プロローグ
秋の風がくすぐるように流れる街の通り。
商店街のざわめきは明るいのに、マリアの胸の奥だけはどこか沈んでいた。
(昨日のこと、思い出しただけで……自分が分からなくなって変になりそう)
足を進めながらも、心はずっと深層に置き去りのまま。
人の多い通りなのに、世界の音がずっと遠く聞こえる。
あの瞬間――
影に隠れていた自分を補足し、手首を掴むでも腕を引くでもなく、
ただ逃がさない距離で壁際に閉じ込めたカイン。
耳に吐息が触れそうな距離の、低くて甘い声。
額から頬へ触れた、熱い指。
視界の端で、自分を包んでいた薄膜が、ひらりと光の粒になって解けていくあの感覚。
そして――スキルが崩れ落ち、露わになった自分を見つめていたあの目。
獣じみて鋭いのに、抑え込んだ激情が奥で静かに燃えていて、
なのに、傷ひとつない自分を確認して、ほんの少しだけ緊張が溶けたように見えた。
そんな安堵と、やわらかな優しさが混ざった強い眼差し。
あのとき、低く絞り出すみたいに落とされた声が脳裏に蘇る。
──「捕まえた」
そして、そのあとに感じた、熱い体温。
(……っ)
思い出しただけで、マリアの肩がびくりと震えた。
その小さな仕草が、通りすがりの男たちの視線を自然と引き寄せる。
けれどマリアは気づかない。
足を止めた瞬間、胸の奥に重たい波紋が落ちる。
あのとき、混乱に呑まれた自分が何か言おうとした時――
ほんの一瞬、彼の腕が強く自分を抱き寄せて。
「……から」
小さすぎて意味すら分からない声。
マリアが聞き返そうと、小さく顔を上げる。
しかし次の瞬間には、カインはいつもどおりの落ち着いた様子に戻っていた。
上から落ちる苦笑。
「なんてな。とって食うわけじゃないから、そんなに泣くなよ」
指の腹でそっと涙を拭われる。
その動きはとても優しくて。
その時にはもう、彼はいつもの穏やかな眼差しだった。
…まるで、何事もなかったかのように。
(あれは、なんだったんだろう。あんなふうに追ってきたのに……)
それまで感じていた身を焦がすような熱は、気のせいだったのだろうか。
そんな疑問だけが胸の中で渦になり、重く沈む。
その時。
「マリア」
名前を呼ばれて、ハッと顔を上げる。
「レオン……?」
軽快な足取りで駆け寄ってきたレオンは、街の雑踏の中でもどこか華があって、すぐ周囲の視線を引き寄せる。
それでも真っ直ぐマリアを見つめ、柔らかく微笑んだ。
「今からギルド?ちょうど俺も行くところ。一緒に行こう」
「……ええ」
返事はできたけれど、声は少し沈んでしまう。
「どうしたの?そんな顔して。無防備すぎるよ、マリアは」
レオンがちらりと横目で街の人々を牽制する。
男たちの視線がすっと逸れた。
けれど彼女にはその言葉の意味が分からず、
「……?」と小さく首をかしげるだけだった。
秋風が吹き抜ける。
二人の影が並んで伸びていく。
(……本当は、誰に声をかけられたかったんだろう)
胸の奥が、きゅう、と痛んだ。
まだ言葉にならないその正体から目をそらすように、マリアはまた前を向いた。
そして、ふたりの背中は、夕日へ向かうように静かに街の中へ消えていく。




