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【三題伽】白い雨と海王

作者: nyokki


三題伽【白い雨と海王】

お題:借金地獄、熱帯雨林、捜査網


 一息吐くと、小さな世界に大きな吹き出しが生まれた。ハァだとか、そんな有り体な擬音語が形成され、その吹き出しの中に描かれる様子が、仕事で見慣れたパソコンの入力欄に様々な語句や数字が書き込まれていく様に見えて、どうしようもなくうんざりするのは、仕事嫌いの俺だからこそだろう。どれもこれもが似たような線から出来ていて、しかしそれでも奥行きの全く異なる文字たちは、疲れた俺の頭の中をぐるぐると回り続ける。

 「おい、会社行かねぇの」

 そう言いながら肩をツンツンとつついてくるのは、「ァ」の音。そのやんちゃそうな声から、彼は幼いのだろうと推測するが、その尖った第二角からは、どこか思春期の香りもするのだ。

 「おいってば」

 しつこく聞いてくる「ァ」は延々と俺の頭の周りを飛び回る。それはまるで蝿のようで、余りにもしつこく腹が立ったので、ヒュンヒュンと耳障りな音を立てながら飛ぶ「やつ」を取っ捕まえ、耳とも口とも解らぬ第一角と第二角の間の空隙に向かって、大声で叫んでやった。

 「行かなくたって良いんだよっ! 俺はリストラされたんだ! 解るか、リ・ス・ト・ラ」

 「わ、解ったから、口元に唾がかかるほどに叫ぶなってぇ」

 ビクビクと震えながらそう言う「ァ」のあの空隙は、どうやら口だったようだ。怯えるような目でこちらを見るやつを見て、ざまあみろと心の中で呟いた。周りの目が、痛い。

 「ったく……」

 呟きつつ、右手の人差し指と親指に挟まった「ァ」を解放してやると、やつは第二角の上の方をビロビロと動かし「ベー」と言って逃げてしまった。やはり子供だったようだ。かわいらしい仕草だと、そして大人げない事をしてしまったな、とも思う。

 そんな事を考えていると、頬に触れる冷たい何か。その存在に気付くことが増え、ふと上を見てみると、空は黒い天幕を張ったかのように真っ黒に染まっていた。雨が降り始めたらしい。しかし俺は、周囲の人間のように傘を持っていないし、むしろどこかに雨宿りすることすら考えていない。徐々に強くなる雨足の中、目を細めてビル街を眺めると、そこには白い雨のレースをかけた熱帯雨林が広がっていた。

 人の姿などもはや見えはしない。そこに存在するのは、太い太い幹の熱帯樹と俺だけ。幻想的な風景の中に突如として現れ、数を増してゆく丸い何かは、俺を避けるようにして対面から流れる。その太く長い奔流の中を、俺は渡るのだ。俺を中心にして広がる河の波紋は揺らめき、上空から降るサラサラとした光の粒たちを反射する。美しいと思えるのは、俺の心が汚いからだろうか。

 周囲の丸傘たちは、俺を包み込むようにして流動する。それは、どこまでも逃げる事の出来ないような迷宮。何者をも飲み込み、排泄することを許さない。強大な精神の流れが全てを司っていたのだ。


 妄想というものは、たったの一瞬で流れ行くもの。俺は今、雨中を流れるように歩く人混みの中に、ただただ佇んでいるだけなのだ。周囲の人々と俺の間には、少々の間が憎たらしげに雨を浴びて鎮座している。視線の矢は彼の体を容赦なく貫き、そのまま俺の体へと、その鋭い矢じりをブスブスと突き立てた。そのどれもが冷たい感触で、どこか遠慮というものを感じるような気もするのだ。むしろ、俺と人混みの間にもはや寝転がるように存在する彼よりも、幾分か慎み深いのかも知れない。

