ハウザーの元婚約者 2
「ところで、リリアン様は――――」
「様付けなんてやめてくれ。リリィが良いな」
「ビビアンのことも様付けだぞ」
「あれは貴族社会で生き残らなければならないからな。どこで誰が耳を澄ませているかわからないから様付けで良いんだ」
リリアンは社交デビューを最後にほとんど公の場には出ていないらしい。何よりも婚約したんだからもう良いだろうと好きに動いていたそうだ。ハウザーもだが。
ユフィーラとしては本人が望む呼び方でと思う。ビビアンに関してはリカルドの妻であり社交界を牛耳る為に舐められたらおしまいだということを言っていたが、リリアンは関わりが殆ど無いとはいえ公爵家の令嬢である。愛称で呼んでしまって良いものかどうかの判断が難しい。
ユフィーラはハウザーに視線を向けた。
「なんだ?」
「先生としては、どちらが良いと思われますか?」
「ハウザーを基準にすると思わぬ事態になるかもしれないぞ?」
ハウザーに委ねるユフィーラに対してリリアンが不思議そうに首を傾げるのを、ユフィーラはゆっくりと首を横に振った。
「私がここの国に来た当初は本当に世間知らずもいいとこの無知な人間でした。ですが今こうして色々な方と関わっても特に何事もなく過ごせていられるのは先生が常識を教えてくれたからなのです」
ユフィーラの言葉にリリアンは目を丸くして、ハウザーは片眉を上げる。
「当時の私は十六歳ながらも教えられたことを、そのまま覚えてしまうくらい本当に善悪の基準もしっかり定まっていませんでした。それを先生がお金の使い方から生活における魔力や魔術の応用、人との関わり方など全てご教授いただいたからこそ、今の私が在ります」
「多少は教えたが、元々のお前の素質がここまでの自分を作ったんだぞ」
ハウザーはそう言ってくれるが、この国で初めて関わった人物が彼でなかったとしたら、ユフィーラは今どのような生活を送っていたのだろうと考えるとちょっと身震いしてしまうくらいだ。間違いなく今以上の幸せに繋がっていなかっただろう。
「個性があったとしても常識非常識の境界線がゆるゆるだった私に『普通』を教えてくれたのは先生ですよ?今ではどこに出しても恥ずかしくない娘に育ったのではないかと自負できます!」
「勝手気儘にすくすく育っていたな」
「心温まる栄養と優しい心遣いの肥料で心もすくすくです!ですが背が伸びる栄養だけは与えてくれませんでした…寧ろ縮む方に…!」
「俺のせいにするな。元々それ以上は無理だった」
「わからないではないですか!まだ僅かでも伸び代はあったはずで間違いないかもしれないような気がしないでもないような希望が少しでも―――」
「言葉の羅列が段々消極的になってる時点でわかっているんだろうが」
「ははは!」
ユフィーラとハウザーの色々な意味での成長話が過熱し始めた時、リリアンの楽しそうな笑い声が遮った。
「凄いな、ハウザー。人間じゃないか!」
「元からだが」
「あの。その言葉を良く皆さんから聞くのですが、そんなに先生は人間味が薄かったのでしょうか」
「そこで何故人の顔でなく頭を見る。ちゃんとあるだろうが」
「あら。つい…」
「あはは!もう止めてくれ、お腹が捩れる…!」
リリアンがお腹を抱えながら前のめりになっている。正直公爵令嬢としてはどうなのだろうと思ってしまうのだが、何故かその姿すら絵になるのだから美人は得である。
そしてユフィーラは決してハウザーの頭髪を気にしたわけではない。薄いと言った言葉につい頭髪のことが何となく連想されて、ついつい顔よりも視線が上にいってしまっただけなのである。
体を前後に揺らしながら椅子で蹲るように笑い耐えていたリリアンが、落ち着き始めたのかようやく体を起こした。
「あー…これだけお腹の底から笑ったのは何時以来だろうか。下手したら幼少期以降かもしれないな」
ふうっと息を整えながら嬉しそうに微笑むリリアンは、令嬢のように清楚に微笑むというよりも、朗らかに笑う方が似合うような気がする。男性寄りの言葉遣いもリリアンの令嬢としては短めの髪や服装から、まるで男装の麗人の如くあまりに調和していて、その辺の男性陣よりも女性から人気が出そうである。
