのだろうか。

 彼女の言い分は、「彼が私の担当だったから」だ。私には、そのナースこそが、狂気だと思った。


 本を読み終える頃には、もう昼食の時間になっていた。可愛らしい顔つきをした茶髪のナースが、私のベッドの備え付けテーブルに昼食を置いて、去ってゆく。昼食はいつも同じようなメニューの上、薄味ですぐ飽きてしまう。勿論、熱帯魚の串刺しや、マグロの目玉の味噌汁が出てくることはなく、安心して手をつけることができたことに関しては、感謝するべきことだと思った。


 昼食を食べ終えて、別の本を読もうと紙袋に手を突っ込んだときに、病室のドアをノックする音が聞こえた。

 自分の時間を邪魔されるのが嫌いな私は、そのノックに苛々したが、静かに引き戸を開けた将吾の顔を見るや否や、苛々は何処かに吹き飛んでいた。きっと私は、彼に向かい満面の笑みを浮かべていたことだろう。

「どうしたの、急に」

「あ、いや。めぐみの様子が気になってさ」

 照れ臭そうに余所見をしながら頭を掻いている彼が、とても愛らしい。

「用事がないなら帰ってよ」

「嘘だよ。用事があってきたんだ」

 わざとらしく怒る振りをしてからかうのも、とても楽しい。

「用事って?」

 私が意地らしくそう言うと、顔を真っ赤にして俯いた。

「それは・・・だな。めぐみにきちんと言っておきたいことがあって───僕と、付き合ってください」

 ちゃんと言っておきたいことがあるというから、どんな重大なことかと思っていたため、拍子抜けしてしまった。

「そんなこと?」

 私は笑いながら彼に尋ねる。

「そんなことってなんだよ。だってまだ、告白。してなかっただろ」

「プロポーズしておいて、今更なんですか」

 プロポーズ。自分が言った言葉に頬が緩んでしまった。

「そうだな。そうだな。プロポーズしたからな。分かったよ。用事はそれだけだ。じゃあな」

 彼は逃げるように部屋をあとにした。もう少しいじめてやりたかったが、もう十分だろう。晴れて彼と、正式にお付き合いをすることができたのだから。


 病室から眺める夜は、とても寂しいものだった。

 遠くから見える街灯の僅かな明かりも、ぼんやりとしていて、はっきりと見ることはできなかった。辛うじて見えた雑草も、昼の暖かさで溶かされた雪の雫を垂らすだけだ。

 夜はもう遅い。私は窓にかかる白い生地のポリエステルでできたカーテンを引いた。ベッドへ入り、厚手の毛布で体を包む。暖房機能のあるエアコンから温風が身体に当たり心地がよかった。



 ◇


 ある日の午後下がり、椎名めぐみに簡単な質問をした。ある絵を見せ、女性と男性の人間関係を考えるというテストだ。

「めぐみちゃん、この女性と男性の関係は、どのようなものだと思った?」

「女性は男性のことを恨んでいます」

「男性は?」

「男性は女性のことを愛していると思います」

「この物語の結末は、どうなると思う?」

「女性が、男性に自殺するように命令します」

「なぜ?」

「私を愛しているのなら、私の為に自殺だってできるわよね」

「───わかった。ありがとうめぐみちゃん。今日はゆっくり休んでいていいよ」

「先生、この男性は、自殺することを受け入れるかと思いますか?」

「───さあ」

 僕はそう言い残し、彼女の病室を後にした。病室から、彼女の高らかな笑い声が漏れてきている。

 これで確信を持つことができた。彼女は異常者だ。

 彼女には幾つかのテストや質問を行っているが、回答の全てに死が絡んでいる。彼女の不気味なほどの死への執着。殺人だったり、自殺だったりと様々だが、何らかの形で死が関係してくる。

 並の常人では考えつかないような発想を瞬時に回答してくる彼女は、正直僕にとっての、恐怖の対象だった。診察をする度に確認させられる異常性は、恐ろしいほどにはっきりと示されていた。

 今夜、紫ヶ丘病院に電話を入れよう。彼女の過去を全て調べることでしか、今の彼女の状況を把握することはできないだろう、と判断したからだ。

 将吾は誰よりも危ない立場にいる人間だ。息子に何かがあったらと思うと気が気ではならない。

 今なら、彼女の狂った父親に同情することができる。彼女が心配だから、親心から、外に出さず閉じ込めたのだろう。そのことが原因で彼女の恨みを買い、愛娘に殺されてしまうなど、何よりも辛いことなのだろうが。


