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第一話:旅の始まり

 夜半の明春(ミンチュン)宮は、厳重に人払いが行われ、重い沈黙に包まれていた。

 日が出ている時間ならば太陽を映し、堂々とした佇まいを見せる朱塗りの柱も、今は息を潜めている。あらゆる隙間に黒い闇が忍び込み、静かにその領土を広げていくような、そんな夜である。

 贅を凝らした明春宮の最奥、いくつもの扉を抜けたその先に、三つの人影があった。

 一つは慈香(ツゥシャン)貴妃。この後宮において、最も華やかに着飾ることを許された女人のうちの一人である。

 彩りの良い上質な絹の衣に、上品に散りばめられた刺繍、高く結い上げられた髪に差された豪華な簪。最小限に抑えられた灯りの中でも、その衣裳の素晴らしさは十分に伝わってくる。

 しかし、慈香貴妃の美しい顔に血の気はなく、浮かぶ表情は強い恐怖と怯えだった。

 「(ユン)医、わたくしは……わたくしは、どうすれば良いのでしょう」

 か細い声が震える。まるで迷子になった童のような言葉に、

 「ううむ」

 と低い唸り声が答えた。この部屋にいる二人目の人物、雲医だ。

 老爺と呼べる年齢に差し掛かっているが、皺に埋もれた細い目に宿る光は未だ鋭い。

 傍らにあるのは、共に歳月を重ねてきた医療器具や、今宵のためにあちこちから調達してきた妙薬の数々。だが、それらに手をつけられた痕跡はない。運び込んだだけで、雲医は指一本、触れなかった。

 ──否。触れる必要が、ないのだ。

 慈香貴妃と雲医の間に、細身の人間が裸で立っていた。

 白磁の肌の上を、小さな蝋燭の灯りが艶めかしく滑る。

 刀の先で彫ったような目には、幼さを残しつつも怜悧な知性が浮かび、鼻梁は高く整っている。

 不服そうに結ばれた薄い唇は、ほんのりと優しく色づいていた。

 神の寵愛を一身に受けたかのような美貌は、ぴくりとも動かない。肉の少ない、柔らかな肢体で唯一動いているのは、心の臓を内に抱える胸板のみ。その乳房は膨らんでおらず、しかし、下半身に性器はない。排泄器官のみを有した下半身は、男の匂いも、女の匂いも宿していない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 「藍星(ランシン)……阿藍(アーラン)は、今夜で十五です……わたくしの、せいなのでしょうか……」

 慈香貴妃が囁く。自身の体を抱くように両腕を回し、怯える姿には、深い後悔と自責があった。

 ──この子の父親は、白龍(バイロン)皇国を統べる皇帝だ。最も偉大かつ尊い人物に、何の間違いもあってはならない。

 咎があるとするならば、妻である自分だった。

 「阿藍が生まれて、『龍人(ロンレン)』だとわかったときは、泣くほど嬉しかった……わたくしは、この子を産むためだけに、今まで生きてきたんだと思った……でも、なぜ、なぜこの子には性が現れないの……」

 十五を過ぎても性が定まらぬ『龍人』は、国に大きな災いをもたらす──。

 太古より伝わる伝説を、慈香貴妃は心の底から恐れていた。口元を覆う手のひらの隙間から、啜り泣きが響く。

 「そのようなことは。どうか悲観しすぎぬように、娘々(ニャンニャン)。手立てがないわけではございませぬ」

 重々しく雲医が励ますと、真っ先に反応したのは藍星だった。

 ひんやりと冷たかった瞳に、薄い熱が浮かぶ。頬に、赤みが差す。

 「雲医。手立てがあると言ったな」

 「はっ」

 静かに澄んだ声に呼ばれ、瘦せ細った老爺はうやうやしく頭を下げた。

 「伝え聞くところによりますと、八百年前、この国に誕生した『龍人』にも、長いこと性が宿らなかったそうでございます。ところが御年二十の夜、一人の人間と出会い、その体は男へと変化したそうな……」

