婚姻届と離縁届
「あら?テオルド様が帰ってきたわ」
アビーも気づいたらしく、門に向かって行った。
青鹿毛と黒鹿毛の馬には、それぞれに濃紺のローブの人物が乗っていて、一人はテオルドらしい。同じ濃紺のローブの人は誰だろうか。
「魔術師団は皆さん濃紺のローブなのかしら」
「―――濃紺は団長と副団長の二人だけ」
ブラインが教えてくれる。
「ブラインさんは今着ている色だったのですか?」
ブラインが今羽織っているのは碧緑色のローブだ。彼は首を振る。
「他は真っ黒」
「そうなんですね。ブラインさんのローブの色は髪の色と庭の景色に馴染む素敵な色彩でお似合いです」
ローブを褒められたブラインはぴしっと固まった後、ゆるゆると頷く。
アビーが門を開けて、二人が入ってくると、馬丁のダンが二人に向かって駆けていくのが見えた。青鹿毛に乗っていた人物がひらりと馬から降り、その時にフードが靡いて、藍色のさらりとした髪が見えてテオルドだと気づいた。
ユフィーラは立ち上がってその場に佇んでいると、テオルドがこちらに向かって歩いてきた。
「テ…旦那様、お帰りなさいませ!アビーさんに部屋や屋敷の案内と使用人の皆さんを紹介していただきました」
「…アビーが?」
テオルドが僅かに怪訝な顔をした。
あれ?案内や紹介してもらうことはテオルドが来てからでなければ駄目だったのだろうかと思っていると、追いかけてきたアビーが肩を竦めながら答えた。
「ジェスが役目を放棄して門前にユフィーラさんを置き去りにしたのよ。代わりに私が案内したわ」
「職務に忠実なあいつがか」
テオルドが僅かに首を傾げる。恐らく普段は至極当然に仕事をこなしているのだろう。原因は間違いなくユフィーラの存在が忌まわしいということだろう。
「ジェスに何を言った?」
テオルドがユフィーラに問いかける。普段のジェスからは考えられない対応だからこそ、ユフィーラを疑っているのだろう。
そんな酷いこと言っただろうかと頭を悩ませていると、後方からぼそぼそとした声が届く。
「『初めに申し上げておきますが、私は認めておりませんので。貴女の本性を暴いて、我が主には目を覚ましていただきます』」
「ん?ブラインさん近くに居たんですか?」
「庭に居た」
気付かなかったし気配も全く感じなかった…きっとローブの色と気配共に同化していたに違いない。そしてその時の言葉をそのまま覚えてるなんて凄い記憶力だ。
「なにあいつ、そんな失礼なこと言ったの!?最低!」
「下賤な女とも言ってた」
「だから貴族は嫌いなのよ!身分ってだけで人を見下して!」
アビーが怒りを抑えられずに吐き捨てる。アビーも貴族ではないのかなとユフィーラが呑気に考えていると、テオルドが「お前は何を言った?」と再度聞いてきた。
「ご挨拶と、家令の仕事は主を影から支える仕事なので好きなだけ見張って下さいと答えました」
「それだけか」
「そうですねぇ、名前を呼ぶなと言われたので、では旦那様なら良いですかと」
「何様なのあいつは!!」
テオルドが眉を僅かに顰めたので、旦那様呼びも駄目なら主様かなぁと思っていると、「名前で良い」と返ってくる
「ジェスには言っておく」
「あら、旦那様。そのままで結構ですよ。ジェスさんに何も言う必要はありません」
手を口に添えながら、にこりと微笑む。
「ただでさえ、急に決まった婚姻。しかも相手はどこぞの誰かもよくわからない平民です。何の目的でどう旦那様を惑わせたのだと憂いがあるのならば、相手に対して不満や不信も当然でてきます。私はその辺り覚悟の上で嫁いでいますので問題ないです。それに『旦那様』って何か素敵な響きですよね!」
テオルドは瞳を瞬き、アビーは唖然とした顔、ブラインは…後方にいるため見えない。
「旦那様が諌めてしまうと、その場では了承できても鬱屈を溜めてしまうかもしれませんので、そこは今後の私の努力次第でしょうか。あ、でも嫌々でも案内はして欲しかったので、そこは家令度減点ですね」
ふふと笑いながら話していると、テオルドの後方から朗らかな笑い声が聞こえた。
「ははは!テオルドの奥方になる方は肝が据わっているな」
濃紺のローブのフードを下ろし輝く緩やかなブロンドを風に靡かせた浅緑の瞳の美丈夫が歩いてきた。アビーとブラインが一礼したので、ユフィーラも慌ててそれに倣う。
「貴女がユフィーラさんかな?私はトリュセンティア国魔術師団の団長でリカルド・トリューアン。テオルドの後見人だ。よろしくな」
微笑みながら気さくな口調でリカルドが自己紹介してくれたので、「ユフィーラと申します。こちらこそよろしくお願い致します」とユフィーラも微笑みを返す。
「アビー、執務室に茶を頼む」
そう言いながらユフィーラに顎で来いと示されたので、頷く。
「テオルド、お前のその態度どうなんだ?妻になる人なんだろう?」
リカルドがそう言うも、テオルドは無言で屋敷に向かっていく。私もそれに続いて歩き出しリカルドが追いついてくる。
「ユフィーラさん、あいついつもあんな感じなんだ。何度も注意しても全然治らない」