 「おい、お前」

 歩きながらそう呟くと、彼はようやく体を起こし、こちらに顔を向けた。透明な顔の向こう側から、恐怖を称えた情けない表情が覗いているが、気にしないことにする。

 「いい加減どけよ。鬱陶しい」

 怪訝な顔をした彼は、しかしそのまま横たえた体を更に前に伸ばすのだ。邪魔くさい……。いい加減にどいてくれないと、俺は一歩一歩を腹立たしさと共に踏み出さなければならないじゃないか。

 時間が経過すると共に軽く俺の肩を小突く、苛立ちという悪魔が囁くのだ。怒鳴ってしまえ、と。大きな声を出すが良い、と。それは甘美な誘惑だった。体の中に眠る本能的な何かを刺激する誘いに、思わず口を開きかける。しかし、人間。世間体という天使は、いつでも身の内にその成りを潜めているものだ。悪魔からの誘いを断るようにと、自らの内側から圧迫するようなプレッシャーをかけ続けられる。そんな二体に板挟みになった俺が出した答えは……。

 「おい、てめえ!いい加減邪魔だつってんだろ!」

 そう叫びながら、俺は彼を蹴り倒す。しかし彼はその体の大きさを増してゆくだけで。そんな彼を怒鳴り続けている時、ついに気がついた。彼は、壁なのだということに。俺と周囲の群衆の間に堂々と立ちはだかる壁だということに。

 ようやくにして目が醒めたとき、俺は惨めであった。俺を取り巻くようにして広がる、警戒と侮蔑の捜査網はその幅を広げ、俺という人格を溶かしてゆく。浸透も何も出来ない人格が、様々な想像に修飾され、視界に入るありとあらゆる人間の脳に補完され、そしてすぐに流れてしまうのだ。

 俺は恥ずかしくなり、走った。濁流を掻き分け、我が住処へとただひたすらに走る。走る。俺の前に立ちはだかる人垣は、俺の朱鷺の一声よって、彼の流入する隙間を作りながら割れるのだ。俺は、昔見た「十戒」のモーセだった。


 その日からというもの、俺の周りには常に彼がいた。物理的にだけでなく、精神的にも。付きまとうようにして歩く彼は、町を歩いていてもずっと離れることはない。就職活動中だってそうだ。彼は次第に、俺から活力というものを奪う。何物をも失うその日まで、俺はただひたすらに活かされ、搾取されるのだ。生ける屍とは言い得て奇なり。その存在をこれほどにまで上手く表現する言葉はないだろう。

 ついに全てを失い、借金地獄にはまってしまった我が身を、誰が見てくれるというのだろうか。枯れた柳のような、おどろおどろしくも萎えた心に、誰が憐憫の情を向けてくれるのだろうか。俺には、居場所が無いのだ。生きているという事そのもののみが存在の証拠で、我が身一つが財産。そんな状況など、何を以てしても覆せるものではない。

 俺は、泣いた。幾晩も頬を涙で濡らし、彼の存在を呪った。しかしそれで彼が去るほど世の中甘くはない。むしろ肥大化し続ける彼の中心で、数日後俺はようやくにして全てを悟り、そしてその涙を拭ったのである。だが、時既に遅し。彼という存在は、もはや肥大化の一途をたどり、全貌を確かめる事すら不可能なまでになっていたのである。

 そんな俺の元に一人の救世主が現れたのは、憔悴しきったある日の事だった。「彼女」は彼の体を切り裂きながら、真っ直ぐに俺の元へとやってきたのだ。満面の笑顔と共に。面識など欠片も無い彼女は、戸惑う俺の心の隙間に瞬時に入り込み、そのまま俺の心を奪っていってしまった。

 「ねぇあなた、どうして一人でいるの」

 「一人じゃないよ」

 「どうして。あなた以外に誰がいると言うの」

 彼女には彼が見えていないのだろうか。

 「ほら」

 彼の姿を指し示し、彼女に見せてやろうとするが、ふと気づく。

 「あれ、いない」

 「元から誰もいないわよ」

 怪訝な顔をしながら俺の顔を覗き込み、一通り見たかと思うと、彼女は自分の姿勢を元に戻し、長く漆黒の髪をサラリとかきあげた。そもそも、俺の周りには誰がいたと言うのだろう。

