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第1話 断頭台の記憶

 冷たい。


 底冷えする石畳の冷気が、粗く織られた綿布のズボンを貫いて膝を突き刺している。骨の髄まで凍てつくような寒さだった。後ろ手に縛られた両手首には、冷徹な鉄の重みが深く食い込んでいる。手枷の縁が皮膚を擦り続け、指先はずいぶん前から痺れを切らして感覚を失っていた。血流が断たれているのだろう。爪の色まで変わってしまっているはずだ。


 レオポルト・ヴァイスハルトは、ゆっくりと顔を上げた。


 視界を塞ぐように、その「装置」は聳え立っている。


 断頭台。


 使い古された木製の台座には黒ずんだ血のしみがこびりついており、対照的に磨き上げられた刃は、これから吸う血を待ちわびるかのように妖しく輝いていた。傍らに立つ処刑人の顔には、感情のかけらも見当たらない。石像のように無機質な目。一体何人を送ってきたのか、その無表情さには底知れぬ淡々とした達成感が漂っている。それら全てが、これから起こる凄惨な現実を無慈悲に告げていた。


 処刑人がレオポルトを一瞥し、低い声で言った。


「立て。自分の足で歩け。最後くらいは、貴族らしくしろ」


 レオポルトは膝に力を込めようとした。だが、長時間の拘束で感覚を失った脚は思うように動かなかった。膝頭が小刻みに震えるだけで、立ち上がる力がどこにも残っていない。


 処刑人は感情のない目でそれを眺めた。


「……立てないか」


 短く呟いて、処刑人は小さく鼻を鳴らす。侮蔑ではなく、ただ事実を確認するような響きだった。


「まあいい。這ってでも台に乗れ。足が動かんなら腕を使え。どうやってでも構わん。ただし、台の上まで自分で来い。そこまでは俺の仕事じゃない」


 その声音には侮蔑も同情もなく、ただ日課をこなす職人の淡々とした口調があるだけだった。


 広場を埋め尽くす民衆の怒号が、物理的な圧力を持って鼓膜を叩く。


「裏切り者め!」

「帝国の犬!」

「よくも俺たちを騙したな、貴族の傀儡が!」


 群衆の最前列で、かつての洗濯婦が甲高い声を張り上げた。日に焼けた太い腕を振り回し、隣の男を押しのけるようにして前に出る。


「あたしは毎日! 毎日だよ! 雨の日も風の日も、背中が曲がるほどシーツの束を担いであんたのデパートに納めてたんだ! あんたは笑って受け取ったじゃないか、『いつもありがとう、助かるよ』って! なのに何だい、あの仕打ちは! 帝国に情報を流して、あたしたちの暮らしをめちゃくちゃにしやがって! あたしの息子はパンも買えずにひもじい思いをしてるんだよ! どうしてくれるんだい!」


 隣にいた腕利きの革職人が、拳を振り上げて続いた。節くれ立った指の関節が白くなるほど握り込んでいる。


「俺はギルドを出てあんたの店に賭けたんだぞ! 親方には恩知らずだと罵られた! 家族にも反対された! 親父にはな、勘当するとまで言われたんだ! 『あんな成り上がり貴族の口車に乗るな』ってな! それでも俺はあんたを信じた! あんたの言う『新しい商売の形』とやらに未来を見たんだ! それがどうだ! 食い物の値段は跳ね上がり、仕事は減り、女房には泣かれ、子供の顔をまともに見れなくなった! 結局俺たちは前より惨めになっただけじゃないか! あんたに人生を返してもらいたいよ!」


 その声に呼応するように、遠方からの食材商人が叫んだ。顔を紅潮させ、額に青筋を浮かべている。


「安定買付だと? 笑わせるな! あれはただの首輪だったんだよ! 最初のうちは確かに良かったさ! 決まった量を決まった値段で買い取ってくれる、こんなありがたい話はないと思った! だがな、気づいたら身動きが取れなくなってたんだ! 他に売りたくても売れない、値段を上げたくても上げられない! あんたの店だけに縛られて、あんたの言い値で買い叩かれて! あんたの言う『公正な取引』ってのは、俺たちを鎖で繋いでおくことだったのか! ええ、答えてみろよ!」


 罵倒が、雨あられのように降り注ぐ。一部の者たちが石を握りしめている。汚物を投げつける者もいて、口々に呪いの言葉を吐き散らしていた。


 レオポルトは乾いた唇を噛み締め、群衆を見渡した。


 かつて、彼を支持し、笑顔を向けてくれた人々だ。


 毎日シーツを納入してくれた洗濯婦の顔。腕利きの革職人が見える。遠方から珍しい食材を運んでくれた商人も、あそこにいるはずだ。見知った顔がいくつもある。名前を呼べる顔が、いくつも。


 だが今、彼らの表情は一様に憎悪に歪んでいた。ある者は石を握りしめ、ある者は汚物を投げつけ、口々に呪いの言葉を吐き散らしている。まるで獣の群れだ。理性的な思考が失われ、感情だけが暴走していた。


「……違う」


 レオポルトは掠れた声で呟いた。


「違うんだ。俺は……帝国になど何も売り渡してはいない。あの制度は、お前たちを守るために……」


 だがその声は、怒号の波に飲み込まれて消えた。


 群衆の中から、聞き覚えのある女の声が響く。


「まだそんな嘘をつくの、レオポルト」


 クララ・ノイマン。かつてデパートの図書室司書を務めていた女性だった。群衆の中に立つ彼女の顔は青白く、しかしその瞳には燃えるような怒りが宿っている。いや、怒りだけではない。そこにはどこか悲しげな、引き裂かれたような感情が滲んでいた。


「あなたは『誰もが平等に』と言った。『身分は関係ない』と言った。『この店は全ての人のためにある』と。私はその言葉を信じた。本の整理をしながら、あなたの書いた理念書を何度も読み返して、胸を熱くしたの。でも実際はどうだったの?」


 クララの声が一段高くなった。


「貴族たちには特別室が用意されて、最高級品は彼らが先に手に取った。私たちが長い列を作って並んでいる横を、彼らは優先扉から悠々と入っていったわ。あなたの言う平等って、そういうことだったの? 私たちには平等の看板だけ見せておいて、裏では貴族にだけ本物を差し出す、それがあなたのやり方だったの?」

「クララ……それは……俺は改善しようとしていた。時間が必要だったんだ。一度に全てを変えることはできなかった。王家との関係もある。だが、段階的に……」

「段階的に?」


 クララは冷たく笑った。その笑みが、レオポルトの胸を刃のように抉る。


「その『段階的に』という言葉で、あなたはいつも私たちを黙らせてきたわ。『今は我慢してくれ』『いずれ必ず』『もう少しだけ待ってくれ』。覚えてる? 私があなたの書斎に報告書を持っていった時のこと。あなたは書類の山に埋もれながら、顔も上げずにこう言ったわ。『分かっている、クララ。いずれ必ず直す。だから今はもう少しだけ待ってくれ』って。でも、その『いずれ』は永遠に来なかった。来る前に、この国は壊れたのよ」

「それは帝国の工作だ! 意図的に混乱が仕組まれて……」

「また他人のせい?」


 クララの声が震えた。怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情が声を揺らしている。


「いつもそう。あなたは自分の失敗を認めない。認められない。理念だけは立派で、言葉だけは美しくて、でも足元を見ようとしない。数字は読めても、人の顔を見ることができない人だった。私は……」


 一瞬、言葉が途切れた。


「私はあなたを信じていたのに」


 その最後の一言は、怒号よりも深くレオポルトの心臓に突き刺さった。群衆の罵声の中で、その一言だけが妙に鮮明に聞こえた。


 革命政府の役人が、壇上から大声で宣告を読み上げる。痩せた体躯に不釣り合いなほど大きな声が、広場に響き渡った。


「罪人レオポルト・ヴァイスハルト! 旧体制の走狗にして帝国の手先、王国の経済を意図的に破壊し、隣国ヴェルディア帝国に国益を売り渡した大罪人である! その罪状は以下の通り! 第一に、国王の勅許を盾にした商業独占! 第二に、安定買付制度の名を借りた生産者の隷属化! 第三に、帝国との密通による国家機密の漏洩! 革命裁判所はこれら全ての罪状を認定し、死刑を宣告する! 異議の申し立ては却下された! 刑は直ちに執行される!」


