⑤自覚
薄い魔石灯の明かりが揺れ、静寂だけが深層の安全地帯を満たしていた。最後の救援箱を整え、マリアは今内容を書いたばかりの羊皮紙を丁寧に結び、箱の中に置いた。
胸の前で指をぎゅっと組む。
(……これで、最後)
伏せた瞼の裏に浮かぶのは、こんな自分にも親しげに接してくれる冒険者たちの笑顔。無事に戻ってほしいと願い続けた日々。深層の闇にひとり立ち続けた時間。誰にも言えなかった孤独。それでも——
(役に立てたなら、それでよかった……)
祈りを捧げた瞬間、頬を伝うものがあった。
涙だと気づいたのは、名を呼ばれたときだった。
「マリア」
深層の静けさを破るにはあまりに優しい、けれど胸に深く響く声だった。
ハッと目を開き、慌てて指先で拭う。
そんなマリアに、カインが静かに近づく。
屈み込んで目線を合わせる彼の表情は、冗談ひとつなく真剣だった。
「……よく頑張ったな」
その一言だけで胸が詰まった。
押し潰してきた孤独も、不安も、誰にも言えなかった想いも、一気に浮かび上がった。
「冒険者として、礼を言うよ。ずいぶん助けられた」
優しい声。
あまりにもあたたかくて、泣くまいとする心が崩れそうになる
「……っ、ひ……ぐ……」
こぼれ落ちる嗚咽に、カインは数秒迷うような動きをして、そっと隣に腰を下ろした。
温かな手が肩を抱き寄せ、マリアの頭を軽く自分の肩へと導く。
「大丈夫だ。……もう泣け」
頭をやさしく撫でる手のひら。
静かに、何度も、安心させるように。
もう堪えられなかった。
唇が震え、涙が堰を切るように溢れる。
マリアはカインの肩に額を押し付け、喉の奥が震えるまま泣いた。
泣き疲れた頃、言葉がぽつりぽつりとこぼれる。
「……本当は、自己満足に近いことだったんです。誰かの役に立ちたくて……。こんな力でも、もう、呪いじゃなくなる気がして……」
「……呪い?」
カインの声が小さく揺れた。
マリアはハッと顔を上げる。
目が合う。そこにあるのは誠実な光だけで、あの日の深層の熱は感じられなかった。
(どうして?それがいちばん、苦しい……)
不安が込み上げ、もう隠せなかった。
「……貴方が、私を看破した瞬間。私の母方の家系のスキルが、貴方と私を結んだんです」
カインの瞳が、ほんのわずか動いた。
「これからスキルが消えていくほどに、貴方には私の居場所が分かるようになります。『祝福』って伝わっているけれど、私にはずっと呪いみたいで…。父と母を見ているのも辛くて、家を出たんです。」
胸の奥でいちばん脆いところが、じくりと痛む。
(……それに、近くにいるだけで感じる、この鼓動も……多幸感も……)
だけど——
その言葉の最後に触れた瞬間、心のどこかが勝手に期待してしまった。
(……この話を聞いて、カインさんは……どう思うんだろう)
知らないうちに縁が結ばれていたことを、嫌がるだろうか。
それとも……ほんの少しでも、何か特別な感情を抱いて、くれたりするのだろうか。
怖いのに、期待してしまう。
その期待に自分で怯えながら、マリアは、潤んだ瞳でそっとカインを伺った。
――けれど。
返ってきたのは、ただひたすら優しい声だった。
「そっか。ここまで一人で抱えて、よく頑張ったな」
嬉しい言葉のはずなのに。
マリアの胸がぎゅっと捻れた。
落胆した自分の心に、もう、嘘は付けなかった。
⸻
深層を出る道すがら、カインは常に一定の距離を保ち、マリアの安全を確かめるように歩いた。
必要以上に近づかない。
けれど、すぐに守れる位置にいた。
その優しさに触れるたび、マリアの胸は苦しくなる。
ギルド管理区域の入口。
人目のない場所まで送ってくれたカインは、穏やかな声で別れを告げた。
その背中が光に溶けていくのを、マリアはただ見送るしかなかった。
そして帰り道。
無意識に——あの熱を、探してしまった。
見つからないと気づいた瞬間、
胸のいちばん柔らかい場所が冷たく凍り、
その中心に、黒い熱がぽとりと落ちた。
⸻
酒場は賑やかだった。
男女問わず声をかけられ、店員からも色目を向けられるが、カインはいつも通りの軽口で受け流す。
そしてひとりになった瞬間、表情が抜け落ちた。
「……ギルドに無事に帰れたか」
右手を見下ろす。
まるでそこにある”何かの繋がり”を見ているかのように。
「祝福、ね。……なるほどな」
呟きは低く、どこか甘さを含み、濃い影が差していた。
ふっと手で顔を覆う。
俯き陰ったその隙間から覗く唇の端が――静かに弧を描いていた。