「ハウザーがここまで誰かに対して親身になっていることがとても嬉しいよ。貴女が彼の心を動かしてくれたんだね」
その言葉にユフィーラはいえいえと首を振る。
「私こそ先生と出逢って数年共に過ごしたから今が在るのです。なので、ちょっと迷った時に先生に尋ねるのはもう癖のようなものなのです」
「なるほど、そういうことか」
「はい。先生、話は戻りますがリリアン様の呼び方は様付けでなくても構わないのでしょうか」
「問題ないんじゃないか。こいつは社交界にも出なければ殆ど公爵家に居座ることもしない。暫く滞在するなら適当に部屋でも借りるんだろうよ。魔術もその辺の魔術師より達者だしな。本人が呼んで欲しいと望んで、それに対して文句を言う奴の方がリリアンの制裁をくらうだろ」
制裁なんてそれは流石に言い過ぎではとユフィーラは思ったが、リリアンはうんうんと頷く。
「だな。私に攻撃できるのはそれなりに使える魔術師くらいだ。それに異国で舐められない為に魔術だけでなく体術もしっかり身に付けているからな」
制裁という言葉はあながち間違いではないのかもしれない。
アビー然り、パミラ然り、ユフィーラの周りには強いお姉様方がいて頼もしい限りである。
診療所に入った時にすぐにハウザーの透視魔術を見抜いたのも、日頃からのリリアンの努力が成し得たものなのだろう。
「公爵家には引き留められそうだが、家に居るのは嫌だな。ハウザー、上の部屋は空いているか?」
「いや。今ギルの弟子が入っている」
「え。珍しいな。自分の領域に人を入れるなんて」
「こいつも居たぞ」
「それは分かる。お前が受け入れているからな。その弟子と言うのもそうなのか?」
リリアンはハウザーが思った以上に人と関わっていることに驚いているようだ。
「最近色々あって、こいつの屋敷にいる元魔術師の双子の片割れがいる。ギルと同じく使えそうだからな」
「先生とギルさんと弟子…イーゾさんと言うのですが、とても仲が良いのです。ハウザー一家です!」
「何でだよ」
「ユフィちゃんにもギルって呼ばせているのか、あいつが…」
「おまけのようなものですね」
「こいつはそう思っているがな」
「ハウザー…人間らしくなって…」
「何でだよ」
リリアンはハウザーが人間への道を着々と昇っていることを、まるで母親のように感動しているようだ。
「ではリリィさんと呼んで差し支えなければそれでお願いします。それと私の敬語は誰に対してもなのでご了承くださいませ」
「ああ。そう呼んでくれ。私はなんて呼ばせてもらおうかな」
「フィーだけはテオ様限定なので、それ以外ならば何でも」
「おっと、危ない危ない。候補の一つに入っていた」
少しおどけたように驚く仕草をするリリアンが、顎に手を添えて少し悩んだ後に一つ頷いてユフィーラに向き直る。
「ユフィちゃん」
「「普通」」
「ははは!」
ユフィーラとハウザーが綺麗に言葉が重なり、リリアンが笑い出す。
「いや、本当に候補のフィーでと思っていたんだ。でも流石にテオルドを敵に回したくはないからな。ユフィちゃんで良いか?」
「はい。リリィさん」
「うんうん。可愛いねぇ」
にっこり微笑みながらリリアンがゆっくりと手を伸ばして、ユフィーラの頭を撫でてくれる。
「…何だろうな。ユフィちゃんが嫁さんだということはわかっているんだけど、無性にこうやって撫でて愛でたくなるんだ。これは癖になるな。ハウザーの気持ちがわかった気がするよ」
「俺は徐々に力加減を強めていきたくなるな」
「それを必死になって抗う私を見ている先生は確かに愉しそうですねぇ」
ハウザーにとっての何某かの癒しでも楽しみでもなっているならユフィーラとしては本望ではあるが、力加減は下にではなく是非違う方向に向けていただきたい気持ちは大いにある。
ユフィーラは頭を撫でてくれている女性の中でも恐らく背が高い方であろうリリアンを見上げる。
「…何だろうな、この可愛い生き物は。テオルドが羨ましいを通り越して妬ましくなってきた」
リリアンが今度はゆっくりとした動作でユフィーラをきゅっと優しく抱擁してくれた。ふわりと先程も漂った良い香りと女性特有の柔らかい感覚にユフィーラはふと脳裏に思う。
