復讐の代償
***
自分から流れ出る生温い血溜まりに、身体から心まで溺れた。
この世界で最後に見たものは最愛の人──成宮将吾の姿だった。倒れている体を起こすこともできず、ただ彼を見上げることしかできなかった。彼はこちらを凝視しながら、吐き気を催すほど陰鬱で、熱のこもっていない微笑を浮かべている。それが自分への蔑みや嘲りのように感じられ、酷く不愉快だ。
彼に刃物を突き付けられたときは疑問と焦りで混乱し、状況を理解する余裕はなかった。正直今でも、何故私がこんな姿をして地に伏せっているのかが理解できない。ただひとつ言えるのは自分は彼に、辛いというよりは悲しく、憎いという感情を抱いているということだ。もはやこの状況に陥った理由などどうでもよくなってきていた。ただ彼への憎しみが募り、死んでゆく細胞が怒りでふつふつと沸いた。
死後の世界を信じているわけではない。
もしあるのだとしたら、その世界の端で虚ろな双眸を彼へ向け続けるのだろう。変わり果てた腕で口で、呪いの言葉を綴り唱えるのだろう。
私は彼への復讐を誓い、途絶えつつある意識に身を任せた。真っ暗な闇へ向かっていく狭間でも、成宮将吾の笑みが己の脳内に張り付いて離れなかった。
***
僕は満足だった。椎名めぐみ───最愛の恋人が、ついに自分だけのものになった。
他の男に笑みを浮かべながら話す彼女と、彼女に手を出した男たちが許せなかった。
彼女の魂は他の男に決して汚されてはいけない純粋で美しい代物だ。血で汚れても消えない可憐さはまさに高嶺の花であり、触れると溶けてしまう雪のように透き通っていた。彼女は今頃、死ぬまで僕と一緒にいることができたことを喜んでいるだろう。
僕は彼女の息が途絶えたことを確認し、彼女の顔を手に持った刃で刺し続けた。彼女を醜い顔にしてしまえば、他の者が見ても相手にもしないはずだ。彼女の目玉を潰せば、彼女の目には最後に僕だけが焼き付いているはずだ。削がれた皮膚が散乱し血が抜け切った彼女は、生きていた美しいめぐみとは別人だった。もうこれで誰も彼女に手出しはしないだろう。
僕は彼女の血液で汚れたナイフで、自身の心臓を目掛けて一突きした。
◇
私の魂は死後の世界へと運ばれていた。
そこは死後の世界とは一概に言い難く、現世にある小さな遊園地のようなところだった。死後の世界とは、こんなにも実体があるものなのか。三途の川を経由するものだとばかり思っていたが、どこにも見当たりはしない。
この世界が現世と違うのは、周りにたくさんの発光する魂のようなものが泳いでいることくらいであった。漫画でよく見る人魂のようなものだ。 周りを見渡すと、一列に並び始める発光体たち。集団性というのだろうか、ひとりが谷底に落ちれば皆こぞって順次に落ちていくというもので、自分も並ばなければいけない気がした。
発光体たちの列に並ぼうとふと足元に目を向けると、どこにも足はない。腕を伸ばしてみようにも、腕もなかった。ただ青白く光るものが宙を浮いている。自分の身体は跡形もなく消え、自分も周りで泳ぐ発光体に過ぎないということに気がついた。
この発光体の列はどこに向かって進んで行っているのだろう。ありきたりな話だが、天国や地獄と呼ばれるところへの仲介から、行き先を決められるのだろうか。
数十分経つころに、ようやく列の先が見え、小さな小屋のようなものがあることを認識した。そこに発光体がひとりずつ入って行き、消える。小屋の中までは見えず、もどかしい気持ちと不安な気持ちが交差する。そして、次は自分の番だということが堪らなく怖かった。
木の破片でできた小屋は、何か少し衝撃を加えれば簡単に壊れてしまいそうな簡単な作りをしている。脆さを隠すように黒いペンキのようなもので全体を雑に塗りつぶしてある。入り口は安っぽい布で天井からワインレッドのカーテンがかけられていた。まるで占い師ではないか。苦笑しながら、中に招き入れられる。カーテンの左右に配置された門番はどうやら人間の形をしているようだ。カーテンをくぐると、赤い階段が続いている。
───足がないのだから階段はいらないだろう。そんなことを考えながら階段から見上げると、頂上でいつかのテレビで見たようなロシア帝国皇帝の玉座に似た物体があり、そこに何かが座っていた。階段を登り終わるころには、その姿ははっきりと見ることができた。
───女。布で顔を覆い片目と口しか露出していない。その瞳すら、何を映しているのかがわからないくらいに無表情だった。唇は人間のそれとはかけ離れた色をしており、例えるならコバルトブルーであった。
「椎名めぐみ。立ったままでは疲れるだろう。座れ」
いきなり青い唇が開いた。見た目からは想像できない女性らしい高音、強かな声だった。
「足がないというのに、座れという言葉はどういう事でしょうか」
皮肉を含んだ声で女をたしなめる。