 レオポルトは声を振り絞った。


「聞いてくれ……頼む、最後に一言だけ言わせてくれ……!」


 役人は冷ややかに眉を上げた。羊皮紙の巻物を丁寧に巻き戻しながら、芝居がかった仕草でレオポルトを見下ろす。


「罪人に発言の権利はない。革命裁判所の規定でそう定められている」


 一拍置いて、役人は唇の端をわずかに持ち上げた。


「だが……まあいい、最後の慈悲だ。民衆の前で存分に恥を晒すがいい。一分だけ許してやろう。ただし、一分だ。それ以上は聞く耳を持たん」


 レオポルトは膝をついたまま、群衆に向かって声を張り上げた。


「俺は……確かに過ちを犯した。お前たちの期待に応えられなかった。それは認める。だが、帝国に通じたことは断じてない! あの食糧危機は人為的に引き起こされたものだ! 穀倉地帯の火災は偶然ではない! 同じ時期に、三つの地方で同時に倉庫が焼けた! そんな偶然があるか! 誰かが……」

「黙れ!」


 群衆から石が飛んできた。額の右側を掠め、皮膚が裂けて血が流れた。熱い液体がこめかみを伝い、顎先から滴り落ちる。


「往生際が悪いぞ!」

「もう誰もお前の言葉なんか信じるか!」

「嘘つきは最後まで嘘つきだ!」


 役人が手を挙げて群衆を制した。


「はい、終わりだ。時間切れだよ、ヴァイスハルト。最後まで見苦しい男だな。自分の罪すら認められないとは、まったく貴族というのは救いようがない。さあ処刑人、準備を」


 処刑人が静かにレオポルトの肩を掴んだ。武骨な手は驚くほど安定している。何の迷いも感じさせない。


「来い。楽にしてやる」


 低く、抑揚のない声だった。


「一瞬だ。俺の刃は鋭い。痛みは感じないと約束する」

「……ああ、そうか」


 レオポルトは力なく笑った。唇が切れて、血の味が舌に広がる。


「一つだけ教えてくれ。今朝、この刃を研いだのか」


 処刑人は一瞬だけ怪訝な顔をした。死を目前にした男が発する問いとしては、あまりに場違いだったのだろう。だがすぐに表情を戻し、淡々と答えた。


「……昨晩からな。三時間かけた。まず荒砥で形を整え、中砥で刃筋を通し、仕上げ砥で切れ味を出す。それが俺の流儀だ。最後の瞬間に苦痛を与えるのは、俺の仕事ではない。きれいに、一息で送ることこそが、処刑人の矜持だと思っている」

「職人だな、お前は」


 レオポルトは小さく呟いた。口元に浮かんだのは、自嘲とも敬意ともつかない、微かな笑みだった。


「その心意気だけは、ありがたく受け取る」


 処刑人はそれ以上何も言わず、レオポルトを断頭台の前に据えた。大きな手が背中を押し、半月状の木枠に首を嵌め込む。首の後ろに、滑らかに磨かれた木の感触が触れた。冷たくはない。多くの人間の体温を吸ってきたのか、木はどこか生温かかった。


 なぜ、こうなってしまった。


 レオポルトは目を閉じた。瞼の裏で、記憶の糸を手繰り寄せる。


 三年前のあの日。


 王宮の謁見室で、国王アルフレート三世に自身の構想を提案したあの瞬間だ。その時、彼は確信に満ちていた。何もかもが完璧に思えた。


 あの日、国王は金糸の刺繍が施された玉座に深く腰掛け、興味深そうに身を乗り出してこう言ったのだ。


「面白い。実に面白いぞ、ヴァイスハルト」


 国王は片手で顎鬚を撫でながら、もう片方の手でレオポルトが提出した企画書の羊皮紙を弄んでいた。


「お前の言う『でぱあとめんと・すとあ』とやら……つまり、あらゆる商品を一つの館に集め、身分に関係なく誰もが自由に手に取れる市場を作る、そういうことか? ギルドの専売を介さずに、一つの屋根の下で全てが完結すると」

「はい、陛下。おっしゃる通りでございます。定価販売によって価格の透明性を確保し、生産者には安定した買付を保証いたします。中間搾取を排し、消費者と生産者の双方に利益をもたらす仕組みです。買い手は適正な価格で品物を手に入れ、作り手は安心して仕事に打ち込める。そのような循環を生み出すことが、この構想の核心にございます」


 国王は顎鬚を撫でながら目を細めた。鋭い視線が、値踏みするようにレオポルトの全身を舐める。


「ギルドが黙っていないだろうな。奴らの既得権益を直撃する。ギルド長のバルトロメウスなど、この話を聞いたら卒倒するかもしれんぞ。あの老狐は、自分の縄張りを荒らす者を決して許さん」

「承知しております。ギルドとの摩擦は避けられないでしょう。しかし陛下、ギルドの旧弊な構造こそが王国経済の停滞を招いている元凶です。彼らは品質の維持を名目に新規参入を阻み、価格を不当に吊り上げている。民衆は高い金を払わされ、若い職人は独立の機会を奪われております。才能ある者が腕を振るえず、消費者が不当な対価を強いられる。この構造を変えなければ、王国の商業は先細る一方です」

「ふむ……」


 国王は玉座の肘掛けを指で叩いた。規則正しいリズムだった。考え事をする時の癖なのだろう。


「して、王家にとっての利は何だ? 率直に聞こう。余は理想論だけでは動かん。お前も知っての通り、王家の金庫は慢性的に底が見えている。戦費、インフラ整備、宮廷の維持。どれも金がかかる。余に投資させたいのなら、見返りを示せ」

「税収の増加です」


 レオポルトは即答した。


「商業が活性化すれば、取引量が増え、間接税の収入は飛躍的に伸びます。現在の王国の商業税収は年間およそ一万二千金貨ですが、私の試算では、デパートメントストアの運営が軌道に乗れば、五年以内にこれを二万金貨にまで引き上げることが可能です。加えて、王家が『民衆のための改革』の旗手として名を馳せれば、求心力は盤石になりましょう。民は、自分たちの暮らしを良くしてくれる王を慕います。それは軍事力では買えない、最も堅固な統治基盤です」


 国王は満足げに頷いた。口元に笑みが浮かぶ。


「なるほど。金と名声の両方を手に入れられると。お前は商人のくせに、政治家のような物言いをするな、ヴァイスハルト」

「恐れ入ります」

「よかろう」


 国王は玉座から身を起こし、レオポルトを真っ直ぐに見据えた。その目には、君主としての威厳と、賭けに出る者特有の昂揚が同居していた。


「お前に勅許を与える。存分にやれ、ヴァイスハルト。王家の名の下に、お前の構想を実現してみせよ。必要な便宜は図ろう。ただし、失敗は許さんぞ。余の名を冠して行う事業だ。余の名に泥を塗ることは、お前自身の首を絞めることだと心得よ」

「身命を賭して、必ずや成功させてみせます」


 レオポルトはあの時、深々と頭を下げた。その言葉に一片の嘘もなかった。


 透明な価格表示。身分を問わない公正な取引。誰もが平等に商品に触れられる商業空間。


 それこそが、旧態依然としたこの王国を変える鍵だと、彼は心の底から信じていたのである。



 ◆



 実際、デパートメントストア「光蓋宮」は成功したはずだった。


 開業初日、ガラス張りのエントランスには民衆が殺到した。売上は予想曲線を遥かに上回り、新たな雇用が生まれ、職人たちはギルドの搾取から解放されて安定した収入を得られるようになった。定価販売である「値札制度」は画期的だと称賛され、生産者を守る「安定買付制度」は王国の商業構造を根底から覆す革命だと期待されたのだ。


 開業初日の朝、エーリッヒは珍しく微笑みを浮かべてこう言ったものだ。


「旦那様。開場前にこれほどの人が並ぶ光景を、私は見たことがございません。門前の通りを曲がり、東の噴水広場まで列が続いております。およそ三千人は下らないかと。警備隊長のヴェルナーも目を丸くしておりました」

「三千……予想の倍以上じゃないか。嬉しい誤算だが、混乱が起きないか心配だな」

「ええ。ですので、警備の増員を既に手配いたしました。東門と西門の両方に追加で八名ずつ配置してございます。それから、老技師オスカー殿が地階の什器の最終調整を終え、お伝えしたいことがあると申しておりました。先ほどから入口付近を落ち着きなくうろうろしていらっしゃいます」