 「人間と」

 「はい。その人間と愛し合い、性を得た『龍人』は賢帝になり、命が尽き果てるまで良き治世を執り行ったと聞いております」

 「どれほど生きた」

 「『龍人』は長く生きますが、この帝は二百年、生きたと」

 「……」

 藍星は黙り込んだ。同じく話を聞いていた慈香貴妃は、

 「では、今すぐふさわしい人間を呼び寄せて、」

 「誰でもいいというわけではないのだろう」

 母の言葉を遮ると、藍星は雲医を見据えた。その喋り方一つ取っても、既に堂々とした風格と威厳の片鱗が備わっている。

 今宵に至るまでに性を得ていれば、とっくに立太子されていたであろうに、と雲医は内心で息を吐いた。

 「私にとって唯一の、運命の人間でなければならない。そうだろう、雲医」

 「仰る通りでござります」

 「さらに言えば、その人間が男か女かもわからぬ。そやつと私が愛し合ったとして、この体がどちらの性を得るかもわからぬ。そうであろう」

 「仰る通りでござります」

 「わかった」

 「な……何がわかったというのです、阿藍!」

 慈香貴妃が叫ぶと、藍星はそっと微笑んだ。純白の花が、朝露を乗せて静かに綻んだような笑い方だ。

 「ご案じ召されるな、母上。……私は、旅に出ようと思います」

 「なっ……」

 「八百年前の『龍人』は、たまたま運命の人間に巡り合えた。しかし私がどうなるかはわかりませぬ。このまま何年も、(つがい)が来るのを待ち続けるなぞ、できるものでしょうか」

 「しかし、ああ、阿藍」

 「国中の人間を宮に集め、一人一人見て回るわけにもいかぬでしょう。ならば、私が旅に出た方が早い。……運命の人間が、国内にいる保証もないのですから」

 今度こそ、慈香貴妃は目を大きく見開いたまま絶句した。藍星が、彼女とよく似た形の唇を笑みの形に留めてあるのは、せめてもの気遣いと愛情の表れだった。

 「今宵、私の体が性を得たと皆に公表しましょう。女だとまた面倒なので、ひとまず男にしておくとよろしいかと。そして、良き賢帝になるため、長い遊学の旅に出たという話にしましょう。大家(ターチャ)はまだご健在であらせられます、早急に立太子の儀式を行う必要もない」