「立派に二つ生えているではないか。ではそれはなんだというのだ。座れ」
女は勝ち誇った声で言葉を返す。確かに、さっきまでなかった両足はきちんと地を踏んでいた。
不服な思いをするも、促されるままに女の座る玉座と向かい合わせに置いてある椅子に座った。玉座と比べると貧相な椅子で、パイプ椅子のようだ。女との間にある高級そうなガラス張りのローテーブルには、水晶玉のような大きな玉がひとつ置かれていたため、先刻考えた占い師という線を拭うことができなかった。
「椎名めぐみ。死後の世界はどう感じる」
女は静かに言った。
「想像する死後の世界と違い、楽しそうな場所ですね」
「そうか。では、お前には私の姿はどう映っている」
予想外の言葉に沈黙する。女は続けて言った。
「この世界や、この私の姿は、死後の者によって見え方が違う。しかし、必ずどの者も、同じことが共通している。死後の世界は、死した者の記憶の中で最も強く残っている情景だ」
不意に女は、自分の顔を纏う布をするすると解き始めた。現れた顔は目を見張るようなものであり、言葉では言い表すことのできない無残なものであった。片目は潰れ空洞になり、真っ黒な眼窩が寂しそうにこちらを見ている。皮膚は切り刻まれ殆ど人間の原形を留めていなかった。
「そして、私の姿は死んだ者自身の姿をしているということだ」
女は低い声で言った。
「これは、私なの」
言いようのない感情に襲われる。
こんな無残な姿が私であるなどと言われても、信じられる筈がないだろう。この女は、ここに来る魂の死ぬ直前の姿をして対面しているのだろうか。そんなことをして何が楽しいのか。死んだ時の姿を模して本人をからかっているのだろうか。私は自分の心境を声に出すことは避け、目の前にいる女をただ睨みつけた。
「お前は今、何故そんな酷いことをするのかという顔をしている。大体の者はそう言う。ただこれは自分の死を正面から実感するには必要なことだ。本当に自分は死んだこと。何故その姿で死んだのか。それを理解することも大切ではないのか」
私には、女の言うことが最もであるという意識が芽生えた。しかし、あの醜い顔が自分だという事が理解できなかった。
死ぬ前の事はなにも覚えていない。──ああ、自分はただ、自分の死など忘れて無かったことにしてしまいたかったのだ。ただ、燃えるような怒りと憎しみの感情だけは忘れることができなかったのだろう。
「椎名めぐみ。何故お前が死んだのか、そして、その憎しみの根元を知りたくはないか」
女は顔に布を再び巻きながら言い、その口角を上げた。
◇
僕は死後の世界の存在を知り驚愕した。背景は過去に彼女と行ったテーマパークだというのに、周りに浮いているものが恐ろしかった。しかし自分の姿もその恐ろしい物体と同じものであるのだ。
自分が死んだことが信じられず、ただ怯えていた。心の中には、ただの夢だと言い聞かせる自分がいた。気付けば小さな小屋のようなところへと流れ着いていた。古い建物に、眩しいくらい鮮やかな赤のカーテンは不似合いだ。中に通され、促されるまま椅子に座る。この時に自分に足があることには触れないでおいた。
「成宮将吾。お前は何故死んだか、覚えているか」
顔全体に包帯を巻いた男が、くぐもった声を出す。
「あなたは誰ですか」
最もな質問を投げ返す。
「では、この世界はどう思う」
聞いていないかのように男は喋り続ける。
「質問に答えろ」
自分の質問に答えないこの男と、どうしても会話が成立するとは思えなかった。
「お前が質問に答えれば私も、それ相応の回答をしよう。もう一度聞く。この世界をどう感じた。そして私の姿が、お前にはどう映る」
男が硬く縛っていた包帯をナイフで裂き、その顔が露わになる。僕は絶句し、無意識に顔を背けてしまっていた。
「お気付きのように、ここはお前の1番の思い出である場所を象っている。そして、この醜く腐敗した顔は成宮将吾、お前の顔だ」
男は、僕が感じたこと全てを代弁した。
「何故僕の顔をしている。馬鹿にしているようにしか捉えることができないじゃないか」
頭に浮かんだ言葉を全て口から吐き出した。
「ではお前は、この顔を見るまでの間に自分が死んだことを認めていたのか。実感などなかっただろう。そして否定すらしただろう。無理もない。ここに来る者たちは大概そうだ。さて、成宮将吾。お前がここに来た経緯をおさらいしておこうか」
◇
私は謎の女に水晶玉を覗くように促された。
「これはお前が死に至った原因だ。成宮将吾という男に刃物で殺された。死んだ後も、この姿になるまで刺され続けた」
女は無表情な瞳で水晶玉を見つめ、話を続けた。
「この成宮将吾という男は、お前の何なのかを一応本人にも確認しておこうと思う」
女の問いかけに、重い口を渋々開く。
「成宮将吾は私の恋人でした。とても優しく、いい人でした」
本音だった。彼といたときは何も不満はないくらい、いい恋人だったと思う。