「オスカー先生が? 珍しいな、あの人が自分から話があるなんて」


 そう言っているうちに、老技師オスカー・ブラウエルが、油で汚れた手を革のエプロンで拭きながら駆け寄ってきた。白い髪を後ろに撫でつけた頭に、額から伸びる深い皺。六十を超えているはずだが、足取りには職人特有の力強さが残っている。


「おお、レオポルト坊ちゃん。いや、今日からは『支配人殿』とお呼びすべきかな?」


 オスカーは日焼けした顔を綻ばせた。


「什器の仕上がりは完璧だ。天井のシャンデリアから陳列棚の角度まで、全てお前さんの図面通りに仕上げたぞ。いやな、正直に言えば最初は半信半疑だったんだ。棚の角度を三度傾けろだの、通路の幅を肘二つ分広げろだの、細かいことをああだこうだと注文されてな。何の意味があるんだと思ったさ。だが、完成してみたら……なるほど、確かに人の目が自然と商品に向くようにできている。我ながら惚れ惚れする出来栄えだ。四十年職人をやってきたが、こんな仕事は初めてだったよ」

「オスカー先生、感謝します。先生の腕がなければ、この店は形にすらならなかった。あの図面を一ミリの狂いもなく実現できるのは、先生だけです」

「ふん、お世辞はいい。わしは図面通りに作っただけだ。それより、旦那に頼まれて試しに入ってみたんだがな、入口から奥の売場まで、足が勝手に進んでいくんだよ。不思議なもんだ。気づいたら一番奥の陳列棚の前に立っていた」


 オスカーは感心したように首を振った。だが、すぐに表情を引き締める。


「だがな、レオポルト。一つだけ言っておく」


 皺だらけの顔から笑みが消え、職人の厳しい目がレオポルトを射抜いた。


「箱はできた。立派な箱だ。王都の誰もが目を見張るような箱だ。だが、箱に命を吹き込むのは中身だ。どんなに美しい器も、中身が伴わなければただの飾り物に過ぎん。そしてその中身を育てるのは、お前さんの覚悟だ。途中で投げ出すなよ。わしは、お前さんのその目を信じてここにいるんだからな。この老いぼれを裏切るなよ」

「……はい。肝に銘じます」


 レオポルトはまっすぐにオスカーの目を見て頷いた。


 オスカーは満足そうに鼻を鳴らすと、再び革のエプロンで手を拭きながら地階へと戻っていった。



 ◆



 だが、歯車はいつの間にか、音もなく狂い始めていた。


 最初の兆候は、開業から半年後のことだった。若手貴族フェリックス・フォン・アルトハイムが、顔を曇らせてレオポルトの執務室を訪ねてきた。


 フェリックスは二十代後半の、金髪碧眼の青年だ。名門アルトハイム家の三男坊でありながら、旧来の貴族社会に疑問を持ち、レオポルトの改革に共鳴して協力を申し出た稀有な存在だった。普段は軽妙な冗談を好む明るい男だが、この日の表情には余裕がない。


「レオポルト、少し時間をくれないか。気になることがある」

「どうした、フェリックス。そんな顔をして。珍しいな、お前が深刻な顔をするのは」

「茶化すなよ。これは冗談じゃ済まない話かもしれない」


 フェリックスは執務室の扉を閉め、声を落とした。


「王都の東区で、妙なビラが出回っている」

「ビラ?」

「ああ。『光蓋宮は貴族の玩具だ。民衆はただの客寄せに利用されているだけだ。定価販売は搾取の隠れ蓑であり、真に潤っているのは王家とヴァイスハルト家のみである』……というような内容だ。もっとひどいのもある。『安定買付は奴隷契約の別名だ』とか、『光蓋宮で働く者は鎖に繋がれた家畜と同じだ』とかな」

「……それは穏やかじゃないな」

「穏やかじゃないどころの話じゃない。しかもな、印刷の質が妙に高いんだ。活字が揃っていて、紙も上等なものを使っている。東区の貧民街で出回っているビラにしては、明らかに不釣り合いだ。街の印刷所の仕事じゃない。もっと金をかけた、組織的な仕事だ」


 レオポルトは椅子の背もたれに体を預け、眉を寄せた。


「……誰が撒いている?」

「分からない。だが、東区の酒場で扇動じみた演説をしている男がいるらしい。元ギルド員だという話だが、裏は取れていない。複数の酒場を転々としていて、同じ場所には二度と現れないそうだ。用心深い男だよ。素人の仕業じゃない」

「フェリックス、引き続き調べてくれ。大したことじゃないと思いたいが……」

「ああ、調べる。だが、もう一つ話がある」


 フェリックスは腕を組み、レオポルトを正面から見据えた。


「来週の貴族向け内覧会だが、あれは本当にやるのか?」

「……やらざるを得ない。王家からの強い要望でな」

「一般開放前に貴族だけを招くのは、お前の理念に反しないか? お前はあれほど『身分に関係なく誰もが平等に』と言っていたじゃないか。それなのに、開放前に貴族だけを特別に招くのか? それでは言ってることとやってることが違うだろう」

「完全に断るわけにはいかなかったんだ。陛下直々のご要望だ。出資者である王家の意向を、ここで真っ向から拒否すれば……」

「分かっている。政治的な判断だろう。だがな、レオポルト」


 フェリックスの声に苛立ちが混じった。


「内覧会で販売は行わない、あくまで見学だけだとお前は言うだろう。だが、民衆にはそうは映らないぞ。『貴族は特別扱い』という印象を与えるだけだ。お前が何を言おうと、人は見たいものを見る。聞きたいことだけを聞く。お前の意図なんか、誰も汲み取ってはくれない。伝わるのは表面だけだ。そして表面だけを見れば、これは貴族優遇以外の何物でもない」

「分かっている。だが……」

「分かっているなら、なぜ断らない?」


 フェリックスは一歩前に出た。その碧眼が、真剣な光を帯びている。


「お前は王権との距離が近すぎる。勅許をもらい、王家の名を冠し、王宮の後ろ盾で事業を進めている。確かにそれで物事は速く進む。だが、その速さと引き換えに、お前は『王家の手先』というレッテルを貼られるリスクを背負っているんだ。それがいずれ足枷になる。いや、もうなりかけているかもしれない。俺はそれを心配しているんだ。友人として」


 あの時、フェリックスの忠告をもっと真剣に受け止めていれば。


 レオポルトは忙しさを言い訳にして、フェリックスの言葉を聞き流してしまったのだ。「分かっている」と口では言いながら、実際には何も変えなかった。それが取り返しのつかない過ちだったと気づいたのは、全てが手遅れになった後のことだった。



 ◆



 そして、商人マルクス・シュトラウスが、ある夜こっそりとレオポルトに接触してきた。


 マルクスは五十がらみの中肉中背の男で、王都で雑貨商を営んでいる。派手さはないが、堅実な商売で信用を積み上げてきた人物だった。どの派閥にも与せず、常に中立を保つことで、商人たちの間では独自の情報網を築いている。


 夜更けの酒場の奥まった席で、マルクスはエールの杯を傾けながら口を開いた。


「ヴァイスハルト殿。わざわざこんな場所に呼び出して申し訳ない。だが、人目のある場所では話しにくい内容でしてな」

「構わない。何だ、マルクス。お前がこんな形で接触してくるのは珍しいな。よほどのことか」

「ええ。私は中立の立場を守りたい人間です。どちらの味方もしない。それが商人として長生きする秘訣だと思っている。だが、一つだけお伝えしておきたいことがある。中立の立場であっても、これだけは黙っていられなかった」


 マルクスは杯をテーブルに置き、声をさらに低くした。


「最近、隣国から来た貿易商がやたらと社交界に顔を出している。名前はエドヴァルト・シュタイナー。ヴェルディア帝国の生まれで、絹と香辛料の貿易を手がけていると自称しています。人当たりのいい男でしてね、笑顔が実に爽やかだ。貴族たちの評判もすこぶるいい。社交の場に出れば、あっという間に人の輪の中心にいる。だが……妙なんだ」

