生活保護と、勤労の義務
教室の空気は、今日も不思議な静けさに包まれていた。
黒板の前に立つ小春が、チョークを指に挟んでくるくると回している。
「さて。今日のテーマは──生活保護と、勤労の義務についてです」
「生活保護と……働く義務、か」
魔王インディゴが腕を組む。配下の幹部たちも、何やら深刻そうな顔つきだ。
「この国では、『働かざる者、食うべからず』という言葉が根強く残ってます。でも、それって本当に正しいと思いますか?」
「当然だろう。皆が怠け者になれば国は滅ぶ」
「もちろん、働けるのに働かないのは問題です。でも、病気だったり、障害があったり、どうしても働けない人がいる。それでも、“働いてないんだから食べるな”って言えるでしょうか?」
小春はチョークを置き、教壇に寄りかかった。
「実は、憲法には“勤労の義務”がある一方で、“健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”もあるんです。つまり──」
黒板に書かれる二つの言葉。
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【勤労の義務】
【生存権(憲法25条)】
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「義務と権利が、ぶつかってるように見えますよね。でもこれ、どっちも大事なんです」
「ふむ……では、実際にはどちらが優先されるのだ?」
「それをめぐって争われたのが、『朝日訴訟』という有名な裁判です」
インディゴが目を細める。
「裁判だと……?」
「はい。ある男性が、生活保護の金額が低すぎると国を訴えたんです。彼は病気で働けず、病院で生活していました。でも国は“健康で文化的”な基準を厳しく定めていて……本人は『これでは人間らしい暮らしができない』と主張しました」
「なるほど。どちらの言い分にも理があるな」
「結局、裁判では『生活保護の水準は行政の裁量である』として、男性の訴えは退けられました。でもこの訴訟は、生存権のあり方を大きく社会に問いかけたんです」
小春は黒板に大きく書いた。
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【健康で文化的】とは、誰がどう決める?
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「問題はここです。“健康で文化的”って、すごく曖昧なんです。ある人にとってはテレビが必要、別の人にとっては本かもしれない。でも行政は、“それは贅沢”って言い切ることもある」
「それが、“馬鹿が損をする制度”か」
魔王がぽつりと言う。
「そうなんです。制度って、わざとややこしく作られてる部分がある。賢い人は制度を理解して、ちゃんと申請して助けてもらえる。でも困っている人ほど、複雑な書類が読めなかったり、役所で跳ね返されたりする」
「ならば我が国では、制度を簡単にすべきだな。例えば“困ったら小春に相談”制度だ」
「お断りです。私は一人しかいません」
くすくすと笑いが起きた。
「でも、本当にその通りで。制度って、“知ってる人だけが得をする”ものじゃいけないんです。逆に、義務だけは全員に等しく課されている。働かないと白い目で見られ、生活保護を受けると後ろめたさを感じる」
「だが小春。そもそも“働けるのに働かない者”がいるのも事実だろう? それを放置していては、真面目に働く者が馬鹿を見るのではないか?」
「それもまた正しい指摘です」
小春はうなずいた。
「だからこそ制度には“資産調査”や“就労指導”があるんです。働ける人には働いてもらい、どうしても働けない人には支えの手を。どっちか一方に偏ると、制度は崩れます」
「つまり……」
「支える者も、支えられる者も、“人間としての尊厳”を持って共に暮らせる。それが、理想の社会です」
しばしの沈黙。
小春は黒板に新たな一言を書き足した。
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【制度とは、“人を試すもの”ではなく、“人を守るもの”であるべき】
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「とはいえ、現実には“貧困ビジネス”や“制度の悪用”もあるので、問題は簡単じゃないんですけどね。例えば、生活保護受給者のアパートを囲い込んで、福祉費から家賃をむしり取る業者とか……」
「悪辣な者どもだ。雷を落とそうか」
「いえ、法治国家なので控えてください。……でも、制度を守るには、国民一人ひとりの目と声が必要なんです。声といえば──」
小春は黒板に「次回予告」と書いた。
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【次回】言論の自由と“黙る自由”
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「次は、言論の自由について話します。私たちには“話す自由”と同時に、“黙る自由”もある。これもまた、“権利と義務”のテーマです」
「ほう、“黙る自由”か……気になるな」
「というわけで、今日のまとめ──」
小春が手を伸ばし、黒板に最後の言葉を書く。
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【支え合いは、恥ではない】
【人を助ける社会は、人を育てる】
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「はい、これで今日の講義は終わり! 質問があれば個別にどうぞ。ただし、“生活保護で温泉に行けますか”とか、“働きたくないでござる”系の質問は禁止です!」
「……では“生涯養ってくれる配偶者を探す方法”は?」
「それはもう講義じゃなくて婚活です」
教室には、今日も小さな笑い声が満ちていた。
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