枯山水
掌篇。 第十一輯。
方丈の縁側に坐る。ぼうっと枯山水の庭を眺めていた。気のせいか、心が清澄になって逝く。きよらかなやすらぎがただしい。
天易氏は僕の隣に坐した。
「いつ見てもいい、石、白砂、苔。この世の全てが在る」
この世の全てが在るって、どういうことなのか、訊いてみたかったが、氣力が湧かなかった。
くだらないこと、空だの、無だの。ありもしないことを考えるなんて。
現実問題に対して役に立たない理念や真理など少なからずあるが、空ほど虚しいものはあるまい。
生きていくための役に立たない。喰っていくための役にも立たない。誰もが顧みなくなったのは、当たり前だ。つまらないこと、くだらない。
そうやって舎(捨)置除却すればスッキリする。
心地佳いさやかなことは善いことだ。かろやかで、あかるいことは正しい。さわやかなことは義である。僕は清々しい気持ちで、
「そうですね。なンもなくって、とってもいいです。まるで」
大義も意味も理由もない、何ものであるかも得られぬ、得体の知れない、ただ、在る丈の、僕らが生きている現実みたいに、ただ、在ったことが事実で、起こったことが真実という丈の、ただ、出たとこ勝負の、世界・今生きている現実みたいに、って言おうとして恥ずかしいからやめた。意味不だし、流石に気障過ぎであろう。
「乾坤の全てが在る」
天易氏はそう言い切った。僕は全無視もいかがなものかと思い、何か言おうとしたが、その前に真兮氏が、
「そもそも、宇宙開闢とは何か」
何とか対応せねばと思い、
「何でしょうね」
「もし、宇宙開闢以前に」
「開闢以前に?」
「物質がないとしたら」
「なるほど、なかったかもしれません」
「空間もないとしたら」
「空間のない状況を空想にすらも浮かべることができませんが、そうかもしれません」
「時間もなかったとしたら」
「ううん、物質も空間もなかったならば、変化も運動もないから、遷移がなくて、時間は存在しなかったかもしれませんね」
「時間がなければ、時点がない」
「それはまあ、確かに」
「ビッグバンが起こった時点は特定できない」
「っていうことになるんですか」
「それは今であってもよく、未来であってもよい」
「うむむ、それは」
「時点がなければ、原因も結果も関係ない。因果関係がない。物理も法則もない」
「なるほど」
「何かが起こるのに原因がいらない。因果律や法則や物理に束縛されていない」
「自由ですね」
「という以前に、そもそも、状態がない」
「ちょっと、わかりません」
「それは、あたかもこの枯山水の庭のように、空である」
「いや、全くわかりません」
「空とは、一切のタブーを破る、桁外れな、狂気のような奔放、無制限で、無際限な自由、狂裂な自在、狂奔裂であると言える」
「・・・・・・・・・・・」
「空とは、何が起こってもおかしくないことだ。何であってもおかしくない。空き缶や古くて廃れた道の風雪に蝕まれて毀たれた道祖神石像や缼けた李朝の茶碗だ。錆びたガードレールや工場の煙やテキサスの乾燥した空気やティータイムの安らぎだ。潮の干満や燦めく天の河や天穹の公転だ。
だからこそ、宇宙は唐突に開闢したのかもしれない。それはもう、あらぬ。その状態は空想すらも遙かに及ばない。
そして、それはその自由度から鑑みて、今現在のことですらある」
でも、彼の説が成立するためには、言語と概念が正しいという前提が必要だし、ロジックという方法が正しくなければならないし、世界や宇宙という事実が我々が見たとおりであることが条件となるが、それらを証明することは不可能だし、そもそも、証明や検証がなぜ正しいかを〝証明・検証〟しなければならないし、これらの主張もまたロジックに依拠して成立するが、ロジックも〝証明・検証〟しなければ・・・・・・と考えるのもロジックなので・・・・・・あれ?
まだ黎明前の蒼い時に起きた。コーヒーを淹れ、古いジャズを聴いた。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーやマイルス・デイビスなどだ。きよらかなやすらぎがただしい。
理に遵う限り、未遂不收の宙ぶらりんに陥るので(まあ、別にそれでもいいんですが、きっと気分は好くないと思いますので)、ただ、呼吸を清澄にし、十全の氣を以て泰然自若、踵や背で息をし、清み明けくあれば善いのではと感じています。理による西欧の哲学を超える東洋の哲学。