「何が妙だ?」

「あの男、商人のくせに商売の話をほとんどしない」


 マルクスは人差し指でテーブルを軽く叩いた。


「絹の相場も聞かない。香辛料の産地も語らない。在庫の話も仕入れの話もしない。商人なら、同業者と会えばまず商売の話をするものです。それが本能というものだ。ところがあの男は、やたらと政治の話に持っていく。王国の税制がどうの、ギルドの不満がどうの、民衆の暮らしがどうの。それも、ただの世間話じゃない。妙に具体的な数字を聞き出そうとする。『王都の小麦の備蓄は何日分ある?』とか、『東区の失業者はどれくらいいる?』とかな。まるで……情報を集めているようだ」

「帝国の間者だと?」


 マルクスは慎重に言葉を選んだ。杯の中のエールをゆっくりと揺らしながら。


「断定はしません。証拠もない。もし間違いだったら、罪もない他国の商人を中傷することになる。ただ、商人の勘というやつです。長年この商売をやっていると、相手の目を見れば何を考えているか、大体の見当はつくようになる。あの男の目は、金勘定をする商人の目じゃない。もっと別の……何かを計算している目だ。獲物を品定めする猟師の目、と言えばいいだろうか。お気をつけなさい、ヴァイスハルト殿。私はこの件について、これ以上は関わりません。中立を守るのが私の流儀ですから。ただ、伝えるべきことは伝えた。あとはあなたの判断だ」

「……ありがとう、マルクス。わざわざ危険を冒してまで伝えてくれたこと、恩に着る。調べてみよう」


 だがレオポルトは、その警告を十分に掘り下げなかった。デパートの運営に忙殺され、後回しにしてしまったのだ。マルクスの言葉は記憶の片隅に追いやられ、エドヴァルト・シュタイナーの名前は、やがて日々の業務の洪水に埋もれて消えていった。



 ◆



 気がつけば、デパートは「貴族が富を独占するための道具」と呼ばれるようになっていた。信頼の証であったはずの値札制度は「民衆から不当に搾取するための欺瞞」と糾弾され、職人を守るための安定買付制度は「彼らを支配し縛り付ける鎖」だと非難されたのだ。


 街頭での説明会を開き、レオポルトは必死に声を上げた。


「聞いてくれ! 値札制度の導入以来、平均的な商品価格は一割五分下がっている! これは帳簿が証明している事実だ! 数字は嘘をつかない! 安定買付による職人の平均収入は二割増えているんだ! なぜ分かってくれない! 俺たちは確かに前進しているんだ!」


 だが、集まった民衆の一人が冷ややかに返した。痩せこけた頬に、深い怒りを刻んだ中年の男だった。


「数字? 数字で腹が膨れるか? あんたの言う数字とやらは、あんたの帳簿の中の話だろう。俺たちの現実はどうだ? 小麦の値段は三倍になったぞ! パンが買えないんだ! 子供に食わせるパンがないんだよ! お前の言う数字とやらは、俺たちの空っぽの腹には何の意味もない! 帳簿の数字が正しかろうが何だろうが、俺の娘が腹を空かせて泣いている事実は変わらないんだ!」


 別の女が叫んだ。


「あんたの店で働いている娘が言ってたよ! 貴族の客が来ると、私たちは売場から追い出されるんだって! 『しばらくお待ちください』って裏口から出されるんだって! それが平等かい! あんたの言う平等ってのは、貴族様のお買い物の邪魔をしないように、私たちが隅っこで小さくなってることかい!」

「それは事実と違う! そんな指示は出していない! 現場の判断で行き過ぎがあったなら、すぐに是正する! 俺は……」

「嘘つき!」


 女の隣にいた若い男が唾を吐いた。


「あんたは嘘つきだ! 最初から全部嘘だったんだ! 平等だの公正だの、きれいな言葉を並べて俺たちを釣り上げて、結局は貴族の懐を肥やすためだけの道具にしやがった!」


 熱狂した群衆の耳には、もはやどんな言葉も届かなかったのである。



 ◆



 そして、革命の火蓋が切って落とされた。


 民衆が武器庫を襲い、王宮を包囲し、貴族たちが次々と引きずり出されて処刑された。国王一家は夜陰に紛れて亡命し、革命政府の樹立が宣言される。


 最後の夜、エーリッヒがレオポルトの部屋に駆け込んできた。いつも完璧に整えられている身なりが乱れ、白髪交じりの髪が額に張り付いている。そのこと自体が、事態の深刻さを物語っていた。


「旦那様! 今すぐお逃げください! 裏口から馬車を手配いたしました。御者は信頼できる者です。東の国境まで行けば、帝国領を迂回してメルヒェン公国に入れます。公国にはお父上の旧友がおりますから、匿ってもらえるはずです。荷物はもうまとめてあります。金貨も三百枚用意いたしました。これだけあれば、当面の暮らしには困りません」

「逃げない」

「旦那様!」


 エーリッヒの声が裏返った。仕えて十五年、レオポルトはこの男のこんな声を聞いたことがなかった。


「お考えを改めてください! 今この屋敷にいれば、明朝には革命軍に踏み込まれます! 奴らはもう東区の貴族館を焼き払いました! バルトシュタイン伯爵も、グラーフ男爵も、みな捕らえられております! 逃げる時間はもうほとんど残されていないのです!」

「俺が逃げれば、残された者たちはどうなる」


 レオポルトは静かに言った。窓の外では、遠くに炎の明かりが揺れていた。革命の炎だ。


「オスカー先生は。店の従業員たちは。納入業者たちは。俺を信じてついてきてくれた全ての人間が、俺の身代わりにされるだけだ。『ヴァイスハルトは逃げた。残った者たちは共犯だ』とな。俺が逃げることで、何人の命が危険に晒される? 十人か? 百人か? それとももっとか?」

「ですが、旦那様がここで捕まれば、全てが終わりです! 旦那様が生きていれば、いつか巻き返す機会が……」

「巻き返す?」


 レオポルトは苦く笑った。


「エーリッヒ。俺はもう、この国の民衆の信頼を完全に失った。逃げて生き延びたところで、何ができる。外国から遠吠えをするだけだ。それは俺の望む生き方じゃない」


 エーリッヒの目に涙が浮かんだ。仕えて三十二年、初めて見せる表情だった。鉄壁の自制心を誇るこの老執事が、人前で涙を見せるなど、レオポルトは想像したこともなかった。


「……旦那様」


 エーリッヒの声が震えている。


「私は、あなたのお父上の代からこのヴァイスハルト家にお仕えしてきました。あなたが産まれた日のことを覚えております。産声の大きさに、お父上が『将来は大物になる』と笑っておいででした。初めて歩いた日、書斎の絨毯の上でよちよちと私のところまで歩いてきて、私のズボンの裾を掴んだこと。初めて本を読んだ日、字が読めるようになったことが嬉しくて、私に一晩中読み聞かせをしてくれたこと……全てを見てまいりました。全てを覚えております」


 涙が、皺の刻まれた頬を伝い落ちる。


「どうか、お願いでございます。生きてください。生きて、やり直す機会を。お父上は、あなただけは守れと、最期にそうおっしゃったのです。私はその約束を果たさねばなりません。お願いです、旦那様……」

「エーリッヒ」


 レオポルトは静かに遮った。そして、この忠実な老執事の肩にそっと手を置いた。


「お前は逃げろ。これは命令だ。主人としての、最後の命令だ。俺のためではなく、お前自身のために生きろ。俺の分まで。お前にはまだやれることがある。逃げた先で、真実を伝えてくれ。俺が何をしようとしていたのか。何が起きたのか。いつか、誰かがそれを必要とする日が来るかもしれない」

「そのようなご命令には……従えません……」

「頼む。俺の最後の願いだ」


 長い沈黙が落ちた。窓の外の炎が、部屋の壁に不規則な影を揺らしている。


 エーリッヒは深々と頭を下げた。その肩が小刻みに震えていた。


「……必ず、お迎えに参ります。たとえ何があろうと。たとえこの命が尽きようとも」

「ああ。待っているさ」


 レオポルトは微笑んだ。それが嘘だと、二人とも分かっていた。


 エーリッヒは最後にもう一度深く頭を下げると、音もなく部屋を出ていった。その背中が暗い廊下に消えていくのを、レオポルトはただ見送ることしかできなかった。



 ◆



 レオポルトもまた、逃げることなく捕らえられ、形式だけの裁判にかけられた。


 法廷では、革命政府の検察官が大仰な身振りで論告した。赤い腕章を巻いた痩せぎすの男で、かつては三流の訴訟代理人だったと聞いている。革命がこの男に権力の椅子を与えたのだ。