 「そうだね、誰がいたんだろう。どうかしてたよ」

 昔どこかの映画で見たように首をすくめてみると、その仕草が面白かったのか、彼女はその長い睫毛をふるふると振るわせ、くすりと笑った。そんな彼女があまりにも魅力的で、思わず見つめてしまう。俺が見つめているのに気づいた彼女も俺の顔を見つめ……しかしそこから進まないのだ。どこまでもプラトニックな愛を感じるからこそ、お互いに何も出来ない関係で、そんな関係が疎ましく、しかし素晴らしいと感じる。

 「少し、風に当たりましょうか」

 「そうだね、それが良い」

 彼女との微妙な距離の中で生まれる会話は、常にどこかぎこちなくて、それでいてウブで。そんな俺たちは、まるで何かに惹かれるようにして車を走らせ、歩みゆき、その身をどこか世俗から遠く離れたところに置こうとするのだ。何者も近づけさせない、神秘的などこかへと。

 俺たちが辿り着いたのは、荒波に幾度となく削り取られたのであろう、滑らかな岸壁。そこから眺める風景には、何かに怒り激しく泡立つ白波や、この世を捨てんと水平線の彼方に沈む太陽。そんな生命の力の溢れる光景に、思わずため息が漏れ、体が打ち震えるのだ。その震えは体だけでなく、俺の心をも共振させる。気づけば俺は、いつの間にかかつての生気を取り戻していた。

 「ねぇ、あなた」

 「なんだい」

 海に向かって語りかける彼女の横顔は、夕日も相まって、美しくも儚い表情に見えて。しかしそれでも、海に負けないほどに力強い生命力を湛えていた。

 「この果て無き海に、あなたは何を感じるの」

 「俺は」

 世界が語りかけていた。俺という存在は、今この瞬間のためにあるのだと。目の前に広がる海が、足元から強く生気を突き上げる大地が、我が身を震撼させながら伝えんとするのだ。

 「俺は、命を感じる」

 どこまでも無垢な言葉が、俺の口から紡がれる。その儚い糸辺は、広い広い大気の中に拡散することなく彼女の耳へと入っていった。ふふっ、と彼女が微かに笑い、俺の方を向く。彼女の表情は今までよりも格段に魅力的で、俺の体を内側から突き動かした。手を取り、顔を見つめ、そして触れ合う唇。世界はもう、冷たい雨に包まれてはいなかった。

 「行こうか」

 永遠のような時間を超え、彼女の手をそのままに、俺は歩き出そうとした。しかし彼女は何故か頑なに動かない。

 「最後に、岸壁の端に寄って、海を見下ろしてみない」

 危険な薫りが、した。しかし今の関係を崩したくないのだ。せっかく華やかになった世界が、俺の周りから離れていくのが怖いのだ。

 「良いよ」

 決心し、彼女と手で繋がったまま、岸壁へと並んで歩く。端から眺める景色は、先程まで見ていた海の風景とは正反対で、打ち寄せる波と削られる岸という、生というよりむしろ死を感じさせるものだった。

 もう良いだろうと、そう思い後ろを振り向いた瞬間、何かが手から滑り落ちる感覚と、胸に何かがぶつかる衝撃。それは軽い衝撃だったが、俺の重心を後ろに持っていくには十分過ぎるほどのものだった。そのまま前を向くと、手をピンと突っ張り、何かを呟く彼女の姿。

 「ごめんね、私は、死神」

 堕ちて行く感覚の中、全ての記憶が鮮明になる。彼女など、彼など、誰も存在はしなかった。俺は望んで身を投げたのだ。最後に甘い記憶を残させてくれたのは、死神なりの優しさだったのだろうか。そうして、俺は潰えた。


 俺の体は海の底。

 海を統べる、生と死を統べる海王なり。


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