第4話 先生も知ってるでしょ、僕が二度と外に出ないって
霧島研究員の湿度が高かったので初投稿です。
白と灰の無音が、今日も同じように空間を支配している。
無機質というよりは、徹底して無駄の排された設計とでも言うべきか。
あらゆる物音は、最小限の摩擦と共に吸い込まれ、響く前に消える。規則的な空調の音さえ、鼓膜に触れることはない。ドアの開閉音も、足音も、何もかもが適切に管理され、過剰な存在感を示すことなく日々の中に溶け込んでいく。
この施設で生活するということは、自己という輪郭を失うことに等しい。それでも僕は、ここで呼吸して、食べて、眠って、今日もまた、こうして目を覚ましている。
ベッドの上で、天井をぼんやりと見つめる。純白の塗装、等間隔の照明パネル。整いすぎたそれらは、何の物語も語らない。
時計の針の音が静かに響く。それすらも、僕の体内から発せられる鼓動よりも遥かに静かに、空気を漂っているようだ。
ここでは、すべてが整然と、無駄のないように配置されている。人間という存在は、まるで不要な音を発することで施設の規律を乱す異分子でしかなかった。
研究施設は常に無音のように感じる。生きているようで死んでいるような、この場所の静けさは僕に安心感を与えることもあれば、逆に圧迫感を感じさせることもある。
だが、それでも僕はここで過ごさなくてはならない。ほかに行き場がないからだ。
僕のような存在が、ここで生きることに意味があるのか、何も分からない。それでも、霧島は僕を手厚く扱ってくれる。最初はその優しさに戸惑い、疑問を抱くこともあったが、今は少しずつ、それが必ずしも悪いことばかりではないと思うようになった。
もちろん、それがどうしても受け入れられないものだったら、僕はきっと拒絶するだろう。心の中では、その瞬間が来ることを確信している。
ノックの音がした。控えめに、しかし確かに鳴らされたそれは、今日もまた同じ人間が来たことを示していた。
「葉山さん、失礼しますね」
ゆっくりと開いたドアの向こうから現れたのは、いつものように微笑みを絶やさぬ霧島白玖だった。白衣の裾は皺一つなく、銀色の縁の眼鏡は淡い光を反射している。
その姿は、どこか整然とした部屋の一部のように見える。彼の存在そのものが、この無機質な空間に溶け込んでいるようだった。言葉では説明しきれないけれど、僕はあまりにも冷えた佇まいをしている彼が、冷徹なアンドロイドのように見える。
僕は上半身を起こしながら、形式的に応じる。
「おはようございます、霧島さん」
「ええ、おはようございます。よく眠れましたか?」
「まあ、それなりに」
互いに笑みを交わす。ほんのわずか、頬の筋肉を持ち上げるだけの、深い意味のない所作。それが日々を滑らかに進める潤滑油のようなものだと、僕は理解している。
霧島はいつものように、小さなトレイを手にしていた。朝の投薬と、検査用の器具が載っている。
「朝食の前に、血圧と脈を測らせていただきますね」
僕は黙って腕を差し出す。霧島は手早くカフを巻き、機械を作動させた。沈黙の中で数字が並ぶ。規定の範囲内だった。
「問題ありません。健康そのものです」
「それは良かったです」
また、表面だけのやりとり。けれど、この静かな繰り返しが、いかに僕の中の何かを削り取っていったか、霧島は知らないのだろうか。いや、知らないふりをしているだけだ。
「昨夜の騒ぎについてですが……」
霧島が言い淀むのは珍しいことだった。彼は、いつも言葉を正確に選び、過不足なく伝えるタイプだ。
「なにかあったんですか?」
「……検体番号AZ-07の篠原朔人が脱走しました」
静かに、けれど確実に空気が変わる。
「そうなんだ。彼は見つかったの?」
「まだです。ただ、対応班がすでに動いており、施設内の全区域でロックダウン体制に入りました」
「つまり、今後はこの部屋も……?」
僕の視線が、扉の取手に向かう。これまで、僕の部屋だけには鍵がかけられたことがなかった。
「いえ、葉山さんの部屋には、今後も施錠は行いません」
それは、僕にとって予想していた言葉だった。予想していた、というよりは、どこかでそうであってほしいと願っていた自分がいたのかもしれない。しかし、その理由を僕は問う。
「……どうして?」
霧島は、少しだけ視線を外した。けれど、すぐに戻ってくる。
「以前にも申し上げたかもしれませんが、葉山さんは特別な存在です。管理の対象というより、協力者として、私たちと共に在ってくださっている」
「でも、同じように『検体』として扱われてる人が脱走して、ロックダウンまでしているのに?」
「私はその方と葉山さんを同列には扱えません」
優しい声音、丁寧な口調。けれど、その言葉には不自然なほどの断絶があった。
僕の中で、わずかに疑念の芽が生まれる。どうして、僕は「特別」だとされるのだろう? その特別さは、果たして本当に僕にとっての利益なのか、それとも彼の「必要」だからこそのものなのか。あの日、霧島が僕の部屋に最初に足を踏み入れた日から、ずっとその問いは消えることがなかった。
だが、それを口にする勇気は持てない。
「その方と僕を同列に扱うわけにはいかない理由は、まだ教えてくれませんか?」
霧島は一瞬、少しだけ眉を動かしたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「その理由は、葉山さん自身が一番よく理解しているはずです」
彼の言葉には、どこか鋭い、含みが込められているように感じた。
「じゃあ、僕が逃げたらどうするの?」
その言葉に、霧島はほんの一瞬、眉を動かした。
「……そのときは、そのときですね」
静かに、笑った。
丁寧で、優しい顔をして。でも、その笑顔の奥に何かを隠している気がして、僕はその目をじっと見つめ返した。笑顔を浮かべたままで、彼は続けた。
「実際、葉山さんが逃げるようなことは、想像すらしていません。あなたは、私たちと共にここで過ごすことに、きっと意味があるのだと信じています」
その言葉が、どこか違和感を覚えさせた。信じている、と言われても、僕が自分に何か意味を見いだすことなど、なかったからだ。それでも、彼は何も疑わずにそう言い切る。まるで、僕がその場にいることが当たり前のように。
「僕に、何を求めているんですか」
「僕には、あなたたちの望むものを与えられないと思います」
「そうですね...。ここの研究者は、みんなそう思っていることでしょう」
霧島は、微笑んだ。
「けれど、私個人としては……そうとは思っていませんよ」
その言葉に、僕は息を呑んだ。それが何を意味するのか、すぐにはわからなかった。
けれど、その言葉だけが、心の奥に繰り返し――深く、響き続けた。
結局霧島は部屋を後にし、再び扉が静かに閉まった。
(霧島白玖と葉山環の名誉のために、葉山の性別は明記して)ないです。
ええそうです、仕様です。
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