「被告レオポルト・ヴァイスハルトは、旧体制の特権階級としてその地位を濫用し、いわゆる『光蓋宮』なる商業施設を隠れ蓑に、王国の経済構造を帝国に有利なように改変した! 安定買付制度によって王国の主要産業を一手に掌握し、生産者を事実上の隷属状態に置き、その情報をヴェルディア帝国に流していたのである! これは明白な国家反逆罪であり、弁解の余地はない!」

「異議を申し立てる! その主張には何一つ物的証拠がない! 帝国との通信記録を出してみろ! 金の流れを示す帳簿はどこにある! 証拠なき告発は、告発ではなく中傷だ!」


 裁判長は冷たく言い放った。


「被告の発言は許可していない。黙りなさい」

「証拠もなしに人を裁くのか! これが革命の正義だというのか! 法とは何だ! 証拠に基づかない裁判がまかり通るなら、それは裁判ではない! ただのリンチだ!」

「静粛に。これ以上騒ぐなら、口枷をはめさせる。言っておくが、革命裁判所の判断は人民の意思そのものだ。人民の声が、証拠に勝る。それが新しい時代の法だ」


 判決は死刑。


 罪状は「王国経済を混乱させ、隣国帝国に国益を売り渡した売国罪」。


 身に覚えのない、あまりに理不尽な汚名であった。



 ◆



 ギィ、と鈍い音が響く。


 処刑人が刃を固定していた留め具に手をかけたのだ。鋼鉄の刃が持ち上がり、頂点で静止する。金属の塊が朝日を反射し、鈍く、重い光を放った。その光は美しくもあり、死を象徴するかのように恐ろしくもある。


 レオポルトはカッと目を見開き、空を見上げた。


 そこには、残酷なまでに美しい青空が広がっていた。


 雲一つない、澄み切った蒼穹。最期の瞬間に見る景色としては、あまりに綺麗すぎる。鳥が一羽、視界の端を横切っていった。自由に飛ぶその影が、妙に目に焼きついた。


「なぜ、こうなった……」


 その問いに答える時間は、もう一秒たりとも残されていない。


 処刑人が合図を待つ視線を送った。


 そして低く、レオポルトだけに聞こえる声で呟いた。


「……恨みはない。あの世で安らかに眠れ」


 革命政府の役人が、無造作に手を振り下ろした。


「執行せよ」


 群衆が息を呑み、広場が一瞬の静寂に包まれる。


 ガコンッ。


 刃が落ちる音が、世界の終わりを告げた。



 ◆



 その瞬間。


 首筋に熱い衝撃が走ると同時に、レオポルトの脳裏に白銀の閃光が炸裂した。


 記憶の奔流が、決壊したダムのように押し寄せてくる。


 それは今の人生のものではない。


 前世の記憶だ。


 一九九〇年代の日本。東京。


 コンクリートのジャングル。眠らない街。ネオンが煌めく夜。排気ガスと焼き鳥の匂いが入り混じった雑踏。


 大手百貨店でバイヤーとして働いていた自分が、鮮明に蘇る。


 商品の仕入れ、ギリギリの価格交渉、季節ごとの売場構成、膨大なPOSデータの分析。すべてが昨日のことのように蘇ってくるのだ。


 頑固な仕入れ先の職人と膝を突き合わせ、酒を酌み交わして価格を詰めた夜がある。下町の小さな居酒屋。焼酎のお湯割りが湯気を立てるカウンター席で、白髪頭の陶芸家が怒鳴った。


「いいか兄ちゃん、うちの品物はな、安売りの道具じゃねぇんだ。一つ一つに魂込めてんだよ。土を練るところから釉薬をかけるところまで、全部この手でやってんだ。機械なんざ使わねぇ。それを何だ、三割引けだと? ふざけんじゃねぇぞ。うちの女房にも笑われるわ」


「分かってます。あなたの作品の価値は理解しています。だからこそお願いしてるんです。でも、この価格帯じゃ棚に並んでもお客さんの手が伸びない。どんなにいいものでも、手に取ってもらえなきゃ意味がない。五年後を見てください。今ここで折り合いをつけて、うちの売場で実績を作れば、あなたのブランドは全国区になれる。百貨店の売場に並ぶということは、品質の証明書をもらうようなものです。そこから百貨店の顧客が付けば、次のステージが見えてくる」

「……口の上手い若造だな。大体な、お前らバイヤーってのは口ばっかり達者で……」

「口だけじゃありません。数字で証明します。うちの売場の来客データと、類似商品の販売推移をまとめてきました。見てください。この価格帯なら、月に最低でもこれだけ出る。年間にすれば……」

「おいおい、飲み屋で数字の話かよ。色気のねぇ野郎だな」

「すみません。職業病です」

「……ったく。まあいい、一杯やるか。話はそれからだ。おい大将、こいつにも熱いの一杯頼むわ」


 その職人の頑ななまでの拘りと、その奥にある品質への深い想いが忘れられない。あの夜、結局明け方まで飲み明かし、最終的に二割引で合意した。職人は最後に酔った目でこう言った。


「お前、なかなか見どころがあるじゃねぇか。よし、賭けてやるよ。ただし、うちの品物を雑に扱ったら承知しねぇからな。陳列の仕方一つにも気を遣えよ。わしの作品は、わしの子供みたいなもんだからな」


 新商品の企画書を書き上げるため、蛍光灯の明かりの下、深夜のオフィスでキーボードを叩き続けた日々もある。


「先輩、まだいたんすか。もう終電ないっすよ。っていうか、さっき自販機で会った時もいましたよね。あれ三時間前ですけど」

「お前こそ何やってんだ、こんな時間に。帰れ帰れ」

「いや、先輩が残ってんのに後輩が先に帰れないっしょ。それに先輩が倒れたら、明日の会議は誰が仕切るんすか。俺っすか。無理っすよ」

「お前なら何とかなるだろ。日頃の鍛え方が違う」

「鍛え方って、先輩の無茶振りに耐えてるだけじゃないすか。……っていうか、その企画書、明日の朝までに間に合うんすか?」

「間に合わせるしかないだろ。来期の目玉商品がかかってんだ。これを通さなきゃ、うちのフロアは沈む。他のフロアに予算を持っていかれたら、半年は巻き返せない」

「手伝いますよ。データの整理くらいならできます。あと、さっきコンビニで買ってきたおにぎりあるんで、食ってください。先輩、昼飯も食ってないでしょ」

「……悪いな。おにぎりはありがたくもらう。じゃあデータの方、頼む。三階の売場別の月次推移を、グラフにまとめてくれ」

「了解っす」


 キーボードの音とパソコンのファンの音だけが聞こえる、静寂のオフィス。蛍光灯の無機質な白い光の下で、二人分のコーヒーの紙カップが並んでいた。


 お客様の視線の動きを計算し、什器の配置を数センチ単位で調整して最適な導線を探った試行錯誤。その地道な作業が、やがて売上を左右することへの喜びと醍醐味。


 上司が売場を見て言った言葉が蘇る。


「お前、この棚の角度変えただろう。客の流れが変わった。入口から奥まで自然に足が向くようになってる。以前は奥の棚の前で立ち止まる客がほとんどいなかったのに、今は違う。POSの数字にも出てるぞ。奥の棚の売上が先月比で二十パーセント上がってる。何をやった?」

「ありがとうございます。お客様の視線の追跡データを二週間分取って、分析したんです。入口から入った客の八割が、最初の三秒で右を見る。その視線の先に主力商品を置き、そこから自然に奥へ誘導されるように什器の角度を三度だけ傾けました。たった三度で、商品の視認率が変わるんですよ。人間の目は、ほんのわずかな角度の違いに無意識に反応するんです」

「三度か。お前、いい目してるな。数字を見る目と、現場を見る目の両方がある。その感覚、大事にしろよ。この業界で生き残れる人間は、どちらか片方じゃなく、両方を持ってる奴だ」


 無機質な数字の羅列から次のトレンドを読み解き、ヒット商品を予測する高揚感。その予測が当たった時の満足感は、何物にも代え難かった。売場が生きている、と感じる瞬間。数字と感覚が噛み合い、客の流れが見えるようになる、あの不思議な感覚。