アビーやパミラの時もそうだが、母親に抱き締められたことがないユフィーラは、年上の女性にぎゅっと抱き締められることに、どこか焦がれる想いが根底にあるようだ。
それはずっと幼い頃から封印してきたもので、自分には無いものだからと諦めて心の奥底に仕舞い込んでいたものである。
だが、今はお姉さんとしてのアビーやパミラが時折こうやってぎゅっとしてくれる時、テオルドとの胸の高鳴りとは別の温かいゆっくりとお湯に浸かるような満たされる思いを感じるのだ。
「…私は母親との抱擁というもの…母親そのものを知らないので、初めて屋敷の使用人の女性陣の二人にしてもらった時に、とても感慨深かった思いがありました。温かく丸ごと包まれるという感覚は女性特有なのかもしれません。それにリリィさんはとても良い香りがして落ち着きますね」
そう言うと、少しだけ力が込められた。「…そうか」と言って、リリアンは優しくぽんぽんと背中を叩かれながら擦ってもくれる。
「ああー…持って帰りたい」
「止めろ。国を揺るがす気か」
「冗談だけど冗談にしたくはない気もするな。良かったなぁ、ハウザー。私達は互いに恋愛感情は無かったが、やはり気は合ったんだな」
ふとリリアンがそんなことを言うので、ハウザーが微かに首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「気になるもの、とでもいうのかな。常に側や近くに在りたいものが一緒だ。この子然り医療然り…決めた。私はユフィちゃんの専属医師になる」
突如リリアンからの発言に良い香りを堪能してまったりしていたユフィーラはぱちぱちと瞬きする。
「専属医師、ですか?」
「ああ。専属に診てもらっている医師はいるか?」
「いえ。体だけは丈夫なので。風邪も滅多にひかないのです」
ここで不治の病の話は控えておく。必要ならハウザーが何時か話してくれるだろう。
「それなら都合が良い。定期的に調子や体調を私が診る。今後はユフィちゃんももしかしたら子供ができるかもしれないからな」
その言葉にユフィーラはこてんと首を傾げる。
「子供…」
「ああ。テオルドと婚姻しているんだから、いつ何時そういうことになってもおかしくないからね」
その言葉に、ユフィーラは今更ながら婚姻して、その後の未来に起こり得ることを気付かされることになった。
「まあ…何だか自分ごとばかりでそこまでの考えに至ってもいませんでした…」
「今は存分に自分ごとを満喫して、これから徐々に考えていけばいい。私はハウザーと一緒で医師なんだが、この国も医療やそれに関連する魔術が発達してはいるが、異国の医療はまた違った観点から捉えたりするものもあって中々に興味深いんだ。それらを取り入れてこの国の医療関係に少しでも貢献できればと思っている」
リリアンとしては公爵家への贖罪も入っているそうだが、ついで扱いなのだとか。それでも彼女が結果国への為に動いていることには変わりない。自分の興味深いものが、後に国への発展となるならばそれはとても素敵なことである。
「リリィさんが私の体調の管理を診てくれるのですか?」
「ああ。定期的に診て何もないのが一番だが、そうでない時は早い段階で気づけて早急に対応もできる。テオルドもユフィちゃんの体の為なら反対はしないだろう」
「まあ。それはとても有り難く嬉しいことなのですが…果たして専属料が支払えるかどうか…」
「ん?そんなものがあるのか?」
「え?無いのですか?」
お互いがこてんと首を傾げる中、ハウザーが呆れたように溜息を吐いた。
「どこぞの王族でもあるまいし、リリアン自らが言い出したことなら要らんだろ」
「でも、それでは申し訳ないような…」
「私がしたくてするんだから、そんなもの要らないな。それに請求するなら旦那のテオルドだな」
「あいつは掃いて捨てるほど稼いでいるから問題ないな」
そう言いながら殊更優しく頭を撫でてくれるリリアンに、ユフィーラは何だか申し訳ないという気持ちも無くはないが、それ以上に面映ゆい心地になる。
(アビーさんやパミラさんとはまた違った包容力のあるリリアンさん…)
アリアナもモニカも違った意味でまた強い。
ユフィーラの周りにはとても美しく綺麗で強いお姉様方が沢山いて本当に幸せだなぁと改めて実感した。
不定期更新です。




