⑤その日を境に、何もかも変わった(カイン)
深層へ潜るたびに、補給物資を探すようになった。
最初は偶然だ。ただそこにあったから読んだだけだった。けどあの日からずっと、あの手紙が頭から離れない。
『あなたが今日も帰ってこられますように。
無理をした一歩は、誰かを悲しませてしまうから。
どうか休めるときに休んでください』
『あなたが今日見せた勇気は、誰かの希望につながっています。
この場所に来ることを選んだあなたを、私はそっと応援しています』
『あなたの帰りを願う人がいます。
その人のためにも、どうか今日も無事に戻ってきてください』
静かで優しい文字。余白の取り方の癖。
──少しだけ震える筆跡。
読むほどに、胸の奥が温かくなる。
こんな、深層の冷たい空気の中で。
仲間の一人が、その表情を見て呆れたように言う。
「カイン……顔ゆるんでるぞ。どうした?何かイイコト書いてた?」
「……別に」
「別にって顔じゃねぇぞ。恋してるやつの顔なんだよなぁ、これが」
「やめろ」
「昨日だって酒場で女に囲まれてただろ。全員また今度なってあしらってよ」
「……気分じゃなかっただけだ」
鼻で笑われた。
…まぁ、乱れた生活だったのは自覚がある。
「気分じゃないんじゃなくて、天使さん以外に気分が向かないの間違いだろ?」
軽口なのに、妙に刺さる。
「惚れてない。会ってもない」
「手紙の向こうの可愛い相手に惚れてるんだよ、お前は」
「違う」
強く否定したはずなのに、心はまったくついてこない。
思い返す。
酒場で女が近づいてきて、腰に手を回してきたときのこと。
前なら軽く抱き寄せて、笑って適当に相手して。
なのに今は──
胸がひとつも動かなかった。
むしろ、鬱陶しい、とさえ思った。
(……なんでだよ)
言葉にできない違和感だけが残る。
なのに離れられない。
依頼が終わったのに、この街を離れる気になれない。
深層を降りるたび、胸の奥底に熱が灯る。
“また、あの字に会えるかもしれない”
気づけば、そんなことばかり思うようになっていた。
⸻
そして、ある朝。
ギルドで何気なく聞こえた会話に、カインは一瞬で固まった。
「昨日の補給箱、裏側に結構な量の血がついてたらしいぞ」
……血?
その言葉を理解した瞬間、
全身の血の気が引いた。
気づけば、職員の窓口に立っていた。
「……昨日の補給物資。血がついてたって、本当か?…血を流したのは、天使?」
声が震えている。
自分でも驚くほど。
その後職員に詰め寄ったり、冷静さを保てない。
脳裏に浮かぶ。
深層の冷たい石壁。
獲物とみなした弱い人間から襲う魔物。
一瞬の判断ミスが命を奪う世界。
(……なぁ。なんでそんな無茶すんだよ)
あの優しい字の人物が、深層で血を落とすほど傷ついた?
誰がそんなことを望む。
誰が……その子を守る。
冷たい焦りとともに心を侵食してくるこの気持ちが何なのか、分からない。説明もつかない。
ただ──
(頼むから、無茶しないでくれよ)
ただひとつ。
たしかに分かってしまったことは。
──天使が無事じゃないと、自分はどうにかなってしまうだろうということだった。