「あらまあ。団長様も日々苦労されているのですねぇ」
「まあな…って君は気にならないの?」
「元々だと仰るならそれを変えるかどうかは旦那様次第ですし、そのままならそれを受け入れるのみですね。私もそう簡単に変われるかと言われたら微妙かもしれません」
リカルドは目を丸くする。
「今まで彼に一蹴されてきた令嬢は酷いと嘆くわ泣くわで大変だったのに、君は平気なんだね…」
「ふふ。打たれ強いので」
「え?」
そんな会話をしているうちに執務室に着いた。そこにはジェスが控えていてテオルドとリカルドに一礼し、ユフィーラに対しては一睨みだ。徹底している態度に苦笑する。
アビーがお茶のワゴンを持ってくる。微かな茶器の音だけが響き、アビーは一礼して去っていく。テオルドがジェスに下がれと言い、彼は僅かに躊躇したが何故かまたユフィーラを一睨みしてから出ていく。
会うたびに毎度睨まれるのかなぁと思っていると、テオルドから真ん中にテーブルを囲んだソファに座れと指示されたので、ローブのまま座っているテオルドとリカルドの向かい側のソファに腰を下ろす。テオルドがローブの中から紙を取り出した。
「団長のみ今回の契約結婚の話を伝えていて今日ここにいるのは立ち会いだ。これが婚姻届けだ。この後も仕事があるから、その前に役所に出してくる」
そう言ってテーブルの上に紙とペンを置いた。
「承知しました。私も先生一人だけに伝えていますので一緒ですね!お仕事中なのにわざわざ出向いて下さりありがとうございます。わぁ婚姻届の紙はとても綺麗な意匠なのですねぇ」
「―――ハウザーか」
「はい」
リカルドが「…え、ハウザー…?」と狼狽える声で呟いているが、ユフィーラは婚姻届を手に取り端から端まで興味深く眺めていて聞いていなかった。
婚姻届けの純白の紙には、婚姻届けに関する重要事項が書かれ、下に二人分の署名欄がある。紙の縁周りは刺繍のような繊細な蔦模様と花が浮き彫りのような意匠が素晴らしい。まるでこれから共に歩む二人へ幸せに導くような素敵な模様だ。
目をきらきらさせながら、ユフィーラは既にテオルドが署名している隣にペンで自分の名を記す時にふと気づいた。
「あの、旦那様。離縁届けもございますか?」
そう尋ねると目の前の二人は同時に固まった。今日は書かないのかなとユフィーラがこてんと首を傾げると、テオルドはゆっくりとした動作でローブの中からもう一枚の紙を取り出してテーブルに置く。
離縁届は真っ白一色で模様など何も描かれていない。こちらはまっさらに断ち切ってそれぞれの新しい道を進んでいけとでもいうように。そちらにもテオルドの署名はされていた。
「同時に書いておいた方が面倒がないですものね―――ではこちらでお願いします」
一年との契約ではあるが、余命が一年過ぎるならばともかく、逆も有り得るのだ。その時に離縁届を書いてなかったら、テオルドに多大な迷惑がかかってしまうので、安堵して書いた紙を渡す。テオルドは思案げな表情をしながらもローブの中に仕舞った。
そんなやり取りを見ていたリカルドから声をかけられた。
「えーと…ユフィーラさんはテオルドと期間限定とはいえ結婚したかったんだよね?」
「はい。とても嬉しいです!それにお部屋もアビーさんがとても素敵に調えてくださいましたし、これから一年が楽しみで仕方ありません」
弾けるような笑みで答えて、テオルドに目を向ける。
「旦那様。庭の一画を手配していただきありがとうございました!ブラインさんから道具も貸していただけることになりました。」
「ブラインが?」
「はい。とても植物の育て方に精通していて、今後色々参考にさせてもらおうと思いまして」
それに対し、返してきたのはリカルドだ。
「ブラインが人とまともに対話?珍しいこともあるものだ」
「あら、そうなのですか?もしかしたら私があれこれ尋ね続けるのに対して、的確な言葉だけもらっているかもしれないので、対話とは言えないかもしれませんね」
へらっと微笑むと、リカルドがそうなのかなぁと呟く隣でテオルドが立ち上がる。
「じゃあこれは出しておく。今日は帰りは遅い」
「はい。いってらっしゃいませ!団長様も立ち会いにいらしてくれて恐縮です。ありがとうございました」
テオルドに続いてリカルドも立ち上がり、ユフィーラも立ち上がって団長に向かってお礼を言う。
じゃあ、またねーとリカルドが先に出ていき、テオルドも続こうとするのを、ユフィーラは少し胸をわくわくさせながら「旦那様」と声をかける。
「今日遅くなるので、契約時にお願いしたこと、今やっても良いですか?」
そう。ユフィーラにとってテオルドと契約した理由の大きな一つがこれなのだ。
口元をにまにまさせながら、腰に回す準備をしようと手をわきわきと動かし始める。テオルドが訝しげな顔をしたが、何のことだか気づいたらしい。
「一日5秒とかいうやつか。早くしてくれ」
そう言ってこちらを振り向いた。ハウザーの時のように手を広げてはくれないが、手は横に下ろされている。
(は!時間がないのだったわ!)
