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第2話 東京湾に浮かぶ某研究機関の一室にて

書きたかったやつ色々詰め込んだらジャンル迷子になったので初投稿です。

冷めた食事の匂いが、空腹ではない胃袋にゆっくりと重たく沈んでいく。


掲示板の画面を閉じてから、どれほど時間が経ったのかはわからないけれど、スクリーンに映っていた無数のスレッドの雑多な色彩が、まだ視界の端に残像のようにちらついている気がした。


誰かの冗談、誰かの自虐、誰かの告白、誰かの死。いずれも遠くて、現実のような非現実のような、灰色の記憶にしかならない。


僕にとってあれは、世界の形を確認する儀式みたいなものだ。ほとんど意味はない。


絵の具パレットのような皿からひと匙、冷え切った半固形物を口に運ぶ。湿った咀嚼音だけが、静まり返った検体控室に響いた。


ここは検体控室。被験者のために用意された、生活環境を最低限保証する個室。簡素なベッドと、スチール製の家具がいくつか。壁は消毒液の匂いを吸い込んだ白。窓はない。代わりにこちらからは向こうが見えない観察窓と、天井の隅に設置されたカメラ。


壁際には検査機材と簡素なベッド、僕の手元には真っ白い食器と保温が切れた配膳トレー。生活空間と呼ぶにはあまりに無機質で、牢屋と呼ぶにはあまりに開放的な空間。


なにしろ、この部屋には鍵がない。


それはここに来た初日から変わらないことだった。たしかにドアはあるし、金属製の重たいそれは一見すれば病院の隔離室となんら変わらない。けれど、施錠はされていない。自由に出入りできるという形式だけが、かろうじて僕の存在に"人権"を与えているのだと、当初は思っていた。


国家がもう機能していないというのに、誰がこの施設の倫理を担保しているというのだろうかと、どこか滑稽にさえ感じていた。


でも、出る理由がない。


部屋の外には、ゾンビがいる。この国でゾンビが存在しない場所なんて、もう無いだろう。


僕はゾンビに認識されないという奇妙な体質を持っているけれど、それが絶対の安全を保証するものじゃない。


いつか何かの拍子にこの均衡が破られたら、どうなるか。誰にもわからない。僕にも。


それに……ここを出た先に、行く場所なんてない。


研究員たちは最初の頃、僕の特異体質にずいぶんと興奮していた。脳波の反応、血液成分、感染耐性、あらゆる可能性が語られて、何度も何度も検査された。


けれど、結果は出なかった。僕がなぜゾンビに認識されないのか、どうして感染すらしないのか、何をしてもわからなかった。


時間だけが、過ぎた。


数ヶ月が過ぎ、彼らの僕への関心はようやく冷めたらしい。


今では僕の存在は「優先度の低い被験体」に格下げされ、まともに会話を交わす研究員さえ、ほとんどいない。


本来なら、僕はとうにこの施設を追い出され、首都・東京の物資回収チームに割り振られる予定だった。


ゾンビの密集地域に放り込まれ、瓦礫の中から薬品や保存食を引っ張り出す役。死ぬわけではないだろうけれど、生きている実感を失うには、十分な任務。


……それを止めたのが、霧島白玖さんだった。


彼は、僕の唯一の担当研究員。


名前を呼ばれることも、個人として見られることも少なくなった今、霧島さんだけが僕にまっすぐな視線を向けてくれる。無表情で、感情が読めない顔をしているくせに、言葉の端々からどこか優しさが滲む。彼が僕を“保護”しているという事実は、今の僕にとってこの空間に踏みとどまる最後の鎖だった。


もっとも、鎖といえば──


霧島さんの首には、いつも黒鉄色のチョーカーが巻かれている。


あれはただの装飾品じゃない。それくらいは僕にもわかる。研究員たちは彼にだけ何か特別なプロトコルを課しているようだったし、その内容を彼が黙して語らないことが、逆に強く印象に残っている。