 静かに語りかけているようで、それは一方的な宣言だった。

随分と前から、考え抜いて、決めてあったのだろう。

 細い肩と年齢に不釣り合いな重責を、背負う覚悟を決めた目をしていた。

 「私が男になったならば、この国の民に長い安寧をもたらせる帝に。女ならば、同じく女帝か、あるいは他国へ嫁ぎ、双方へ十全な富をもたらせる皇后に」

 慈香貴妃も、雲医も、黙って藍星の言葉に耳を傾けた。口を挟んではならない、と本能で理解する。帝と向き合っているときと、ほとんど変わらぬ緊張があった。

 目の前にいるのは、龍人だ。

 いずれは帝の後を継ぎ、国の繁栄のため、心身を捧げる龍である。

 「今この瞬間から、我が身は白龍皇国にとって災厄の前兆。いつ嵐を呼び込むか、わかったものではない。……そのときは」

 ふっ、と藍星が言葉を区切る。周囲の蝋燭が呼応するように激しく燃える。

細い手が上がり、丸く整えられた爪の先が、とん、と己の首筋を軽く突いた。

 「──自らの命をもって、償おう」



 ♢



 ──それから、一月後。



 「藍星(ランシン)様」

 浩然(ハオゼン)は、静かに主の名前を呼んだ。声量こそ控えめだが、浩然の声はよく通る。低く、落ち着いた声が、真夜中の森を滑るように通った。

 「これらは……どうされるのですか」

 迷った末に、曖昧な言い方になった。長々と喋るのは苦手であるし、言葉選びも決して上手い方ではない。名前よりも、朴念仁と呼ばれる回数が多いほどだ。

 だが、浩然が途方に暮れるのも、理由があった。

 目の前には、馬が五頭。大きな荷馬車が二つ。荷物はこんもりと積み上がており、さあこれから長旅が始まるぞといった風情である。

 しかし、この場には二人の人間しかいなかった。浩然と──

 「つまらぬ質問をするな。持っていくに決まっている」

 藍星だ。

 つい数刻前まで何重にも身に着けていた、繊細かつ豪奢な服を脱ぎ捨てて、質素な衣に替えていた。長髪を雑に束ね、手際よく頬に泥を擦りつけている。ああ、この場を慈香(ツゥシャン)貴妃に見られたら自分の首は飛ぶのだろうな、と浩然は少しだけ泣きたくなった。

 「持っていくのですか」

 「うん。設定も考えてある。まずお前が商人で、私は出来損ないの付き人だ。お前が目を離した隙に、有り金をすべてはたいて、余計な物ばかり買いこんでしまったのだ」

 「……」

 「だからお前は、私にたっぷりと折檻をした後、これらをどうにかして売りさばいてこいと──」

 「藍星様」

 「冗談だ」

 まったく笑えなかった。文武両道かつ博識多才な主人は、たまに冗談の加減を見誤る。相手が浩然というのも、まあ、悪かった。

 「本当のことを言うとな、これらはすべて、()()()()()()()

 「……情報と」

 「ああ。長旅において、金銭や食糧はもちろん重要だが、それらと同様に、情報も価値がある。特にこの旅路では最も重要視すべきだ。我が夫、もしくは妻となる人間がどこにいるのか、何の手掛かりも掴めていないのだから」

 「……恐れながら申し上げます。そうお考えでしたなら──共に連れてきた護衛二十人を、なぜ、解雇されたのですか」

 数刻前。

 藍星は、路銀の三分の二を護衛全員に分け与えて、絶対に自分の後を付けてくるなと厳命したのだ。実質上の解雇である。馬も荷物も、ほとんど持ち帰れと命じ、朝廷には素直にこの事を話して良いと伝えた。

 当然、護衛二十人は猛反対した。

 何日も掛けて選ばれた、優秀かつ忠誠心の高い若者達だ。自分に足りぬところがあったなら直す、非があったなら何度でも詫びる、だから旅に同行させてくれと懇願した。

 しかし藍星は聞き入れなかった。半ば無理やり金を握らせ、全員を帰らせた。

 ここにいる浩然を除いて。

 浩然は、幼少の頃より藍星の側仕えをしていた。護衛兼見張りの役目もあった。そのため、主は従僕によく懐いた。お前が兄なら良かったのに、と、何遍も繰り返し言われたものだ。

 自分はこの旅路を共にする人間である。浩然には、確固たる自負と責任があった。

 だからこそ、主の守りを固めたいのは当然の考えだ。

 「情報を集めるならば、人手が多い方が有利でしょう。皆、そう遠くまでは行っていないはずです。呼び戻しますか」

 「たわけ」

 藍星が、呆れた顔で浩然の背を叩いた。

 「浩然、冷静に考えてみよ。がちがちに武装した男ども二十人が行進して、道行く人々に聞き込みをしたとする。怪談だろう、それは」

 「確かに」

 「何より、目立つ。白龍(バイロン)皇国の姫皇子(ひめおうじ)ここにありと、声高に叫んで回っているも同然だ」

 白龍の、姫皇子。藍星についた渾名だ。

 いつまで経っても性が定まらない藍星を揶揄し、一部の心ない者達がふざけて付けた。しかしまあ、それが不思議と、すとんと似合ってしまった。

 中性的な美貌に、どちらかというと男に寄った喋り方。柳のように細い体。今では朝廷の人間ほぼ全員が、敬意と親しみを込めて姫皇子と呼ぶ。藍星本人の耳に入り、気に入ってしまったことも大きいだろう。