 そして、最後の日。


 オフィスの床が急に近づいてきた。


 過労だった。三十代前半、働き盛り。まだ若かったはずなのに、心臓は限界を告げていたのだ。ここ数ヶ月、胸の奥に鈍い痛みを感じていた。だが忙しさにかまけて病院に行かなかった。行く時間がないと思い込んでいた。


 同僚の叫び声が遠くから聞こえた。


「おい! 大丈夫か! おい、しっかりしろ! 誰か救急車を! 早く! 一一九番!」

「しっかりしろ! 目を開けろ! おい、返事しろ! 聞こえてるか!」


 遠のく意識の中で、やり残した仕事のことばかり考えていた。完成させていない企画書。フォローアップできていないクライアント。後輩に任せてしまった商品構成。来週のプレゼンの資料。


「……あの企画書のデータ、デスクの右の引き出しに……後輩の田中に……伝えて……来期のフロア構成の件、あいつなら……できる……」

「何言ってんだ! そんなことどうでもいいから! おい、意識飛ばすな! 目を開けてろ! 救急車もう来るから! 頼むから目を閉じるな!」


 最後まで仕事のことしか考えられない自分が、どこか滑稽だった。


 目を閉じた瞬間、プツンと、世界はブラックアウトした。



 ◆



 次に目を開けたとき、自分は異世界の貴族の息子、レオポルトとして産声を上げていたのだ。


 だが、これまでのレオポルトは不完全だった。


 前世の記憶は深い霧の向こうにあり、まるで夢のように断片的だったのだ。現世の記憶と混ざり合い、境界線が曖昧だったからである。だから、前世の知識を「なんとなく知っている」という感覚でしか使えなかった。


 デパート構想もそうだ。理念は語れても、それを実現するための細部の詰めが甘かった。POSデータの分析手法は覚えていても、それをこの世界の技術水準に落とし込む方法が思いつかなかった。リスク管理が杜撰だった。隣国の動きを全く察知できていなかった。


 それが今、完全に統合される。


 死の衝撃が引き金となり、魂の奥底で二つの人格が溶け合ったのだ。


 前世の自分と、現世の自分が一つになる。


 二つの人生、二つの経験、二つの視点が融合し、スパークする。まるで散らばっていたパズルのピースが、目にも止まらぬ速さで嵌まっていくように、混沌としていた記憶が整然と整理されていく。


 脳髄が焼き切れるほどの情報処理の果てに、レオポルトは悟った。


 第一周目の失敗原因が、痛いほど明確に見えてきたのだ。


 前世知識への過信。現代日本の洗練されたシステムを、土壌の違う異世界にそのまま移植しようとした、傲慢で浅はかな考え方。王国の文化や習慣、民衆の心情を軽く見ていた。前世で成功した方法がこの世界でも通用すると、根拠なく信じ込んでいた。


 王権との癒着。王の後ろ盾を得ることで手っ取り早く事業を進めた結果、デパートが「権力の象徴」と見なされてしまった致命的な失策。貴族優遇の優先予約枠を残すなど、公平性を掲げながら実質的には階級制度を温存させていたのである。


 視点の欠落。民衆を「商品を享受する客」としてしか見ていなかった狭量さ。彼らを事業の「協力者」にし、「監視者」として巻き込まなかったことの致命的な過ちだ。彼らには声が必要だった。参加する権利が必要だった。それを与えなかった。


 そして何より、隣国ヴェルディア帝国の影を全く察知できなかった無警戒。


 あの革命は自然発生などではなかった。


 裏で帝国が莫大な資金を流し、扇動者を送り込み、巧妙に混乱を作り出していたのだ。不自然な食糧危機も、組織化されたデモも、暴徒化した暴動も、全ては仕組まれたシナリオだったのである。


 レオポルトはそれに気づかなかった。気づいたときには、既に断頭台の上にいたのだ。


 記憶の統合が完了する。


 レオポルトは、自分が「二度の人生」をフルに生きた存在であることを理解した。辣腕バイヤーとしての経験と、貴族としての教養。二つの武器が、今、完全に一つになったのだ。


 そう認識した、次の瞬間。


 世界が反転した。



 ◆



 不快な浮遊感とともに、景色が歪む。


 断頭台が霧散する。民衆の怒号が遠のく。石畳の冷気が消え失せる。処刑人の無機質な瞳も、皮肉なほど青かった空も、すべてが闇に溶けて消えていった。


 レオポルトは、唐突に、柔らかな温もりに包まれていた。


「……はっ!?」


 目を開ける。


 見慣れた天井が見えた。


 幾何学模様の漆喰が映る。六角形と菱形が交互に並ぶ、父の代から変わらない意匠だ。自室の天井である。正確に言えば、書斎兼寝室の天井。窓からは朝の光がレースのカーテン越しに差し込んでいた。優しく、穏やかな光。遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。怒号ではない、平和な朝の音だ。


 レオポルトは弾かれたように上半身を起こした。


 勢い余ってベッドから転がり落ちそうになり、慌ててシーツを掴んで踏みとどまる。


 息が荒い。心臓が早鐘を打っている。ドクン、ドクンと、生きている証を刻み続けている。全身が汗で濡れていた。寝巻きが肌に張り付いて気持ちが悪い。


「嘘だろ……嘘だろ……」


 手首を見る。手枷はない。赤く腫れた跡すらない。白く細い腕が、そこにあるだけだ。


 首筋に手をやる。繋がっている。刃の冷たい感触はない。温かい脈動があるだけだ。確かに生きている。確かに息をしている。指先で脈を確かめる。規則正しく、力強く打っている。


「ここは……」


 部屋を見回す。


 自分の書斎兼寝室だ。愛用していたマホガニーの書き物机。本が溢れる本棚。座り心地の良い革張りの椅子。暖炉の上に飾られた父の肖像画。すべてがそこにある。革命の炎で焼かれ、略奪される前の、あの懐かしい部屋だ。


 ふらつく足取りで、壁にかかった姿見に駆け寄る。


 鏡の中の男と目が合った。


 そこに映っているのは、処刑された三十二歳の自分ではない。


 肌に張りがあり、目の下の隈もない。頬はまだ若々しく、額の皺もなく、髪には白いものが一本も混じっていない。二十九歳の自分だった。三年前。デパート構想を王に提案する、まさにその直前の自分なのだ。


 レオポルトは鏡に映る自分の顔を凝視し、震える手で頬を叩いた。


 パァン、と乾いた音が響く。


 痛い。夢ではない。確かに現実だ。頬がじんじんと熱を持つ。


「戻った……」


 声が震える。喉が引きつる。


「本当に、戻ったのか……?」


 深く息を吸い込む。肺いっぱいに、朝の空気を満たす。窓の隙間から入り込む空気は、仄かに花の香りがした。庭の薔薇だ。春の薔薇。まだ蕾だったか。そうだ、この季節は薔薇が咲き始める直前だった。また吸い込む。吐き出す。呼吸を整えようとするが、指先の震えが止まらない。恐怖ではない。安堵と混乱と、そして激しい感情がない交ぜになった震えだ。


 熱いものが込み上げてくる。


 涙が溢れて、止まらなかった。両手で顔を覆う。膝から力が抜け、その場にくずおれそうになる。


「戻った……戻ったんだ……」


 断頭台の冷たさは幻ではなかった。民衆の憎悪も、革命の炎も、全てが一度経験した現実だったのだ。だが、今、ここにいる。まだ何も失っていない、三年前に戻っている。


 コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。


「旦那様、朝食の用意ができております」


 その声に、レオポルトの肩がビクリと跳ねた。


 執事、エーリッヒ・ランベルトの声だ。落ち着いた、低く、安心感を誘ういつもの声。あの最後の夜、涙を流しながら逃亡を懇願した、あの声だ。彼もまた、革命の混乱の中で行方不明になっていたはずだ。生きているのか死んでいるのかも分からなかった。


「エーリッヒ……」


 その名を呟いただけで、喉が詰まった。あの最後の夜、涙を浮かべて懇願したこの男の姿が鮮やかに蘇る。震える肩。絞り出すような声。仕えて十五年の忠義が、あの一瞬に全て凝縮されていた。


