厩舎にて
翌朝、日が昇る少し前の時間に目が覚めた。未だに男爵時代の名残の癖は体に残っている。二度寝をしたことがないユフィーラは洗面台に行き、顔を洗う。アビーからユフィーラの体型も分からなかった為、何着か揃えたいと申し出てもらったのだが断っている。テオルドはユフィーラを迎えるにあたり、口頭で伝えただけで、他は適当に用意しておけと言っていたらしい。
テオルドは元孤児で爵位があるとはいえ、そのあたりの貴族の常識を知らないのだそうだ。それはユフィーラにも言えることだし、大事なお願いはきいてもらっている。それに今では人並みに稼ぎはあるので、貴族が着るような高価なものでなければ服くらいは自分で買えるのだ。
日が昇り始めた外を見ると晴天でいい天気だ。早速庭に薬草の種と苗を植えたい。残った時間は薬作りにあてようと、動きやすい服装に着替え、ポケットには有事用の薬を忍ばせ、部屋を出た。
まだ朝早い時間帯なので、食事前に外でも出てみようと玄関の扉を明けた。門より少し離れた場所にある、屋敷の大きさからしたらかなり大きい厩舎に足を向ける。中を覗くと、馬房にそれぞれ馬が計八頭居て、昨日見た青鹿毛の馬も居る。
(良かった。屋敷には戻っていたのね)
そう思っていると、青鹿毛がこちら振り向く。その澄んだ黒い目にテオルドの瞳と重なった。
「あなたの目は綺麗ね、とても澄んでいて美しいわ」
青鹿毛の馬はずっとこちらを見ながら顔を前にだして、まるでこっちに来いと誘っているようだ。勝手に入って良いものか…一瞬だけ悩んだが、欲に贖えず、ゆっくりと進んで青鹿毛の馬の前まで歩く。
「昨日あなたを見かけたけど、挨拶もできなかったわね。私はユフィーラ。これからよろしくね」
目を合わせて声をかける。馬は相変わらずユフィーラを見つめたままだ。
(ああ、そうだ。煌めくような澄んだ目が、旦那様に似ているんだわ)
テオルドより優しげで長い睫毛とそのつぶらな目にユフィーラはほうっと魅入られる。すると馬が顔を更に前に出して鼻先でふんふんしながらユフィーラの手の前で止まる。撫でろと言われているようで、思わず鼻の上をそっと触る。硬く短いが綺麗な毛並みをさりさりと撫でると、押し付けてきたので、両手でさりさりと撫でてやる。
「ふふ。可愛い。馬は初めて触ったわ。逞しい毛並みと凛々しいお顔がとても素敵ね。男の子かしら?後でダンさんに聞いてみよう」
馬は今度はこっちだとでもいうようにユフィーラの手に顔を移動させてくるので、その場所を丁寧に撫で続ける。首まで辿って撫でていると、ユフィーラの頭を甘噛みしてきた。
「あ、ちょっと。私の髪は干し草ではないのよ、毟らないでね。ふふふ、擽ったい」
鼻息が耳にかかり避けても馬はしつこく追ってきて甘噛みを続ける。そちらに気がいくとちゃんと撫でろとでもいうように手を鼻で突いてくるのがまた可愛らしい。夢中で戯れていると、後ろから物音がした。
「ユフィーラさん?珍しいな、レノンが人に触らせるなんて」
馬房の掃除用具を持ちながら入ってきたのは、ダンだった。
「おはようございます、ダンさん。ごめんなさい、この仔がとても可愛くて欲に負けて中に入ってしまいました」
呼んでいるような気がしたなんて妄想は言えないので、我欲のまま正直に答える。
「ああ、おはよう。別に構わないよ。騒いで馬が落ち着かなくなるのは困るけど、こいつら静かにしているからユフィーラさんが居ても問題ないんでしょ」
そう言いながらてきぱき馬房内を掃除していく。ジェスは故意に呼ばないだろうが、昨日、顔を合わせた時に奥様や奥方でなく名前で呼んでほしいと皆にお願いしていた。
「皆と違って小さいから無害だと思ってくれたのかしら。ふふ、当たりよレノン。賢いのね。ダンさん、レノンは男の仔ですか?」
ユフィーラは小柄である。幼少期の栄養不足もあるかもしれないが、ハウザーにも近所の皆にも良く小さいと言われていた。貧相だった容姿はこれでもだいぶ健康的にはなったのだが、背も高くないし、白粉を使っただけでハウザーに気づかれてしまうくらい化粧も殆どせず幼めの顔が拍車をかけているのもある。
対しアビーは女性にしては背が高く、美人に併せてスレンダーな体型でユフィーラと正反対の見た目は羨ましいを通り越して神化してしまうくらいの美貌だ。ユフィーラも化粧をしたら少しは変われるのだろうか。
