ルミナ外伝:時の果てで目を覚ます。
静かだった。
もう、何の音もしない。
ただ、遠くでノクの声が聞こえる気がした。
“影が光を抱く”――その温もりが、まだ胸の奥に残っている。
けれど、その腕の感触はもう消えていた。
体から光の粒がゆっくりと離れていく。
まるで、自分が世界から少しずつ切り離されていくようだった。
(……これで、終わりなの?)
そう思った瞬間、空間の奥で“軋む音”がした。
光と闇がぶつかり合い、世界が逆さまにひっくり返る。
ノクの影と、私の光。
二つの力は限界を越え、バランスを失った。
「……ノク、ごめん。私、止められなかった……」
その声は空気に溶け、風も音も消えていく。
時間すら――止まっていた。
それでも、心の中にはひとつだけ残っているものがあった。
ノクと過ごした日々。
あの笑顔、あの優しさ。
それが、今も私の中で灯のように輝いている。
(ノク……あなたがくれた“影”が、私の“形”を作ったんだ)
その瞬間、何かが弾けた。
世界の色が音もなく崩れ落ち、空は裏返り、地は裂けた。
上下も遠近もなく、ただ“流れ”だけが残る。
――時間が、壊れたのだ。
ルミナの体は光の糸となり、
“時の海”の中をゆっくりと漂っていく。
(ここ……どこなの……?)
手を伸ばしても、指先が泡のように消えていく。
自分の輪郭が溶け、過去と未来の区別も消えた。
けれど――たったひとつ、消えなかったものがある。
名前”。
――ルミナ。
それは、誰にも奪えない唯一の“私”。
光のせいではない。
私という存在が“紙”のようにこの世界に刻まれ、
名前という座標を与えられたから。
記憶が失われても、身体が滅びても、
この座標だけは世界のどこかに残り続ける。
――だから、私は消えない。
たとえ形がなくなっても、
“ルミナ”という名が、私をこの世界に繋ぎとめてくれる。
時の海の底で、誰かの声が響いた。
それは昔、どこかで聞いた言葉。
“光は時を越えるんだよ”
(……時を越える?)
その言葉が、胸の奥で響く
青い羽が光り、ひとひらの羽が浮かび上がった。
闇が反転し、無数の光の線が走る。
ルミナの体は流星のように、時の流れを駆け抜けた。
見える――。
笑うカゲナ、泣きながら頬を拭うリア、微笑むクレアナ。
あの日の世界が、少しずつ遠ざかっていく。
(ごめんね……もう少しだけ、行ってくるね)
光はさらに速くなり、色が消え、
世界が何度も生まれては壊れていった。
そして――
――世界はもう、終わっていた。
大地は黒く焦げ、空は赤く濁っている。
そこに生きるのは、悪魔と怪物と、かつて人だったものの残骸。
夜も昼もない世界。
月は砕け、太陽は死んだ。
その中で、ただ一人の男が生きていた。
何度殺されても、また目を覚ます。
何度切り裂かれても、肉は再生する。
この世界で最も長く生きている――
それが、不死身の男。
だが、もう誰も助けない。
戦う理由など、とうに燃え尽きていた。
彼は廃墟の地下に身を潜め、息を潜めていた。
外では怪物の呻き声が響く。
腐った風が鉄の臭いを運んでくる。
「……何百年だ? もう、数えるのも飽きたな」
その時だった。
空が、一瞬だけ――青く光った。
眩い閃光。
まるで天がひとつだけ涙を落としたかのように。
男は息を呑む。
青い光は尾を引きながら落ちていく。
無数の化け物が吠え声を上げ、空へ牙を向けた。
だが、光は止まらない。
彼らの群れを貫き、地上へ――。
ドォン――!
世界が揺れた。
光の柱が崩壊した都市を貫き、静かに消える。
男は咄嗟に剣を手にした。
「……あれは、何だ」
光の落ちた場所へ向かう。
腐った獣の死骸を踏み越えながら、焼けた道を進む。
――そこに、少女がいた。
瓦礫の中心。
青く透ける髪が風に揺れ、
背中には壊れたような“光の羽”があった。
男は目を疑った。
「……嘘だ。まさか、まだ……光が残っていたなんて……」
少女――ルミナはゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない瞳。
記憶の欠片もない。
「……ここ、どこ……?」
「地獄だよ」
男は苦笑した。
「この世界に、もう“生きてる人間”はいない。悪魔と怪物の巣だ」
ルミナは首をかしげた。
「じゃあ、あなたは?」
「……俺は、死ねない人間だ。呪いみたいなもんだ」
彼女は小さく瞬きをした。
そして、ふと空を見上げる。
「……でも、空、きれい」
男は思わず息をのむ。
何百年ぶりかで、誰かが“きれい”と言った。
だが、その直後。
空が裂けた。
黒い霧の中から、巨大な翼を持つ悪魔が姿を現す。
その後ろに続くのは、化け物たち。無数の手と牙。
大地がうねり、建物が崩れる。
「ちっ……またか」
男は剣を構える。
「お前は下がれ、あれは――倒せない」
悪魔が咆哮する。
耳を裂くような声が響き、空気が砕けた。
男の体が吹き飛ぶ。
肉が裂け、骨が折れた。
だが――死なない。
ルミナの目に涙がにじむ。
「なんで……なんで立てるの……?」
「……立つしかねぇだろ。倒れたら、終わりだからな」
彼は血を吐きながら笑う。
「……けど、もう限界だ。あの化け物どもには、勝てねぇ」
その瞬間。
ルミナの胸の奥で何かが鳴った。
青い光が脈打ち、羽が広がる。
時間が止まる――
世界のすべてが、凍りついたように動かない。
空に浮かぶ悪魔も、空気の震えも。
ルミナは震える手を見つめた。
「……これ、わたしの……力……?」
男の目が見開かれる。
「その光……まさか、“時の力”か?」
ルミナは小さく首を振る。
「わからない。でも……この世界、止めるのはいや」
彼女は空に手を伸ばした。
凍りついた時間が、逆流する。
砕けた空が再び形を取り、赤い空が青に変わる。
悪魔たちは溶けるように消え、風だけが残った。
静寂。
光が世界を包み込む。
ルミナは膝をつき、息を荒げながら微笑んだ。
「……すこしだけ、きれいになった」
男は呆然と立ち尽くす。
その世界で、初めて“祈り”のような感情が生まれた。
「……光は、まだ死んでなかったのか」
ルミナは顔を上げた。
「光はね、時を越えるんだって。誰かが……そう言ってた気がする」
男は小さく笑う。
「そうか……。じゃあ、俺も、もう少しだけ生きてみるか」
風が吹き抜ける。
灰の空に、ひとすじの青い光。
ルミナの羽が、流星のようにきらめいた。
それは、
絶望の底で見つけた、最初の希望だった。