 扉の向こうで、わずかに気配が動いた。


「旦那様? お加減が優れませんか? お声の調子がいつもと違うようでございますが。もしお具合が悪いようでしたら、医師のヘルマンを呼びましょうか」

「いや……いや、何でもない。少し寝ぼけただけだ。医者は要らない」

「さようでございますか。それはようございました」


 エーリッヒの声には、わずかに安堵の色が混じっていた。


「本日のスープはかぼちゃのポタージュでございます。昨晩お伝えいたしましたとおり、東区の農家から届いた今季最後のかぼちゃを使っております。マルタが腕によりをかけて仕込んでおります。パンはライ麦を焼き上げたばかりでございまして、まだ湯気が立っております。冷めないうちにお召し上がりいただければと存じます」


 レオポルトは袖で乱暴に涙を拭った。


 深く深呼吸をし、声を整える。震えを押し殺す。何度か唾を飲み込んで、喉の詰まりを解く。


「……ああ、すぐに行く」

「かしこまりました。それから旦那様、本日は午前中にヴァルトシュタイン男爵との茶会のご予定がございます。男爵は新しい東方の茶葉を手に入れたとかで、是非お味見をとおっしゃっておりました。午後には仕立て屋のハインリヒが採寸にまいります。先月ご注文の夜会用の上着の件でございます。お忘れなきようお願いいたします」


 ヴァルトシュタイン男爵。その名前に記憶が反応する。第一周目では、男爵はデパートへの出資を検討していた人物だ。穏やかな性格の初老の貴族で、商業に理解がある珍しい存在だった。茶会は社交辞令で終わり、結局出資は見送られた。レオポルトの提案が抽象的すぎて、具体的な利益が見えなかったからだ。だが今回は違う。前世の知識と第一周目の経験があれば、男爵を説得できるはずだ。


「ああ、覚えている。……エーリッヒ」

「はい、旦那様」

「今日の午後の仕立て屋の予定は延期してくれ。上着の件は急がない。代わりに、書斎で一つ相談したいことがある。お前の時間を少しもらえるか」


 扉の向こうで、わずかな沈黙があった。


 レオポルトが執事に「相談」を持ちかけるのは、おそらく初めてのことだっただろう。第一周目のレオポルトは、エーリッヒを有能な執事としては信頼していたが、経営の相談相手とは見なしていなかった。家事や日程管理は任せても、事業の根幹に関わる話を持ちかけることはなかった。それもまた、過ちの一つだったのだ。この男の持つ人脈、情報収集力、そして何より人を見る目。それらを活かしきれなかった。


「……旦那様がそうおっしゃるのは珍しいことでございますね」


 エーリッヒの声に、かすかな驚きが滲んでいる。だがすぐに、いつもの穏やかな口調に戻った。


「もちろん、いつでもお申し付けください。仕立て屋のハインリヒには私から連絡いたします。あの者も忙しい身ですから、早めにお伝えした方が角が立ちません」

「すまないな。手間をかける」

「いいえ。それが私の務めでございますから」


 もう一度、鏡の中の自分を見つめる。


 二十九歳の自分。まだ若い。まだ何も始まっていないし、何も終わっていない。全てがこれからなのだ。


「今度こそ、全てを変えてみせる」


 鏡の中の瞳に、強い光が宿る。


 それは、かつての夢見がちな青年の目ではない。地獄の縁を見てきた者の、覚悟を決めた目だ。断頭台の冷たさを知り、民衆の憎悪を浴び、信じた者に裏切られ、それでもなお立ち上がろうとする者の目である。ただし今は、それを隠す必要がある。周囲には何も知られてはいけない。この目は、鏡の前でだけ見せるものだ。


「俺は二度と同じ過ちを繰り返さない」



 ◆



 レオポルトは着替えもそこそこに書斎の机に向かった。


 引き出しを開け、白紙の束とインク壺、ペンを取り出す。手はまだ微かに震えていたが、ペンを握ると不思議と落ち着いた。前世、企画書を書くときに感じていた、あの「仕事モード」の感覚が戻ってきたのだ。指先に意識を集中させると、余計な感情が遠ざかる。これは前世で身につけた技術だ。どんなに混乱していても、ペンを握れば思考が整理される。


「さあ、始めるぞ。まずは全てを吐き出す」


 紙に向かい、ペンを走らせる。


 第一周目の記憶を、インクが滲むのも構わずに書き殴っていく。記憶が鮮明なうちに、脳内の情報を全て外部に出力しなければならない。時間が経てば記憶は薄れる。細部が曖昧になる。今この瞬間が最も鮮明なのだ。一秒たりとも無駄にはできない。


 失敗の原因を書く。


 王権との距離感の誤り。透明性を掲げながら、実際には貴族優遇の優先予約枠を残してしまった妥協。「段階的に」という言葉で先送りにし続けた怠慢。民衆への説明不足と、彼らをステークホルダーとして巻き込めなかった傲慢さ。前世の成功体験に囚われ、この世界の固有の文脈を軽視した愚かさ。


 敵の手口を書く。


 隣国ヴェルディア帝国の工作員、エドヴァルト・シュタイナー。彼は友好的な貿易商人を装い、王国の社交界に深く潜入していた。人当たりの良い笑顔の裏で、革命勢力に資金を流し、穀倉地帯の倉庫を焼き払い、人為的な食糧危機を演出した張本人だ。ビラの印刷を手配し、酒場の扇動者に台本を渡し、デパートへの憎悪を計画的に煽った男。


 そして、協力者と裏切り者たちの名前を書く。


 ペン先が一瞬止まる。


 最後まで自分を信じ、デパートと運命を共にした老技師オスカー・ブラウエル。家族と絶縁してまで改革を支持してくれた若手貴族フェリックス・フォン・アルトハイム。中立を保ちつつも、裏で情報を回してくれた商人マルクス・シュトラウス。


 そして……。


 革命側に寝返り、群衆の前でレオポルトを告発した図書室司書、クララ・ノイマン。


 彼女の名前を書く手が重くなる。


 あの告発の瞬間が蘇る。法廷で証人として立ったクララは、震える声でこう証言した。


「レオポルト・ヴァイスハルトは……私たちに理想を語りました。誰もが平等に、公正に。美しい言葉でした。私は、それを信じました。私だけではありません。多くの人が信じた。あの人の目は嘘をついているようには見えなかった。だからこそ、私たちはついていったのです。でも……」


 彼女は一度言葉を切り、目を伏せた。法廷の証人席で、彼女の手は小さく震えていた。


「でも、彼の書斎には帝国の紋章が入った書簡がありました。私は図書室の整理中に、書斎の隣室との仕切り棚を整頓していた際、誤って書斎の書類の中からそれを見つけてしまったのです。封蝋は帝国の双頭鷲の紋章でした。中身は読んでおりません。ですが、あの紋章を見間違えるはずがございません。私は……あの人を信じたかった。信じたかったのです。でも、あの書簡を見てしまった以上、黙っていることはできませんでした」


 帝国の紋章が入った書簡。そんなものは身に覚えがない。仕組まれたのだ。誰かがレオポルトの書斎に偽の書簡を紛れ込ませ、クララに「発見」させた。彼女は騙されたのだ。あるいは、騙されるように仕向けられたのだ。


 彼女の裏切りは本当に彼女の意思だったのか。それとも帝国の情報操作によって誤解させられていたのか。あるいは家族を人質に取られていたのか。第一周目のレオポルトには、それを確かめる時間も余裕もなかった。


「変数が変われば、運命も変わるのか」


 答えは分からない。だが確かめなければならない。やり直すなら、彼女のことも含めて、全てを救い出さなければならないのだ。


 重要な日付も書き出していく。


 デパート開業日。最初のボヤ騒ぎ。フェリックスがビラの件を報告してきた日。原因不明の小麦価格高騰が始まった日。マルクスがシュタイナーの件を伝えてきた夜。最初の大規模デモの日。穀倉地帯の同時多発火災の日。革命勃発の日。国王逃亡の日。そして自分が逮捕された日。


 全てを書き終えたとき、紙は黒いインクで埋め尽くされていた。何枚にもわたる紙が、机の上に散らばっている。


 ペンを置き、レオポルトは大きく息を吐いた。右手の人差し指と中指にインクの染みがこびりついている。


「これが第一周目の全てだ。俺の死に至るまでのロードマップだ。完全な敗北の記録であり、同時に勝利への設計図でもある」


 ふと窓の外を見た。


 王都の街並みが広がっている。朝の光に照らされた美しい石造りの街。赤い屋根瓦が連なり、遠くに王宮の尖塔が陽光を受けて白く輝いている。市場からは活気のある声が聞こえ始めていた。荷馬車の車輪が石畳を叩く音。威勢のいい呼び込みの声。まだ平和だ。まだどこにも革命の火種は見えない。帝国の影も潜んでいるだけで実体化していない。