 「それに、あの二十人の中に間諜が紛れ込んでいる可能性もあった。厳密な審査を通過したとはいえ、私は完全に信じられぬ」

 ぶるるっ、と馬が鳴いた。藍星は馬の頬を撫でてやり、「そろそろ発つか」と呟く。

 「今はできるだけ距離を取ろう。道中、(バイ)商連(しょうれん)の支部に寄る」

 浩然は頷いた。白龍商業連合組合、通称白商連。国中の著名な商人が多く所属する、巨大組織である。国内の物流をほぼすべて掌握しているため、必然的に情報網も発達していた。

 「それまでに、できる限り身軽になっておきたいところだ。交換できそうなものは、じゃんじゃん渡していこう。馬は一頭いれば十分だ」

 「一頭?」

 「お前が乗るんだ。私は手綱を引いて、小姓の振りをする」

 「……」

 まだ続いていたのかその冗談は。

 返答に窮する浩然を面白そうに見上げて、「本当に表情が変わらぬな。つまらない男だ」と藍星は感心している。褒めているのか、けなしているのか。いや論点はそこではないのだが。

 ともかく、と。

 浩然がやるせなさを飲み込むために目をつぶった、ほんの──ほんの、一瞬の出来事だった。

 空気の匂いが、密度が、変わった。

 切り裂くように鋭い音が、すぐそばを駆け抜けてゆく。

 「ッ──藍星様!」

 知っている。この音は、嫌というほど耳にしてきた。

 ()()()()

 浩然の四肢は正常だった。何の痛みもない。……ならば!

 崩れ落ちる藍星の体を、抱きかかえるようにして支えた。浩然の手にべったりと鮮血が付着する。

 なんて──ことだ。

 浩然の視界が、赤く、黒く、明滅する。腹の底から、怒りと殺意が湧き上がってきた。間違いなく、あの二十人の内の誰か、または情報を入手した人間だ。

 誰が命じたのか、手に取るようにわかる。

 藍星を快く思わない者──他の皇子達だ。

 「叫ぶな。かがめ」

 藍星は声一つ上げず、淡々と指示を出した。腰の鞘から剣を抜き、浩然は藍星の体を草むらに横たえた。

 ……脇腹に深く刺さっている。運良く内臓は無事なようだ。だが、抜かない方が良いだろう。自分の衣服を裂いて包帯代わりとし、傷の止血を始めると、

 「あまり動かすな。毒矢だ」

 「……!」

 「相手の人数は不明だが、矢は西から飛んできた。殺すなよ。解毒剤を奪って、誰に命じられたか──」

 浩然は最後まで聞かずに飛び出した。

 ヒュン、と後ろから矢の追撃が飛んでくる。南、南西に一人ずつ。藍星が言った人間を足せば、最低でも三人。

 背を低くかがめて、木々の隙間に身を滑らせて、浩然は野性の獣のように真夜中の森を走った。

 相手が誰であろうが──殺す。

 本当に表情が変わらぬと主に茶化された浩然の顏は、今、どす黒い殺意で染まっていた。



 ♢



 月がくっきりと綺麗な夜だった。

 清らかで透き通った湖の中に、少女──春燕(チュンヤン)はゆっくりと体を沈める。自分以外には誰もいない。周囲は森で囲まれているので、この絶景を好きなだけ堪能できるが、春燕にとっては見慣れた光景だった。

 顎が水面に付くぐらいまで浸かると、さすがに寒くてぶるりと震えた。

 「皇都では、寒中水泳ってやつが流行った時期もあったそうだけど……本当なのかな」

 十一月も半ば頃である。鹿や魚には脂が乗り、瑞々しい果物が多く実る素晴らしい季節だが、この習慣を思うと少し憂鬱になる。冬は言わずもがなだ。

 夜空に浮かぶ月を映した水面。ここへ定期的に訪れるために、一族は龍骨(ロングゥ)山脈の山奥に家を構えたらしい。夏は喜んで浸かりに来るが、冬は地獄だ。幼い春燕が泣いて嫌がるのを、母様は見事な手際でなだめて連れてきてくれた。