パミラは少しふっくら体型で、灰色の髪で優しげな容姿と焦げ茶色の垂れ目がパミラの穏やかでおおらかな魅力を最大限に引き上げている。
「そうだよ。他の仔は比較的穏やかなんだが、レノンだけは気難しい。主に似たのかもな」
「まあ。気質も飼い主に似るものなのかしら。でも用心深いのは悪くないわ。クールなあなたも素敵。その調子で旦那様を助けてあげてね」
そう言いながら撫でてあげる。レノンは鼻を鳴らしながら顔を押し付けてくるのが、堪らない。
「懐いたなぁ。餌あげてみる?」
「え、いいのですか?」
「ああ。普段は俺と主以外からは食べないけど、ユフィーラさんなら食べるかも。餌には干し草とくず果物を混ぜて与えているんだ」
そう言って、掃除を終えたダンは籠に入った果物の欠片を持ってきた。
「幾つか手ずから与えてごらん。飽きたら手前にある餌専用の入れ物に入れてくれ」
「挑戦してみます!」
ダンからレノン用の籠を受け取り、そこからりんごの欠片を取り出す。
「レノン、食事よ。私の手から食べてくれるかしら」
そう言って鼻先に近づけると少し匂いを嗅いだ後に躊躇せずに加えしゃくしゃくと小気味いい咀嚼音が聞こえた。
「ダンさん!食べたてくれました」
「ああ、そのままあげ続けてあげて」
それから幾つか手からあげていたが、干し草がぽろぽろと下に落ちてしまうので、残りは専用の入れ物に移してあげる。
「レノン、食欲旺盛ね。良い子。沢山食べてね」
ダンは他の馬の餌を準備している最中だ。
「ダンさん、お仕事の邪魔にならないのなら、他の子にもあげていいでしょうか?」
「構わないよ。他はそんなに気性が荒いのはいないから。じゃあレノンの隣に居るルーシアにあげてくれ。ジェスの愛馬だ」
そう言ってまた同じサイズの籠を渡された。隣を見ると、こちらに首を向けて見ている薄い栗毛の馬が居た。
「あなたがルーシアね。お待たせ、食事よ」
声をかけながら籠を持って移動する。手にとってあげようとすると、待ちきれなかったのか籠に顔を突っ込んで食べ始めた。
「あらあら、待ちくたびれてしまったのかしら」
専用の入れ物に入れようとすると、邪魔をするなというように少量の干し草を鼻に引っ掛けてユフィーラに向かって飛ばしてきたのでユフィーラの頭は干し草だらけになってしまった。
「おい、ルーシア!」
ダンが少し焦ったような声を出す。ユフィーラは突然のことに呆然として目をぱちぱち瞬きした後に、こみ上げてきた。
「ぷ…あはは!ルーシア、あなたも私には手厳しいの?それとも余所者への洗礼?一筋縄いかない女性はもてる要素の一つね。飼い主と同様、存分に見極めてちょうだいね」
怒ることもなく怯えるでもなく、朗らかに笑いながらルーシアを苛立たせないようにルーシアの正面から横に移動して籠から入れ物に餌を移し替える様をダンは唖然として見ていた。
頭に舞った干し草を払い、飛び散った干し草を拾っていると後ろから突かれる。
「まあ、レノン。もう食べ終わったの?良い食べっぷりね。これはルーシアの分なのよ」
そう言いながら拾った干し草を持っていない手でレノンを撫でる。鼻でずんずん押してくるレノンに頬を緩めながら落ちた干し草を入れ物に入れ終わると、レノンの方に身体を向けて両手で撫でくりまわす。ぶるるっと気持ちよさそうに鼻を鳴らしている。
暫くそうしていると、後ろからつんつんと背中を突かれた。振り返るとルーシアがこちらを見ている。
「ルーシア、まだ残っているわよ?もう要らないの?」
ふと下を見ると、りんごの欠片が落ちていたので戻してあげる。するとルーシアはまたそれをくわえてユフィーラの足元に落とす。何度も繰り返すので、ユフィーラから与えられたものが不服なのかもと少し眉を下げながら再度拾って、ダンに声をかける。
「ダンさん、ルーシアはもしかしたら私から――――」
何度も落ちたりんごの欠片を持ったまま、ダンに声をかけようとすると、それが手元から無くなった。振り返ると、ルーシアの口元が動いていて、中からは軽快な咀嚼音が聞こえてきた。
食べ終わるとまたこちらを見ている。ユフィーラは首を傾げたが、入れ物から欠片を取り、そっと口元へ寄せると、今度はすぐにパクっと加えたのを見て思わず笑顔になる。
「ちょっとだけ素直じゃないのに、高潔で、思いやりも兼ね揃えているなんて、ルーシアはとても魅力的だわ」