 まだ、全てが間に合う。


「透明性だけでは足りなかった」


 レオポルトは誰に聞かせるでもなく独り言ちた。その声は落ち着いており、決意に満ちている。


「公共性というお題目だけでは、人々の心には届かなかった。彼らは物が欲しいのではなく、存在を認めてほしかったのだ。『あなたの声は届いている』と言ってほしかったのだ。権力に支配されるのではなく、意思決定に参加したかった。自分の暮らしに関わることを、自分の手で選びたかったのだ」


 レオポルトは自分の失敗を正確に認識していた。


「今度は民衆を『協力者』にする。デパートを『彼らのもの』にする。王権からはあえて距離を置く。勅許は受けない。自力で資金を集め、自力で許認可を取る。透明性と開放性で、彼らを経営の中心に据える。そして隣国の工作は芽が出る前に摘み取る。エドヴァルト・シュタイナーの正体を暴き、帝国の介入を事前に封じる」


 やるべきことは山積みだ。だが迷いはない。第一周目の失敗という、これ以上ないテキストが頭の中にある。あの三年間で犯した全ての過ちが、一つ残らず記憶に刻まれている。同じ轍は踏まない。踏むはずがない。その確信が全身に満ちていた。


「第一周目で俺を裏切った者たちは、今回も牙を剥くのか」


 クララの、どこか悲しげだった告発の顔が脳裏をよぎる。彼女だけではない。多くの部下が去っていった。だが、それは俺が彼らを守りきれなかったからだ。彼らを信じきれなかったからだ。俺の経営が未熟だったからなのだ。裏切ったのは彼らではない。彼らの信頼を裏切ったのは俺の方だ。


 レオポルトは決意を込めて拳を握りしめた。


「今度こそ完璧なリスタートを切る。エーリッヒよ、お前の力が必要だ。そしてオスカー先生、クララ、フェリックス、マルクス。今度こそ全員を守り抜いてみせる。誰一人として失わない。あの断頭台の光景を、二度と現実にはしない」


 その声には、二つの人生を歩んできた男の深い覚悟が感じられた。


 彼は書き殴った紙を丁寧に折り畳み、机の隠し引き出しの奥深くにしまった。二重底の引き出しだ。父の代から使われていたもので、外からは存在すら分からない。


 これは誰にも見せない。この記憶は自分だけの武器であり、同時に自分だけの十字架だ。あの断頭台で味わった冷たさを、処刑人の無機質な目を、民衆の憎悪を、クララの悲しげな告発を、全てを背負って生きていかなければならない。重い十字架を背負い続けることになるのだろう。だが、それを受け入れるだけの覚悟が彼にはあった。


 レオポルトは書斎を出て、廊下を歩き出す。


 食堂へ向かう足取りは先ほどまでのふらつきが嘘のように力強い。磨き上げられた廊下の石畳が靴音を返す。朝の光が窓から差し込み、廊下に長い影を落としていた。食堂の扉の向こうにはエーリッヒが待っているはずだ。いつものように完璧に温度管理されたスープと焼きたてのパンが並んでいるはずだ。


 だが今日からは違う。


 今日から世界を変える戦いが始まる。第一周目のレオポルト・ヴァイスハルトは死んだ。断頭台の露と消え、歴史の汚点として葬り去られた。


 だが第二周目のレオポルト・ヴァイスハルトはここにいる。


 前世のビジネススキルと現世の貴族としての教養。そして未来の記憶。全てを併せ持ち、地獄の縁から蘇った「経営者」として。


「今度こそ、この国を経営してみせる」


 誰も犠牲にしない。誰も失わない。完璧に最高の結果を出す。それが今回の誓いだ。


 レオポルトは食堂の重厚な扉に手をかけ、一気に押し開けた。



 ◆



 食堂には、エーリッヒが背筋を伸ばして直立していた。


 白いシャツに黒いベスト、きちんと結ばれたネクタイ。銀髪交じりの髪は丁寧に撫でつけられ、靴は鏡のように磨かれている。いつもと変わらぬ、完璧な執事の佇まいだ。テーブルの上には湯気を立てるかぼちゃのポタージュ、焼きたてのライ麦パン、そしてレオポルトの好む蜂蜜入りの紅茶が完璧に配置されている。


「おはようございます、旦那様。お顔の色が少々お悪いようですが……昨晩はよくお休みになれましたか? 先ほど扉越しにお声を伺った際、少々お疲れのようにお見受けいたしましたが」

「ああ……少し夢見が悪かっただけだ。心配するな。大したことじゃない」

「さようでございますか。夢見が悪い時には、食事をしっかり召し上がるのが一番でございます。お父上もよくそうおっしゃっておいででした。『腹が膨れれば、悪夢は逃げていく。悪夢に空き巣をさせるな。腹の中を空っぽにしておくから、悪夢が住み着くのだ』と。少々乱暴な理屈ではございましたが」

「……親父らしいな」


 レオポルトは椅子に腰掛け、スプーンを手に取った。かぼちゃのポタージュを一口含む。温かさが喉を伝い、胃に落ちていく。濃厚な甘みが舌の上に広がった。生きている。食べている。この温もりは本物だ。涙が込み上げそうになるのを、必死に堪えた。


「……美味いな。今日のスープは格別だ」


 エーリッヒはわずかに目を細めた。


「ありがとうございます。旦那様にそう言っていただけると、料理人のマルタも喜びましょう。あの者は腕は確かですが、褒められると三日は上機嫌で仕事をしますから。逆に褒めないと拗ねて味が落ちるので、なかなか扱いの難しい職人でございます」


 レオポルトは思わず小さく笑った。こんな何気ないやり取りが、どれほど貴重なものか。第一周目では気づけなかったことだ。


「エーリッヒ」

「はい」

「午後の件、頼んだぞ。少し長くなるかもしれないが、付き合ってくれ」

「もちろんでございます。旦那様のお役に立てるのであれば、何時間でもお付き合いいたします。それが、ランベルト家三代にわたるヴァイスハルト家への誓いでございますから」


 レオポルトはその言葉に、一瞬だけ目を伏せた。あの最後の夜、エーリッヒが流した涙が蘇ったのだ。「必ず、お迎えに参ります」と震える声で言ったこの男の姿が。


「ああ。……頼りにしている」


 その言葉に込めた重みを、今のエーリッヒは知る由もない。だが、いつかこの男にも全てを話す日が来るかもしれない。今はまだ、その時ではないけれど。


 新しい朝の光が、窓から差し込んでいた。


 かぼちゃのポタージュの湯気が、陽光の中で白く揺れている。レオポルトはスプーンをもう一度スープに沈め、ゆっくりと口に運んだ。


 この温もりを、今度こそ守り抜く。


 全てはここから始まるのだ。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


『異世界デパート経営』第1話をお届けいたしました。


「百貨店バイヤーの経験×異世界貴族の教養×未来の記憶」という三つの武器を持った主人公が、一度目の人生で犯した全ての失敗を糧に、デパート経営で国ごと変えていく物語です。


チートスキルも最強魔法もありません。主人公の武器は、前世で叩き込まれた売場づくりの知識と、死んで覚えた失敗の記録だけ。棚の角度を三度変えるだけで売上が変わる——そんな地味だけどリアルな「商売の面白さ」を、異世界ファンタジーの中で書いていきたいと思っています。


もちろん経営だけではなく、帝国の陰謀との頭脳戦や、第一周目で失った仲間たちとの関係の再構築など、手に汗握る展開もたっぷりご用意しております。


次話からは、いよいよレオポルトの「第二周目」が本格始動します。今度はどんな手で王を説得するのか? ギルドとどう渡り合うのか? 帝国の間者にどう先手を打つのか? ——ぜひ続きも楽しみにしていただければ幸いです。


更新は毎週日曜日を予定しています。


面白いと感じていただけましたら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。感想もお気軽にどうぞ。一つ一つ大切に読ませていただきます。


それでは、次話でまたお会いしましょう。

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