⑧呪縛
朝のギルドは、活気で満ちていた。
「マリアさん、こっちの束お願いします!」
「はい、そちら確認しますね」
仲間たちの声が明るく響く中、
マリアは慣れた手つきで書類を紐でまとめていた。
指は勝手に動き、綺麗な結び目を作る。
(……この頃、胸がずっとざわついている)
あの日、深層で遭遇してしまった時から、
気づけばふとした瞬間に思い浮かぶ顔。
魔物を一瞬で屠る鋭い背中。
女性を扱い慣れた、大人の余裕ある仕草。
なのに、自分の前ではその余裕を全部投げ捨てて、必死に心配してくれた顔。
……ギルドで職員に詰め寄っていた時の表情も忘れられない。
普段はあれほど落ち着いているのに、天使のことになると声が震えていた。
(でも、私に向けられたものじゃかい。…だって、相手は『天使』だもの)
言い聞かせても、胸の奥のざわめきは静まらない。
書類を束ねて机に置き、そっと胸元を押さえる。
抑え込んだはずの鼓動だけが、妙にうるさく響いた。
(でももし、見つかったら)
そう考えて、息をのむ。
その考えを振り払うように小さく首を振り、マリアは胸のざわつきを必死で押さえていた。
(……なんで、こんなに落ち着かないの)
まぶたをそっと伏せた瞬間、ふと母の顔が浮かび上がった。
***
母は──
どこか幻想的なほど美しい人だった。
透き通るような白い肌、触れたら溶けてしまいそうな柔らかい髪。
細い骨格なのに、全体が女性らしいしなやかさを纏っている。
ただ美しいだけじゃない。見るものの心を奪うような妖艶さが、静かに滲み出ていた。
その容姿は、代々この家の女性に受け継がれてきた特徴だ。
マリアもまた、その血を濃く受け継いでいた。
長い睫毛、色づきふっくらとした唇
美しいヘーゼルの瞳、ふんわりとウェーブのかかった亜麻色の髪
白磁のような肌、柔らかく清楚な雰囲気。
なのに、ふとした仕草や横顔に漂う艶やかさ。
冒険者も職員も男女を問わず目が引きつけられてしまう存在だ。
そして──
この家系の女性は、代々その美と隠密の特性ゆえに、誰ひとりとして『看破』を逃れられなかった。
「この家の女はね……姿を見られただけで恋に落とされるのよ」
まるで、呪いのようだと。
かつて祖母がそう言っていたのをマリアは覚えていた。
見つかった瞬間から誰かの運命に組み込まれてしまう。
逃げても、隠れても、必ず追いつかれ、
情熱と執着に絡め取られていく。
そうして多幸感を植え付けられ、やがて抗えなくなる。
母は、その象徴のような人だった。
***
「マリア……」
熱に浮かされたような、夢を見るような母の声。
「彼のそばにいるとね……胸が高鳴って……もっと近くに行きたくなるの。触れられたいって思ってしまうのよ」
震えながら、それでも幸せそうに笑う。
「そんな自分が怖くて……絡め取られる前に何度も逃げたの。でもね……どこに隠れても追いつかれて……
隠密も……もう、使えなくなって……」
父が静かに母の肩を抱く。
「君を手放す気なんて、最初からなかったからな」
優しく甘い声。
だがその奥に潜むのは、逃げ道などないほどの深い独占欲。
母はその腕の中で幸せそうに笑っていた。
家族としては温かい光景でも、
マリアは怖かった。
***
(私は……あんなふうにはなりたくない)
胸を押さえる。
父と母のことは愛している。
でも、私は、自分の意思で人を好きになりたい。
自分で選びたい。
なにより──
(今は深層支援士を続けなきゃ。この仕事は私にしかできない。だから、絶対に見つかっちゃだめ……!)
そう強く思った瞬間。
ふ、と視線を感じた。
窓口から少し離れた場所でカインがこちらを見ている。
その瞳には、静かな熱と探る光。見つめられるだけで胸が強く跳ねる。
マリアはそれを微笑みで押し殺し、会釈して自然に退場した。
仲間たちを残し、静かに姿を消す。
マリアの気配が完全に離れると──
カインは動かないまま、彼女が置いていった書類束へそっと視線を落とした。
ただ、観察するだけ。
それだけで、目の奥に光が灯る。
そして、誰にも届かないほど低い声で何かを呟き、
ほんの少しだけ笑った。