 ◇


「成宮医院の成宮聖です。森本さんですか」

 僕は、椎名めぐみの過去を知るために、紫ヶ丘医院の森本に電話をかけた。森本さんとは、年は離れているが、近くの病院の仲間として、昔から仲が良い。

「ああ、成宮くんか。私に何の用かい」

 彼のやる気のなさそうな声は、未だに変わっていないようで、少し安心した。

「突然ですが、椎名めぐみという女性は、過去そちらで診察を受けていますか」

「───いきなりだね。何年前の話かも分からないのに、覚えているわけがなかろう」

 彼の言い分は最もだ。

「12年前です」

「12年前───ああ、あの娘か」

「森本さん、覚えていらっしゃいますか」

「ああ、彼女は特別だったからね。しかしどうして成宮くんが、彼女のことを知りたいのだね。───まあいい。それは後で聞かせてくれ」

「では、椎名めぐみのご両親のことですが───」


「本当にありがとうございました。では、失礼します」

 受話器を起き、一息つく。久しぶりの彼との会話が、まさか患者のことになるとは思わなかった。

 彼はその後、彼女のことを全て話してくれた。母親のこと、父親のこと。そして、彼女自身のこと。僕は彼の話から、耳をそらすことができなかった。もしあの話が全て本当なら───兎に角将吾にも、彼女のことをきちんと話し、注意を促さなければいけない。



 ◇


 雷が不定期に光を地に落とし、雲を切り裂くような音を鳴らす。雨の飛沫が窓を打ちつけ、風が草木をなぎ倒すかの如く鳴り響いている。そんな目覚めの悪い朝だった。きっと今さっき私を起こしに来た成宮先生が、カーテンを開いたのだろう。

「どうしたんですか、先生。早朝から訪ねてくるなんて珍しいですね。おはようございます」

 皮肉を交えながら挨拶をする。挨拶は礼儀の基本だということくらいは、外の世界を見たことのない私でも、しっかりと心得ていた。

「───少し、私についてきてくれないかな」

 今の医者は挨拶もしないのか、と不満に思ったが、ここにいることができるのは彼のおかげだということを思い出し、口には出さないでおいた。


 彼に連れられて、広い院内の廊下を歩く。廊下は隅々まで掃除が行き届いていて、照明に反射し、美しく輝いていた。エレベーターに乗り、彼は五のボタンを押した。エレベーターの音は意外と小さいモーター音で、その中の沈黙は際立つ。彼の呼び出しは勿論、些細な用事ではなく、何か理由があってのことだろう。自分の体は否応なしに、固く身構えてしまう。

 エレベーターのドアが開き、無言のまま2人で歩く。彼の白衣からは、何かがぶつかり合うような、ジャラジャラとした音が聞こえている。

 彼の歩幅は広く、すぐに私との距離を離していく。彼は、心なしか急いでいるように見えた。

 彼の部屋は案外遠く、五階の端にひっそりと存在していた。扉は病室とは余り変わらず、白い扉だった。ただ違うのは、引き戸か開き戸の違いだった。ドアには、当たり前だが鍵を掛けているようだ。

 彼はポケットから鍵束を取り出す。彼が歩くときにさせているこの音は、この鍵たちの音だったのか。

 五階に彼の書斎があることは知っていたが、未だに見たことはなかった。なるほど部屋の位置が原因か。

 彼が私を手招きし、部屋に入るように促している。素直に従い、すすめられた椅子に腰をかけた。

 小さな沈黙。それは長くは続かず、彼はすぐに口を開いた。

「君に最後の質問をしよう。君のお父さんとお母さんは、どんな人だったかな?」

 質問の意図は分からないが、慎重に答えておくのがいいだろう。下手な回答をして、彼の機嫌を損ねるのも嫌だった。

「母は病気で死んだと言いませんでしたか?」

「ああ。この耳でちゃんと聞いたよ」

「なんで死んだ母のことを今更───」

「いいから答えるんだ」

 彼の表情が少し鋭くなっていた。

「母は───」

 母がどうして死んでしまったかが、一瞬思い出せなかった。時間が過ぎてゆくことの恐ろしさを感じた。

「病死です」

 そう。あれは私が五歳だった頃だ。彼女は妊娠をしていたが、妊娠が発覚したのと同時に、脳の腫瘍も発見された。そのまま入院していたが、治療には効果が無く、癌に侵され死んでしまった。

