ノーアンサー
そういえば、友人に本を返さなければいけなかったのだと思い出し、机の横に下げてある鞄から一冊の文庫本を取り出した。
放課後。なかなか帰宅しないでいる同級生らがしきりにさんざめく声の向こうでは、曇天が暗みを増し、雨もいよいよ降り出さんとしていた。
「はい」
「あらっ。もう読んだの?」
友人は、昨日渡したはずの本がすぐ戻ってきたことに驚いているようだった。受け取ったそれをぱらぱらとめくり、栞の挟んである頁まで目を滑らせていく。
「面白かったでしょう」
まるで当然だと言わんばかりの、自信に満ちた表情で尋ねられたので、私は言葉に詰まった挙句首を傾げた。正直な所、彼女が絶賛する箇所や作品の山場であろう場面を読み込んでも、その面白さは全く理解できなかった。
すると友人は一瞬顔をしかめ、手元の本と私とを見比べた。
「そう。……残念ね、この本、私が好きな作家の中でも一押しなのに」
伏目がちに呟くと、本を自分の鞄にしまう代わりに今度は、別の文庫本を差し出してきた。私はそれを手に取り、表紙を開いて作者と題名を確認する振りをする。二頁目以降を流し読みする間もなく、閉じたそれを相手へ突き返した。彼女の見開かれた双眸と目が合う。
「わざわざありがとう。でも、もう終わりにしましょう」
「どうして。まだこれからじゃない。うちにはたくさん本があるわ、そのうち好きな作家も見つかるはずよ」
「それは――ないと思う。きっと、本じゃないのよ。私のは」
やや考えて、押し切るように言うと、友人の頬はサッと赤みを帯びた。次いで苦虫を噛みつぶしたような表情を見せたが、すぐに視線を逸らされ、伏せられた目元に黒髪が散らばった。
「読書も趣味にならなかったってことね」
周囲の笑い声に混じって耳慣れたささやきが聴こえた。唇を真一文字に結び、私は頷いた。
これまでも、音楽、活動写真などさまざまなものを目の前の友人は、趣味を持たない私に貸し与えてくれた。しかしどれも駄目だった。三度目の正直となった本もまた、私の興味を引く対象とは違っていた。
「つまらないわ」
吐き捨てるように言うと友人は苛立った手つきで帰りの支度を始めた。
「つまらない? なぜ」
「なぜ、ですって。分からないの。私、あなたを心配しているのよ。趣味が無いだなんて、毎日生きていてもつまらないじゃない。ええ、そうだわ。あなたの今の在り様はつまらないと私は思う。だからお願いよ、早く趣味を見つけてちょうだい」
早口で捲し立てる彼女を、私は当惑した顔つきで眺めていた。
一人、また一人と同級生が帰っていく。
多趣味であるこの友人にとって、私の在り様はつまらないらしい。確かに彼女の言動は自信に溢れている。しかし、果たして趣味とは、他人のお下がりから発見できるような安っぽい代物なのであろうか。
視線を宙に彷徨わせ、それから私は自身の気持ちを整理するつもりで言葉を選んだ。
「あなたにしてみれば――つまらないのだろうけど。私は毎日を楽しんで生きているし、自分の在り様を寂しいとは思うけれども、つまらないと感じたことは一度もないわ。無趣味であることの何がいけないのかしら」
友人は黙ったままだった。その刺すような眼差しを、私はじっと受け止めた。
このままとどめの一言を告げることにためらいを覚えた。輝かしい青春を謳歌する彼女と、私とを隔てる溝が、もしかするとこの一言によって二度と修復できなくなる気がしたからだ。
「雨だ」
「ひどいな、こりゃ」
つい先程まで傍らにいた同級生らが、窓ガラスにへばりついて笑い合っていた。