ユフィーラはとててっとソファを横切って走り寄りテオルドに近づいて抱きつく。
どすん!
思ったより勢いがついてしまい、上から「ぐっ」と唸る声が聞こえたが、時間がないので聞こえなかったことにする。
ユフィーラの頭はテオルドの胸元くらいまでしか届かない。目を瞑って腰に回した腕をきゅっと締める。
服から感じる人肌の温かみとテオルドの服なのか香水なのかはたまた魔力なのかわからないが、鼻からすぅっと穏やかで清涼な匂いに満たされる。
とくとくとくとく、と胸が高鳴りざわめくのに心がふわっと温かくなる。今までに感じたことがない不思議な感覚だ。
1.2.3.4.5…―――――
ぱっと目を開け、さっと一歩下がる。
「やっぱり胸が高鳴ります!不思議ですね。それではお気をつけて」
にこにこしながら言うと、テオルドが腹立たしそうに「頭から突っ込むな」と胸元を押さえて出て行った。
その場で余韻に浸っていると、開いた扉から睨むようにジェスが顔を出し、「ここは主の執務室。すぐに出ろ」と言われ、至福の時間から戻って来る。
「はい!待たせてごめんなさいね」
そう言いながら半ばスキップするようにうきうきしながら出ていくユフィーラをジェスは訝しげに見つめるのだった。
ガダンの作った美味しい夕食をいただいてから、ユフィーラは風呂に入る。男爵時代は運が良ければ残った冷めた湯で湯船を洗うついでに体を洗うこともあったが、ほとんどは濡らした布で拭く程度だったので、一人で入るには十分大きい湯船は足も伸ばせてとても快適で気持ちが良かった。
風呂から上がって髪を拭き終わり立ち上がった時、ぐらっと視界が揺れる。
ベッドに腰掛けていたので、後ろに体重をかけ、なんとか前に倒れずに済んだ。
今日は初日だったので、事前に薬を飲んでいたからか日中問題なく過ごせた。これからは何時症状がくるか分からないので、薬を常備しておくことにする。
症状が治まるまで暫くそのまま横になる。効きが悪くならないように夜は極力飲まないようにした方がいいかと考えながら、ユフィーラは今日一日の出来事を振り返った。
使用人はジェスを除いて比較的好意的だったことに安堵する。不利な環境に置かれる可能性を視野に入れていたことを考えれば、幸先は良い。前の話し合いの時、テオルドはユフィーラに貴族のような屋敷の采配などは必要ないと言い好きに過ごせと言われていた。
(ここに居る間、少しでも居てくれて良かった、役に立ったと思ってもらえるように頑張ろう。先生を含めて沢山恩返しが出来ればいいなぁ。薬作りも保湿剤作りも頑張って、庭の薬草栽培も上手くいけば森の薬草と同等のものができるかもしれない。あ、馬にも乗ってみたいわね。お願いしたらきいてくれるかしら)
今日からテオルドと一年間の夫婦生活。契約だから殆どそれらしいことはできないだろうけど、それでも最終日には契約したことでテオルドが今後良い方向に進めば良いと思う。
(私は…あの胸の高鳴りがどんな感情に向かうのか…)
テオルドはまだ帰ってないようだ。幾分か体調が戻ってきたので、ユフィーラは起き上がり窓辺に移動する。窓枠が広く奥行きの深い出窓になっているので、小柄なユフィーラは乗り上げられそうだ。行儀が悪いかなと思いつつも、どうしてもそこから景色を見てみたかったので、乗り上げて窓の近くに座り、膝を抱えて外を眺める。
目の前には屋敷と同様の程良い大きさの庭が広がる。外灯は少し遠くにあるのだが、周辺に屋敷が並んでいないので夜はかなり暗く感じる。また昼間にでも見てみよう。…ばれないように。
暫く眺めているうちに、うとうとと眠気が襲ってきたので、ベッドに入ることにする。
(いつもこんなに遅いのかしら。副団長は大変なのね)
明日は見送りくらいはできるかなと思いながらユフィーラは意識を手放した。