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嘘つきの君は、今日も静かに甘い毒を飲む  作者: 楠木 悠衣


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第1話 世界は嘘で満ちている(そして私だけが、それを知っている)

世界は嘘で満ちている。

 私はそれを、文字通りに知っている。


比喩ではない。生まれつきそういう仕組みになっているのだと、物心ついたころには理解していた。


他の人間が嘘をつくとき、私の視界の端に橙色の光が滲む。淡いものから、目を細めたくなるほど眩しいものまで、嘘の規模に応じてその輝度は変わる。

 そして必ず、甘い香りが漂う。砂糖を焦がしたような、べたつく甘さ。


悪夢のような能力だと思う。

 けれど今日にいたるまで誰にも話していない。話す必要がないから、というのが正直なところだ。


嘘がわかるということは、つまりそういうことだ。


人は何かを隠すとき嘘をつく。何かに怯えるとき嘘をつく。誰かを守るために嘘をつく。そしてもっとも頻繁には——自分自身を守るために嘘をつく。


だから私には、見えてしまう。

 クラスメートたちが「仲良しだよ」と言いながら内側に溜め込んでいる小さな憎しみが。先生が「君の将来を思って」と語るときの、実際はただ面倒を回避したいだけという本音が。


それらがすべて橙色に滲んで、甘い香りを漂わせながら、私の周囲に満ちている。


疲弊するとはこういうことか、とよく考える。

 別に傷ついているわけではない。怒っているわけでもない。ただ、疲れている。


何年も、毎日、絶え間なく、世界の真実だけを見せられ続けている。

 旅行のパンフレットの嘘くさい青空の写真を眺めるように、現実はまったく違うものだとわかっていながら、それでも生きていかなければならない疲れ。


五月の朝の教室は、いつも通り橙色に滲んでいた。


「ゆずはー! ねえ聞いてた?」


渡瀬美月が私の机に両手をついて、顔を覗き込んでくる。

 彼女の周囲はほとんど色づかない。嘘をつかない子だ、と最初に会ったときから知っていた。それが彼女と友人でいられる、おそらく唯一の理由だった。


「聞いてなかった」

「えっ正直すぎ」


美月が笑う。


「転校生が来るんだって! 男の子! 聞いた話だと、めちゃくちゃかっこいいらしいよ?」

「そう」

「そうって……もうちょっと興味持とうよ」


私は窓の外に視線を戻した。

 五月の空は、真実の色をしている。

 青い。ただ、青い。嘘がない空というのは、ひどく凡庸だ。


転校生が来ようと、私の日常は変わらない。

 そう思っていた。


——あのときまでは。


瀬名晶せなあきらが教室に入ってきた瞬間、私は息を止めた。


理由がわからなかった。容姿のせいではない。確かに彼は、美月が「めちゃくちゃかっこいい」と表現したことに偽りがないほど整った顔をしていたが、私はそういうことにあまり関心がない。


問題は、それではなかった。

 問題は——彼に、色がなかったことだ。


転校生というのは、通常、嘘の塊だ。自己紹介のすべてが多かれ少なかれ橙色に染まる。

「よろしくお願いします」という言葉には必ず「あなたたちとは仲良くなりたくないかもしれない」という本音が滲み、「前の学校は遠かったので」という理由には必ず省略された事情がある。

 人間の社交的な言葉というのは、どれも大なり小なり嘘で構成されている。


それなのに。


「瀬名晶といいます。よろしくお願いします」


色がなかった。

 橙色が、ひとつも滲まなかった。


私は目を細めた。まさかと思い、もう一度確認する。

 香りもない。あの焦げた砂糖の甘さが、まったく漂ってこない。


嘘をついていないのかと思った。しかしそれはおかしい。人間が社交的な自己紹介をして、まったく嘘のひとつも交じらないということは、経験上ありえない。


彼は、嘘をついていない。

 あるいは——私の能力が、彼に対して機能していない。


十七年生きてきて、初めてのことだった。


瀬名晶の席は、私のひとつ前だった。

 担任が指定したそこに、彼は何も言わずに腰を下ろした。振り向きもしない。


存在感があるのにどこか希薄で、透明なビー玉のようだと思った。光を通すけれど、向こう側が歪んで見える、あんな感じの。


「ねえ、ゆずは」


授業が始まる前に美月が囁いてきた。


「あの転校生、なんか変だよね」


私は思わず彼女を見た。


「何が変なの」

「うーん……なんか、感情がどこにあるのかわからない感じ? 笑ってるんだけど、目が笑ってないっていうか……。ホラー映画の人みたいな顔してる」


美月の感想は正しい。彼女は嘘をつかない分、感じたことをそのまま言語化する能力が高い。


目が笑っていない、か。


私はもう一度、前席の転校生の背中を見た。

 均整のとれた肩。少し長めの黒髪。制服の白いシャツの衿が、きっちりと折りたたまれている。


彼は微動だにせず、黒板を眺めていた。

 甘い香りが、どこからもしない。


昼休みに、彼は私に話しかけてきた。


夜宮柚葉よみやゆずはさん、だよね」


一瞬、何かが喉に詰まったような気がした。それが何なのか、うまく言葉にできなかった。


「そうだけど」

「ちょっといいかな」


美月が「あ、えっ、転校生くんが!?」と口をぱくぱくさせているのを横目に、私は席を立った。彼についていったのは、拒絶する理由がなかったからだ。合理的な判断だと自分に言い聞かせた。


