失うかもしれない恐怖
ユフィーラはハウザーと共に研究所を訪れていた。
ゼルザにトリュスの森の薬草リセッカの経過の様子と、リセッカによって作られた増減解除薬の納品の為だ。
相変わらずユフィーラからゼル様と呼ばれることをお気に召した様子のゼルザ。それ良いなぁと言いながら強面の端正な顔がにこっと優しくなるのがとても魅力的だ。それを見たハウザーは「気味が悪い」とこの上なく嫌な顔をしているが。
今度時間が合う時にブラインを連れて行く約束など、いくつか話をしてからお暇する。
「ゼル様とブラインさんは案外馬が合いそうですねぇ」
「研究気質なら間違いなく合うだろうよ。それに頑固なら更にだな」
「ふふ。ブラインさんが頑固なのかは定かではありませんが、植物に関しては拘りは間違いなくある――――あら…」
研究所を出て正門に向かう道のりの途中にある分岐点に差し掛かった時、魔術塔方面から見知った漆黒のローブ姿の人物が歩いて来るのが見えた。
ネミルだ。
俯き加減で、どうしてか心ここに非ずな歩き方だ。
「ネミルさん?」
「…っ!…あ…」
「こんにちは。…ちょっと顔色が優れませんが体調でも悪いのですか?」
ユフィーラとハウザーを視界に入れたネミルがびくっと体を震わせた後、まるで迷子になって途方に暮れているような小さな子供のような表情になる。
「副、団長の奥様…。大丈夫です…」
様子が明らかにおかしい。今まで見た明るい表情は皆無で、何と言うかどうしたら良いかわからず迷走しているような雰囲気だ。ハウザーは敢えて何も言わずに見ている。
ユフィーラとしてはイーゾの話を聞いて内心もう一度会えたらと思っていた。何ができるわけではないし、彼の過去を全て知るわけでも彼の内情察しているわけでもないのだ。
もしかしたら今後会えなくなる可能性は高い。
この機会しかもうないかもしれない。
ユフィーラの言葉はどこまで伝わるのだろうか。
全て跳ね返されるか、全否定されるか。
それでも。
ネミルの深層が垣間見えるようなほんの一瞬の様々な変化の表情。
内側をあまり知らないユフィーラだからこそ何ができるのか。
何ひとつやったところで何の意味もないかもしれない。
でもあの時の自分の感覚を信じて行動に移す。
やらない後悔よりやる後悔の方が断然良い。
ユフィーラは微笑んだ。
「それなら何よりです。ネミルさんが旦那様の近くで働いてもらっていることで、もしかしたら旦那様が無理難題でも言っているのかとちょっと、心配になりました」
ネミルの瞳がゆっくりとユフィーラに向けられる。濁っているのに歪みがない。どろっとしていなくて澄んでもいる。前とはどこか違う。どこがと説明はできないが違う。
「旦那様は人嫌いと言われていて、更に関心が僅かでもなければ業務連絡以外に一切関わることすらしない人です。私が知る限り団長様くらいしかここでは知りませんでした。でもネミルさんのような明るく活発な方もきっと旦那様にとって必要なのかもしれませんね」
ネミルの薄茶色の瞳が徐々に見開かれていく。
「旦那様に足りない何かを、ネミルさんが補ってくれているのですね。補い合えること、それが人との繋がりの一つだと私は思っています。旦那様にそんな方が側にいてくれることがとても嬉しいです。いつもありがとうございます」
ユフィーラは頭を下げた。
テオルドはネミルのことに対し全く言葉にも態度にも出さなかった。
屋敷では最近でこそ色々表情や表現、態度に出してくれるが、元々はそうだったではないか。表現が上手くないのだ。今でこそ変わりつつある部分はあっても、ユフィーラの甘えると同様にまだまだなのだから。
併せて副団長の立場上も言えなくて、それでも側におく程には関心を向けていたはずなのだ。
顔を上げる時にネミルが自分のローブを千切れそうな位ぎゅっと握っていた手が少し荒れていることにユフィーラは気づく。
「あら…ネミルさんの手。ちょっと荒れていますね。あ、そうだ……これどうぞ」
そう言ってユフィーラは自分のローブからいつも持ち歩いている小さな入れ物を取り出してネミルに差し出す。