「そうか。では、お父さんのことは、どう思っている?」

 私の回答を真面目に聞いているのか疑問を感じ、少し気分が悪い。

「父のことはもう思い出したくもありません」

「そうか───」

 彼はその後は何も聞かず、暫く黙りこくってしまった。



 ◇


 午後になり、私は高校から帰ってきた将吾と、病院の待合所で合流する。学生服は冬服に変わり、彼の逞しい腕を見ることができず、少し残念だ。

 彼と私は、病院の外にある公園へと足を進めた。以前この公園に来た時には、近くに病院があることは知らなかった。だから彼は、遅くまで私と喋っていることができたのだろう。

「ここに来るのはあのとき以来だな」

「そうね」

 病衣で外に出てきたために、全身が凍るように寒い。まだ僅かに残る雪に足を取られながら歩く。ここまでの移動だけで息が切れてしまった。そういえば外に出るのも久しぶりで、ずっと温かい病院のベッドに横になっていたせいか、体がなまっているようだ。

「あの後、どうなった?硝子割った時。お父さんに、怒られたよな」

「怒られたというか、気が狂ってたみたいだった。彼が私にプレゼントしてくれた熱帯魚を串刺しにして、その次の朝に、それを唐揚げにして私に食べさせたの」

 淡々と話す私に驚いたのだろうか。彼は暫く口を閉ざしている。

「どうしたの?」

「いや、何でもないんだ。───それで、めぐみはお父さんをどう思った?」

 不意に成宮先生の影が重なり、彼に質問されているような気分だった。

「どう、ね。───殺したいって思った」

「だから、殺したの?」

 突然の彼の発言に、耳を疑ってしまった。彼には、自分が父親を殺害したことは言っていない。

「それは、将吾のお父さんから聞いたの?」

「ああ。聞くつもりなんてなかったんだけど、父さんが───」

「どこまで、知っているの?」

 彼の言葉を遮り質問する。

「父親への恨みが堪えられなくなって、突発的に殺してしまい、家を燃やしたところまで」

 彼は私の目を見ずに言った。

「───そっか」

 先生は、彼に本当のことを話していなかった。私が父を殺すことを望み、家を燃やすことまで楽しんでいたことを。

 兎に角、彼には本当の理由を知らされないで良かった。先生も、そこまで自分の息子に言うことはできなかったのだろう。私はほっと心を撫で下ろした。

「私のこと、嫌いになった?」

 もしあのことが知られてしまったら、間違いなく彼に嫌われるだろう。そのことだけには注意しなくてはいけなかった。彼を失ったら、私には生きていく理由がなくなってしまう。

「あれは、仕方がなかったんだ。きっと俺がめぐみの立場にいたら、同じことをしていたと思う。めぐみが救われて、本当によかった」

 彼はそう言うと、外気で冷たくなった右手を、私の左手で包み込んだ。

「俺、その話を聞いたとき、めぐみに何もしてやれなくて、悔しかった。毎日家に行ったけど、あの部屋にはめぐみの姿は無かった。だから結局、行かなくなったんだ。嫌われたのかと思ってね」

「嫌うなんてそんな。その時は、二階の窓の無い部屋に閉じ込められていたの」

「めぐみが俺を嫌うなんて考えられないよ。それは嘘。それにしても、二階にいたのか。俺はてっきり───」


 彼とこんなに長く言葉を交わしたのは、やはりあの時以来だった。彼は、私の姿が見えなくなってからずっと私のことが心配でならなかったらしい。とっくに私を忘れていたと思っていたが、私のことを考えてくれていたのだと聞くと、少し照れ臭かった。


