教育の義務と権利〜我々には勉強しない権利がある、のか?〜
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『第○回 小春の政治講座──教育という戦場』
小春はチョークをくるくる回しながら、教壇に仁王立ちしていた。
「皆さん、今日は“教育”について考えてみましょう!」
黒板に勢いよく文字が書かれる。
『教育を受ける権利』
『教育を受けさせる義務』
「えっ、受けるのは“権利”で、させるのは“義務”? なんだこの矛盾は!と、ツッコミたくなるところですが、落ち着いて聞いてくださいね」
教室の隅で魔王インディゴが手を挙げる。
「小春、それはつまり……親には“義務”が、子には“権利”があるということか?」
「正解です魔王様!さすが、この講座の皆勤賞!」
魔王が胸を張ると、なぜか後ろの席から拍手が起きた。
「日本国憲法第26条にはこう書かれています」
小春は黒板に書き足す。
すべて国民は、能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて保護者は、その子に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
「この“普通教育”というのが、いわゆる小中学校での義務教育です。しかも“無償”です。つまり、憲法でちゃんと保障された、すっごく大事な権利なのです!」
インディゴが少し考え込んだ顔になる。
「だが……義務なのに“受けさせるだけ”なのか? 子ども本人が『学校イヤ〜!』って言ったらどうなる?」
「これがけっこう難しい問題なんです。たとえば“行かない自由”というのは、法律上は基本的に認められていません。だから不登校は“違法”かというと……まあ現実には処罰されたりはしませんけどね」
小春はチョークをポキっと折ってから、続けた。
「ただし、保護者がまったく子に教育を受けさせる努力をしなかったら、それは義務教育違反で処罰されることもあります」
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◆実例:義務教育を怠ったらどうなる?
「たとえばこんな判例がありました!」
黒板に事例が書かれる。
大阪家庭裁判所 昭和50年判決
子どもを学校に通わせず、読み書きすらできない状態にした保護者に、保護処分が出された。
「つまり、親が“教育しない自由”を主張したってダメなんです。子どもの学ぶ権利は、親の思想や都合よりも優先されるってことですね」
インディゴが口を開く。
「だが、学校の内容が子どもに合わないこともある。教育を強制することが正しいのか?」
「おお、これは“個別最適化”とか“オルタナティブ教育”の問題に近いですね!」
小春はチョークで「個別最適化」と書きながら答える。
「大事なのは、“どうやって学ぶか”を調整することで、“学ぶこと自体”を放棄していい理由にはならないってことです。だからこそ、日本ではホームスクーリング(自宅教育)は原則認められていません」
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◆教育の自由 vs 教育の強制
「ここで、ちょっと哲学的な問いをしてみましょう!」
小春は黒板に勢いよく書く。
『教育は洗脳か? それとも解放か?』
「ぶっちゃけ、これって一歩間違うと“思想の強制”にもなり得ます。たとえば、ある国で“国家のために死ぬことが美しい”と教え続けたらどうなるでしょう?」
インディゴが眉をひそめる。
「……それは、まるで兵士を育てる工場のようだな」
「そうなんです。だから、教育の中立性がとても大事になります。日本では“教育基本法”という法律があって、政治的・宗教的に偏りすぎないように工夫されてます」
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◆教育は“権利の入口”である
「さて。なんで私がこの話を力説するかというと──」
小春はくるりと黒板を振り返り、こう書いた。
『教育は、すべての権利の“土台”である』
「教育を受けなければ、自分の権利にすら気づけません。投票もできない、契約も読めない、法律が不利でも気づけない。つまり、“無知こそ最大の不自由”なんです」
インディゴが静かにうなずく。
「無知は罪ではないが、時に罪に巻き込まれる……か」
「はい、深いです魔王様!教育は、国民が“自分の頭で考える”ための武器なんです。だからこれは“権利”であり、次の世代を育てるための“義務”でもあるわけですね」
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◆今日のまとめ
小春が黒板に一気に書き上げる。
・教育を受けるのは“権利”
・子に教育を受けさせるのは“保護者の義務”
・義務教育は“無償で強制”される、憲法レベルの大事な制度
・教育は国民の“思考力”を育て、すべての権利の土台になる
・だが、教育は時に“思想の押し付け”になる危険もあるため、常に中立性が求められる
「というわけで、今日の講義はここまで!」
インディゴが静かに手を挙げる。
「小春……次回の授業は?」
「うーん、ちょっとだけおふざけ多めで、“納税の義務”でもやってみますか?」
「……おふざけと言いつつ、また深いやつじゃろう……」
「ふふっ、覚悟しててくださいね、魔王様!」
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次回予告:『なぜ我々は税金を払わされるのか』──小春の納税講座、爆誕。
コミカルにしすぎたか?