②深層の天使
夜のダンジョンは、街の喧噪とはまるで違う“生き物の呼吸”をしていた。
魔石が淡く点滅し、奥の通路で低い呻きが反響する。
マリアはフードを深くかぶり、息を整えた。
(今日は……絶対に慎重に)
補給物資を詰めたボックスを抱え、隠密スキルを纏わせる。
足音が吸い込まれ、気配が淡く消えていく。
それでも深層へ潜るたび、恐怖に身体が震えることは変わらない。
けれど──
それでも続けると決めたのだ。
(……誰かの無事につながるなら、それでいい)
静かに歩を進め、深層へ向かっていく。
―――
セーフティエリアに入ると、魔石の光が広場に柔らかい揺らぎを作っていた。
「……よかった。今日は魔物、近くにいないみたい」
前回は危険だった。
入口付近の影に潜んでいた魔物にスキル解除の一瞬を狙われ、攻撃を受けてしまった。
隠密がなければ自分はただの人間。
辛くも逃げ込み腕の怪我だけで済んだあの日は、今でも悪夢だ。
ボックスを地面に置き、慣れた手つきで物資を並べる。
水袋、パン、回復薬。
そして、小さな手紙。
『今日もあなたが無事でありますように』
書いている途中で、指がかすかに震えた。
(ほんとうに……どうか無事で)
冒険者たちの顔を思い浮かべ、そっと祈りを込めて手紙を置く。
そして踵を返した──そのとき。
カツン……
通路の奥で石靴が跳ねる音。
マリアの背筋が電流のように強張った。
(だれか……来る……!)
魔物ではない。
もっと重い、もっと確かな“人”の足音。
マリアは咄嗟に影へ身を滑り込ませ、隠密を最大まで張った。
息が止まるほど胸が締めつけられる。
足音は近づき──
近づき──
さらに近づく。
そして、現れた。
黒い長衣。長身。
歩くだけで周囲の空気を変える男。
カイン。
(なんで……どうして今ここに──)
心臓が、痛いほど跳ねた。
―――
カインは広場をゆっくり見渡した。
補給箱へ。
通路の影へ。
その視線が探るように揺れ、マリアの背に汗が伝う。
(お願い……こっち見ないで……)
カインは補給箱の前にしゃがみ込み、中を確かめるように手袋越しに触れた。
「……丁寧だな、ほんと。」
低く、あたたかい声。
手紙を持ち上げ、光に透かして読む。
「無事でありますように、か……ありがとな」
ただの一言なのに、胸の奥がふわっと熱を帯びる。
しかし──
次の瞬間。
カインの指がぴたりと止まった。
視線が足元へ落ちる。
銀の光。
(っ……!)
それは、マリアのマントの留め具。
カインは指先でそれをゆっくり撫で──立ち上がった。
そして。
影の奥、マリアのいる方向へ歩き始めた。
(だめ、来ないで……!)
影に押しつけた背中が震える。
隠密を張っているはずなのに、足音が近づくたび呼吸が乱れそうになる。
カインの長い足が一歩。
また一歩。
「……っ」
すぐそばでカインはぴたりと足を止めた。
マリアは必死に息を殺す。
二人の距離はそれほど近かった。
──吐息だけで気取られ兼ねないほどに。
心臓が暴れ回る。
そのとき
掠れるような声が落ちた。
「……どこ行ったんだよ」
静かで、落ち着いていて。
なのに、滲む焦りが苦しい。
(やめて……そんな声……)
カインは影の奥をもう一度見つめ、ゆっくり息を吐いた。
視線を切り、深層へ向かう通路へ歩いていく。
足音が遠のき──消える。
マリアは壁に手をつき、膝が崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
息が乱れ、瞳が潤む。
(……危なかった……ほんとうに……)
胸の鼓動は、その後もしばらくおさまらなかった。