「そろそろ、病室に帰ったほうがよさそうだね」

 冬場は日が落ちるのが早く、すぐに暗くなってしまう。太陽は好きだが、この時ばかりは、そんな太陽を恨んだ。

「ちょっと待って。ねえ、将吾」

「どうした、めぐみ」

「私と、本当に結婚してくれるの?」

「そんなことか───当たり前だろ。めぐみは俺がいないと、いつ死ぬかも分からないしな」

「───ありがとう」

古びたベンチしかない小さな公園から離れ、もと来た道を歩く。

握りあった冷たい彼と私の手はいつの間にか、心地の良い熱を帯びていた。



 ◇


 森本さんの話が全て事実だとすると、彼女は生まれながらにしての精神異常者だ。家庭の事情で彼女は精神を病んでしまい、父親の連日の拷問のような行為で突発的に殺人に至ったのだと思っていた。

 しかし、それは全くの間違いだった。椎名めぐみの母親は、確かに五歳の頃に亡くなっている。しかし、彼女はその時妊娠していた。妊娠十ヶ月目だったらしい。

 ある日、彼女と両親で、デパートで買い物をしていたらしい。荷物は彼女と父親が持ち、母親はお腹を撫でたり、その子どもに話しかけたりしていた。

 帰りに、階段を使う機会があったそうだ。父親の話によるとその時も母親は、子どもに話しかけていた。そして、椎名めぐみが突然、母親の背中を押し、階段から突き落とした。

 すぐに父親によって救急車が呼ばれたが、その時には母親は頭を強打し、息絶えていた。勿論子どもも助からなかった。

 その後父親は、娘を連れて森本さんのところへ訪ねたのだという。


「どうして母親を押したの?」

 この質問を、森本さんは彼女に与えたという。

「お母さんは、ずっとお腹の赤ちゃんと喋っていて、私のことを見てくれなったから」

 彼女は、こう回答したそうだ。まだ見えぬ命への嫉妬から生まれた憎悪が、彼女をこうさせたのだと森本さんは言った。しかし、彼女の異常性は、まだ見えていなかった。次の質問をした時、森本さんは彼女の精神の異常を確信したという。


「赤ちゃんを殺したことを、どう思う?」

「殺して良かった。」

「お母さんまで殺す必要などなかったんじゃないかな。」

「お母さんは赤ちゃんを一番愛していたんだから、一緒に死ねて幸せだったと思う。」

 彼女と森本さんの会話で、彼女の精神の歪みが明らかになったらしい。その後も、彼女に絵を書かせたり、様々なテストを行った。その結果、森本さんは、結果を父親に話したら、ひどく嘆いていたそうだ。

 森本さんは、彼女を社会から隔離する必要性を父親に話した。しかし、父親はこれを頑なに拒んだ。森本さんも、彼女がいなくなったら孤独になってしまう彼に同情し、自宅から彼女を一切出さないという条件で、それを受け入れたらしい。


 彼女の父親は、娘が自分の母と子どもを殺したうえに、社会から隔絶された場所で生活することになることをどう思っただろう。葛藤したに違いない。自分が親なら、誰にでもその気持ちを理解することができる。

 結局彼が、娘を思って選んだ道は、彼自身をもっと不幸な結末に追いやった。よりによって、たった一人の愛娘に殺された。

 生まれつきの異常者である彼女は、自分が気付かないうちにも、問題行動を起こしていたに違いない。彼女は、思考、行動、全てが狂っていた。

 ここからは僕の考えだが、父親は娘思いのまっとうな人間だ。狂っていたのは彼女だけだったのだ。自分の過去をいいように妄想し、記憶を塗り替えた。そして自分自身を悲劇のヒロインに例え、演じていたのだろう。

 おそらく、父親から受けたと語ったことも、全て彼女の妄想だろう。熱帯魚を殺したのも彼女自身だ。勿論、父を殺し、家を焼いたことにも、何も罪悪感はなかったのだろう。本人も、楽しんでやっていたと言っていたために、これは確実だろう。


 どこまでが現実で、どこまでが彼女の妄想なのかは定かではないが、そこまで知る必要はないだろう。

 全てが妄想でしか自分の存在を認めることができない彼女は、ひどく寂しかっただろう。自分を保っていることができたのは、将吾といたときだけだったのだろう。

 彼女を今更、更正することは不可能だ。可能性があるとすれば、将吾───いや、息子が巻き込まれたらどうする。彼女は彼に固執しているだろう。そして彼も、彼女へ盲目だ。一番危ない立場にいる。

 これ以上彼女の狂気の被害者を増やしてはいけない。彼女には一層注意して接していかなくてはならないだろう。






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