◆◆◆◆◆



白衣の袖口に、乾いたインクの滲みがあった。いつからついていたのか思い出せないまま、霧島白玖は指先でそれを擦る仕草を繰り返していた。


指の腹に染み込んだその黒が、皮膚の奥にまで入り込んでしまったような錯覚に囚われる。


葉山環が与えられている「部屋」は、厳密には個室ではない。


正面の鉄扉を開けて最初に現れるのは、研究員・霧島白玖の執務室である。仄暗い照明と書類の山、薬品のにおい。無機質なその空間の奥に、葉山の寝起きする小さな簡易居室が接続されている。


あの子が自室から出ようとすれば、必ず霧島の視線を通り過ぎねばならない構造だ。


葉山環──

あの子の存在は、最初から異常だった。


ゾンビに認識されない。その特異性だけを見れば、誰もが喉から手が出るほどに欲しただろう。


実際、かつてこの研究所にも、他の研究員たちが群がった。あの子の肉片を、血液を、臓器の活動を、すべてを解析しようとした。


けれど、成果は出なかった。何をしても、あの子は"ただの人間"として反応し、データに異常は現れない。無為だった。


研究員たちは、やがて熱を冷ました。叶わぬものに時間を費やすほど、今の世界には余裕がない。多くの命が次の物資輸送に割かれる中、研究というものは、無価値であれば切り捨てられるだけの対象だった。


放逐される。

その未来が、あの子に迫っていた。


使い道がなければ、最前線へ。

都心部、東京湾沿岸。ゾンビがもっとも濃く、死体すら原型を保たない区域。そこへ回収班として送り出されること。それが、役立たずと判定された人間の行き着く先だ。


──そうなる前に、僕が手を挙げた。


形式上、僕があの子の専属研究員になった。だがそれは欺瞞だ。


本当は、僕の側が──あの子を研究したかった。


いや違う。


もっと原始的で、もっと惨めな欲望だった。


あの子を"知りたい"と願ったその瞬間から、僕は研究員でも人間でもなくなった。


僕は申し出た。検体控室に、鍵をかけないでほしいと。国の規範すら崩壊したこの世界で、人権配慮という名目の建前が通るとは僕自身も思っていなかった。


だから代償を払った。


僕の首には、黒鉄色のチョーカーがついている。


対外的には感染検知装置──けれど、それは真っ赤な嘘だ。


"あの子が検体控室と執務室を出て廊下に一歩でも踏み出せば、僕のチョーカーが爆発するように作った"。


それが、僕の願いだった。


あの子が扉を開けてしまった時。


誰にも止められず、あの子が外へ足を踏み出したその時。


僕は、死ぬ。


滑稽な仕組みだ。監視装置でもない。拘束装置ですらない。


ただ一つの、"あの子の自由"を守るために設置された装置で、僕の命が終わる。


あの子は、それを知らない。


知るはずがない。


知ってしまえば、あの子はその扉を開けられなくなるだろう。


だから隠している。ずっと隠している。


そして、ただ願っている。


願ってしまっている。


──どうか、扉を開けてくれ。


僕の最期だけでも、その眼に焼きつけたい。

 

この身の終わりだけでも、あの子の記憶の片隅に刻まれて、消えない呪縛になればいい。

 

それでやっと、僕は、あの子の中に存在できる。


"研究員として"ではなく、

"あの子の我儘の被害者"として。


そうして残ることだけが、僕の望みだった。


扉は今日も、開かない。


それでいいと思いながら、心のどこかで、開く音を待ってしまう。


僕の醜い罪は、たぶん、その向こうにある。








前半はニートさんこと葉山環視点、後半は研究員のお兄さんです。

説明不足ですみません。


ところで霧島研究員のしっとり執着具合には変質者判定が入るのだろうか?まさかね⋯



読んでくれてありがとうございます。感想を頂けると励みになります。


更新が亀なので、ブックマークで待機してくれると嬉しいです。

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