廊下の端、誰も来ないような場所で彼は立ち止まり、私の方を向いた。


正面から見ると、余計に整った顔をしていた。人工物めいた、計算されたような端整さ。そしてやはり、薄く笑っているのに、目が笑っていない。


「単刀直入に聞くけど」


と彼は言った。


「君は、人の嘘がわかるんじゃないか」


私の思考が、一瞬停止した。

 何も言えなかった。否定する言葉も、肯定する言葉も、のどの奥で凍りついた。


「なんで」

「俺の目を見ていたから」と彼は答えた。「ほとんどの人間は、初対面のとき、顔全体を見る。だけど君はずっと俺の目だけを見ていた。まるで、そこに何かを探すように」


十七年間、一度もそれに気づかれたことはなかった。

 この人間は、何者なのか。


「……それが何だっていうの」

「特に何でも」


と彼は言った。不思議なほど淡々と。


「ただ、確認したかった。俺のことが、わからないだろう」


それは、疑問文だった。けれど彼の声音は、最初から答えを知っているような響きを持っていた。


「……わからない」


認めることにした。この状況で嘘をついても意味がないと判断した——そう思ったのに、なぜか胸の奥がわずかに痛んだ。その感覚が何を意味するのか、そのときの私には、まだわからなかった。


「そう」と彼は言った。


それだけだった。

 瀬名晶は身を翻し、廊下を歩き去っていった。


私はしばらく、その場に立ち尽くした。

 廊下に、甘い香りはなかった。


彼が嘘をついたのか、本当のことを言ったのか。

 初めて、判断がつかなかった。



その夜、私は自室の窓から夜空を眺めながら考えた。


嘘が色に見えるということは、逆に言えば、真実は透明だということだ。誰かが完全に正直でいるとき、私の視界にはなにも余分なものが加わらない。ただの世界が、ただの世界として在る。


だから——瀬名晶の「色のなさ」は、完全な正直さを意味するのか。

 それとも。

 何か別の、私が知らない可能性を意味するのか。


スマートフォンに通知が届いた。美月からだった。


『ねえゆずは、さっきのこと教えてよ、転校生くんと何話してたの!?』


返信を打とうとして、手が止まった。

 なぜだかうまく言葉が出てこない。「何でもない」と送ることはできる。嘘だけれど、それくらいなら美月は橙色に見えないから問題ない——


そこで私は気づいた。

 今、自分の嘘を、正当化しようとした。


そういえば。私は自分の嘘を知覚できない。

 能力の限界だと最初から知っていた。他人の嘘には敏感なくせに、自分のそれは見えない。人間というのは自己欺瞞に対して鈍感にできているのかもしれない、と思っていた。


ならば今、私は何か自分に嘘をついているのだろうか。


瀬名晶のことが、気になっている。

 それだけのことを、認めたくないのだろうか。


『明日話すね』


そう返信して、スマートフォンを置いた。

 明日、美月に会える。

 明日、また登校すれば、彼にも会える。


そう思ったとき、奇妙なほど心が落ち着いた。

 これが何を意味するのか、やはりそのときの私には、まだわからなかった。


翌朝。

 美月は登校してこなかった。


三時間目が終わっても席が空いたまま、担任が「渡瀬さんは今日、欠席連絡が……」と言いかけて、言葉を濁した。

 その瞬間、彼の周囲に濃い橙色が滲んだ。


私の能力が反応したということは、担任は嘘をついた。

 欠席連絡は来ていない、ということだ。


昼休み、私は廊下の端に立ち、美月のスマートフォンに電話をかけた。繋がらない。メッセージを送る。既読にならない。


胸の奥に、冷たいものが広がった。


「心配してる?」


振り向くと、瀬名晶が壁に寄りかかって立っていた。いつから、そこにいたのか。


「あなたには関係ない」

「そうだね」と彼は言った。否定しなかった。「でも、渡瀬美月さんは今朝、学校の裏手の非常階段の下で見つかった」


私は彼を見た。


「転落事故、だそうだ」と彼は続けた。「命に別状はないけど、まだ意識が戻っていない」


世界が、音を失ったように感じた。

 美月が。あの、嘘をつかない美月が。


「なんで」

「わからない」

「なんであなたがそれを知ってるの」

「たまたま通りかかった」


その言葉に、色はなかった。甘い香りも、しなかった。

 嘘ではない、ということだ。

 でも——たまたまにしては、あまりにも。


「ひとつ、言っておいていい?」と彼は言った。「現場に、甘い匂いが残っていた。俺には何の匂いかわからなかったけど、君には——」


「やめて」


私は彼の言葉を遮った。

 わかっていた。言われなくてもわかっていた。


甘い香りは、嘘の香りだ。

 誰かが、あの場所で嘘をついた——あるいは、誰かが意図的にその香りを残した——ということだ。


まるで、私に向けたメッセージのように。


「これは」と私は言った。自分の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。「始まり、なの?」


瀬名晶は答えなかった。

 ただ、薄く笑っていた。

 目は、笑っていなかった。


廊下に風が通り、私の黒髪を揺らした。

 五月の空は、透明に晴れていた。

 嘘ひとつない、残酷なほど美しい青さで。


そのとき私は気づいていなかった。

 この物語の中で、最大の嘘をついているのが——誰なのかを。

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