「しかし、彼に殺された以上は、もう恋人などと思っていません。どうしても彼のことを良く言えない。何故か彼を憎んでいる私がいます」
「わかった。では、何故殺されたか想像することはできるか」
女の声が少し大きくなった。ここからが本題だということか。
「全く理解できませんでした。刺されたときは、彼は私に恨みでもあるのかと考えたのですが、私は何もしていないし彼がそんなことで私を殺すなんて、あり得ないことです」
「理由がなく殺しをする人間は、快楽殺人犯くらいしかいないだろう。彼のことをよく知らないのか」
少し間をおき女は言った。
「彼は、あまり何を考えているのかが理解できない人でした。深夜にいきなり家まで来たり、元々嫉妬心が強いのでしょうか。
私が学校で他の男と喋ったところを見れば、丸一日口を聞いてくれなかったりはありました」
私は彼のことを思い出しながら答えた。
「そう。成宮将吾はお前を溺愛していた。歪んだ愛情の末に、自分だけのものにしようと、お前を殺した」
女は残酷な現実を躊躇いなく語った。
「私は彼が分かりません。彼の愛は確かに歪んでいた。でもまさか殺しなんて。
私はそんな愛は望んでいない。そんな理不尽な愛情で人生を終えるなんてあまりにも辛い」
「だから、彼に復讐したい。か」
女は私の心を最初から読み取っていた。
その上で私の言葉を聞き、その二文字を突きつけたのだ。
女は続けて言った。
「復讐など何の価値も無いとだけ言っておこう。過去は変えることなどできない。生まれ変わった先で恨みを晴らしたとして、それは復讐と言えるのか。全くの別人である人間を、自分が殺されたように切り刻むのか」
女は無駄だと知っていながら僅かな救済の船を出したようだ。
「過去が変えられなくても、次に生まれる成宮将吾を殺せば、私にとっての復讐は終わる。一度、彼に死の苦しみや怒りの業火を感じさせなければ、またこの先に犠牲者は出続けます。そんなことはあってはならないんです。いつか、必ず報復される。私が彼を殺します」
決心を固め、私は女を見た。
「わかった。そこまで言うのなら、自分の好きにすればいい。ただし復讐の代償は大きい。お前の魂は、永遠に過去に囚われ先へ進むことができなくなる。そして新しく誕生するお前は生きていた前世の記憶を持たない、椎名めぐみという普通の女として生まれる。しかし普通の人生を送ることは決してできない。その覚悟があるのなら、お前を生まれ変わらせてやろう」
女はそう告げ、現世へと続く道へと自分を見送った。
女は彼女と別れた後に、復讐の対象である将吾は、彼女を殺した後に自殺したことを伝えていなかったことを思い出した。しかし、このことを伝えたとしても彼女の怒りが収まるはずはなかった。──考え事をしている余裕はない。まだ迷える魂が並んでいる。女は足早に仕事へと戻った。
◇
「お前がこの部屋に入る前、椎名めぐみの魂がここへ来た」
男は、先刻別れたばかりの彼女を懐かしみながら言った。
「めぐみがここへ来たのですか。今はどこへ行ったのですか。喜んでいたでしょう。僕と共に死ぬことができたことを」
そうして僕は、声を弾ませて彼女との思い出を語り始めた。
「椎名めぐみはお前に殺されてから、お前に復讐をすることだけを考えている。つい先ほど、新しい命を与えた。勿論前世の記憶は無いが」
飽きれたように男は、僕から目を逸らしながら言った。
「そんな嘘で僕とめぐみの愛を引き裂こうとしているのか。そんなことをしても無駄だ。僕とめぐみは一生傍にいる」
僕は自分の犯した罪を理解できずにいた。なぜ、愛する人である彼女と共に死ぬことがいけないことであるのだろうか。
「その椎名めぐみからの命令だ。お前は望み通り、彼女と一生傍にいることができるぞ」
奇妙な笑みを浮かべながら男は続ける。
「お前はこれから終わりのない復讐を受ける為に現世へ行ってもらう。何があろうと、復讐する側とされる側の立場は変わらない。浅はかな愛など、片方の裏切りで崩れ片方の刃で血を流す。お前の復讐のために生まれた彼女は復讐を終えるまで苦しみ続けなければならない。死の直前に生まれた憎しみは死後も消えることはなかった。
憎しみという感情が、記憶を持たない新しい彼女の命を不幸に陥れ、殺人へと突き動かすものなのだ。その命が尽きればまた、別の女の腹に宿る。復讐の代償は、復讐を終えてもまた始まる裏切りの連鎖。望んでも断ち切ることはできない殺しの連鎖だ」
***
私は現世へと続くという道を歩いていた。 私の憎悪は、女から聞かされた話で増幅を続けていた。我を忘れ、自分の制御が効かなくなっていたことを、心から女に詫びた。しかし復讐のためには、心は残忍な人間にならなければいけない。最後までやり通す覚悟が必要だ。
魂が肉体から切り離されたとき、その魂はひとりの女の腹に宿った。椎名めぐみという新しい人間が誕生した。