その後、片手でレノンを撫でながら、干し草だけになるまでルーシアは果物の欠片をユフィーラの手から食べてくれた。思わずそんな姿に蕩けそうな表情になってしまう。
「はい。ルーシアも完食ね。これで毛並みの艶も美しくなること間違いないわ」
そう言いながらレノンを撫でつつ籠を片付けていると、ルーシアが鼻先を体に押し付けてきた。
「なあに?もしかして撫でさせてくれるの?」
そう尋ねると、ふいっと目線を逸らすのに、ユフィーラの体を鼻で揺らすのは止めない。そっと手を伸ばし、指先だけで少しだけ撫でてみると、ルーシアは少し目を伏せてぶるっと鼻を鳴らした。
「ふふ。レノンより柔らかな毛並みなのね。美しいわ」
そう言いながら、さりさりと手の平も使い撫でてあげると、だんだんと重心をかけてくるのがまた愛らしい。両手にそれぞれ違う馬を撫でると言う至福の時間を過ごす。
「ユフィーラさん凄いな…」
「それはダンさんが普段から慈愛のこもった接し方のおかげではないでしょうか。私馬は初めて触れたんです」
「いや、それにしては―――」
「あ!ユフィーラさんここに居たの!」
外からの声に二人で振り返ると、アビーが息を切らせてきた。
「朝、部屋に訪ねたらもぬけの殻なんで、驚いてあちこち探してしまったわ」
「時間を忘れて戯れてしまいました。アビーさんごめんなさい。朝早く起きてしまうのが癖になってしまっているので、食事の時間まで散歩でもと思って、こちらにお邪魔させてもらってたんです」
じゃあまたねと二頭をひと撫でしてから、ダンに邪魔にならない程度にまたお手伝いさせてもらう約束を取り付けて、ほくほくしながらユフィーラはアビーと今朝の朝食のメニューに思いを馳せながら屋敷に戻る。
玄関前では、ちょうどテオルドが出かけるところで、後方にはジェスが付き添っていた。
「旦那様!おはようございます。もうお仕事に行かれるのですね」
「ああ」
ユフィーラをちらっと見ながらテオルドは黒い軍服のような服装にいつもの濃紺のローブを羽織っている。そのローブを目で追いつつ、昨日のぎゅっとしたことを思い出し、頬が熱くなるが、今しかタイミングはない、と思い切って声をかけた。
「旦那様。あの、出かける前にハグを…」
「ハグ?―――ああ」
テオルドは一瞬訝しげな表情になりつつも、ハグを思い出してくれたらしい。「早くしろ」とこちらを向いてくれた。
許可が取れたと思ったユフィーラはててっと走り寄ったが、昨日突撃のようになってしまったことを思い出し、直前で踏みとどまろうと足に力をいれたが、上半身はそれに倣えずに前傾になってしまう。
「あわわ…!」
転ぶ!と思った時に両脇を支えられて起こされた。顔を上げると、呆れたような漆黒の澄んだ瞳とぶつかる。
「お前は何回転ぶんだ」
「はわわ…昨日突っ込んでしまったのを思い出したんですが、ちょっと間に合わなかったですね」
そう言ってへらっと笑うと、横から凍えるような表情のジェスが叱責してきた。
「お前!主になんて無礼を…――!」
「ジェス、これは問題ない。おい、早くしろ」
ユフィーラはジェスの憤怒の表情に目をぱちくりするが、時間のないテオルドの方が最優先だと横に見える鬼の形相はさっと彼方に追いやり、しっかり立ち上がって、胸元に近づいた。
ぽすっ
ゆっくり息を吐いて目を閉じ、緩やかで温かく清々しく感じる匂いに包まれる。ユフィーラの背中に手は回らない。それはこの行為がユフィーラだけが望むものだから。
1.2.3.4.5…
目を開けさっと後ろに下がる。
「旦那様、いってらっしゃいませ!お気をつけて」
「ああ」
テオルドは厩舎の前でレノンと待っているダンの元へ歩いて行った。
「あの、ユフィーラさん。今のはいったい…」
そう声をかけたアビーに、そういえばこのお願い事を説明していなかったから、ジェスも怒ったのかもしれないと気づく。
「驚かせてしまいましたね。一日一回5秒だけ私から旦那様にぎゅっとさせてくださいとお願いして了承を得ているんです!」
そう答え満面の笑みで腰を回す真似をしていると、アビーは「はあ…」となんとも言えない表情をし、ジェスは苦虫を噛み潰した顔になった。
「朝食はクラムチャウダーにクラッカーは入れ放題なんですよね。楽しみです!」
そう言いながらユフィーラは浮き立つ足取りで屋敷に入っていった。
誤字報告ありがとうございます。
とても助かります。