 春燕が水中で伸びをしたり、軽く泳いでいたりするうちに、体が少しずつ軽くなるのがわかる。

 ()()()()()()()()()()()()

 ああ、これでまた悪夢を見ずに済む、と春燕は安堵の息を吐く。月を映した水に体を浸し、呪いを定期的に抜いてやらないと、頻繁に悪夢にうなされるのだ。

 この前なんて、ひどい夢を見た。血まみれの男達が、春燕の目の前で死にかけていく夢だ。今まで見た中でもひときわタチが悪く、これは危ないと志明(ヂーミン)に相談し、今夜の家事を半分ほど免除してもらったのだ。

 「志明には悪いことしちゃったなあ……掃除も力仕事もお手の物なのに、料理だけはからっきしなんだから」

 義兄(あに)の渋面を想像し、春燕はひそかに笑った。志明は基本的に器用で何でもこなすので、料理で大失敗をしても、食べられないというほどではない。六十五点ぐらいだ。だが、春燕が知る限り一番の完璧主義者なので、それはもう悲しそうな顔をして自分の手料理を食べるのである。

 その様子がおかしくてたまらないし、大好きだった。

 「今日こそ美味しい茸鍋を作るって宣言してたけど、どうなるかな」

 呟きながら、両腕をゆったりと動かす。もう随分と、体から呪いが溶け出していったのがわかる。当分はここに来なくても良いだろう。

 ざばっと水から上がり、岸の方向へ振り返ると──


 そこには、血まみれの人間が二人、倒れていた。


 「ぎゃあああっ!」

 春燕は腹の底から声を出した。

 「ど、どどどどどうしちゃったの! ちょっと!」

 自分のあられもない恰好──薄い衣一枚で、水に濡れている──のことは、衝撃のあまりスカンと頭から抜けていた。水をかき分けるようにして二人へ走り寄り、

 「死ぬんじゃないの! 起きなさい!」

 とバシバシ顏を叩く。一族に代々受け継がれてきて、そして何より、母様との思い出の湖だ。血で染めていいものではないし、死の穢れを絶対に入れたくない。

 素性のわからぬ人間の生死よりも、湖の状態を真っ先に心配するあたり、志明が聞いたら「そういうところだぞ」と説教を食らいそうだが、今の春燕は本気だった。

 死ぬなら、違うところで死んでほしい。

 いや、もうすでに死んでいるのか? だとしたら、どうにかして女の細腕で遺体を遠くへ運び、供養してやらねば──

 「……っ」

 「あ! あなたは息がある!」

 大柄な方が、咳き込むように大きく呼吸した。痰と血が混ざったものが、口の端からこぼれる。春燕が慌てて背をさすってやると、相手はほとんど春燕に覆いかぶさるようにして縋りついてきた。

 「ぎゃーっ! 変態! 馬鹿者! 少女偏愛(ロリコン)野郎~っ!」

 「ら……らん……」

 逆上する野良猫のように春燕が暴れると、相手──よく見るとかなり上背のある男だった──は春燕の腕を掴んだ。ぎゅうっと力強く握られ、「い、痛い! 痛いってば!」と身をよじる。

 「藍星様を……どうか……」

 真っ青な顔で、男はそれだけ告げると、今度こそばったりと地面に倒れ伏したのだった。

 慌てて体を揺すったが、もうぴくりとも動かない。意識を手放してしまったのだろう、呼吸も少しずつ細くなってゆく。その男に守られるように倒れているもう一人の人間は、生きているかどうか怪しい。

 泥と血を衣に付けたまま、どうしよう、と春燕は放心する。

 十六年間、この山奥で生きてきて、初めての出来事だった。

 三人の頭上では、大きく光り輝く月が、静かに彼らを照らし続けていた。

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