「…え」
「これ私が作った保湿剤なのです。かさついている手によく塗り込んでみてください。少しは改善されるかと思います。これは無香料なので香りもしませんし、男性にお勧めなのですよ」
ネミルは掴んだローブの手を離そうとしない。が、微かに動くのを見て、ユフィーラは一歩前に出てネミルの手の近くに保湿剤を向けると、吸い寄せられたかのように手の平が上を向いたので、ちょこんと置いた。彼の手にすっぽりと収まる小さなお試し品サイズの入れ物だ。
手に乗った保湿剤を持ち上げて見たネミルの顔が悲しそうにくしゃっと歪む。
テオルドに溌剌に話しかけるネミル。
保管魔術を褒められた時の照れて嬉しそうな表情のネミル。
テオルドの近くで働けることを誇っていたネミル。
そしてサンドイッチをもらった時の小さな子供のような表情。
そして今。
今だけは。
どこにも濁りも歪みも見えない。
「どれだけ効くかは人によるので、と伝えておきますね。もう言いましたので、あとから文句は受け付けません!」
ふふと口に手を当てながら微笑むと手に乗った保湿剤を見ていたネミルが顔を上げる。
普通の青年の顔で。
そして瞳が何か大事なことを決意したかのような強い視線で。
「…あの……っ…あの!僕、ちょっと用事を思い出しました、失礼します!あ…保湿剤!本当に…本当にありがとうございます!」
そう言って魔術塔から来た道を物凄い速さで駆けて戻っていった。
ユフィーラは彼の後ろ姿を見つめる。
「そう簡単に人間は変わらんぞ」
ハウザーの言葉を頷きで返す。
確かに人間の本質はそう変われるものではないのだろう。もし、ネミルが本来の性質がとても歪んでいるものなら、ユフィーラはここまで気にかけることもなかったと思う。
あれが彼の本当の素顔ならば。
本来のネミルならば。
洗脳部分だけがこそげ落ちてくれれば良いのにと思ってしまう。
「寄らなくて良いのか、魔術塔には」
「はい。お仕事中ですから。用事もないのにお邪魔するのは憚られます。さて、帰りま―――――」
ユフィーラがハウザーに声をかけ正門方面に向かおうと足を向けた時だった。
ドォォォォンという重低音が鳴り響く。
まるで巨大な鉄槌が突き刺さるような地響きを伴って聞こえた
「っ!」
「なんだ…今のは」
ハウザーが険しい表情をする。
ユフィーラが音が轟いた方角―――ネミルが走って行った魔術塔方面を向くと、煙のようなものが立ち上がっていた。
「!!!」
「おい、ユフィーラ待て!」
ユフィーラは魔術塔の方に駆け出していた。
ネミルの憔悴したような、ユフィーラ達を見た時の迷子の子供のような、そして何か我に返ったように決意の眼差しで戻っていった表情。
その直前にユフィーラにお礼を言ってきらっと輝いた瞳。
この爆音がもしネミルが戻っていったことと関係があるのなら。そして――――
『お前も孤児上がりの小僧のように追い詰めてもいいんだぞ』
『そろそろ魔術師団の副団長が何かやらかすかもな』
もしシモンが言っていた言葉がアッカラン侯爵家とネミルに関することだとするなら。
ユフィーラの全身が戦慄する。心臓が恐ろしく速く脈動を打つ。
全速力で走った先に見えた魔術塔の入口より少し手前の広場。
そこに居たのは。
「!っテオ様!!!」
旦那様なんて切り替えは今のユフィーラの頭の中にない。ユフィーラは呆然と立ち尽くす。
少し開けた広場の…広場だった場所が広範囲にわたり地面が陥没したように窪んでいる。その範囲の中心から僅かに離れた場所にテオルドがうつ伏せで倒れていた。
ユフィーラは目を割れんばかりに見開き、ふらふらとそこに向かう。
(嘘……嘘。……嫌、だ…――――嫌だ!!!!!)
声にならない。
声が出ない。
頭が真っ白に漂白される。
「あ……ぁ………ぅ……」
何も考えられなくなる。
テオルドが居ない世界なんて微塵たりとも考えられない。
頭がおかしくなる。
目が熱くなる。
頭が熱くなる。
心臓が熱くなる。
全身が熱くなる―――
「おい、ユフィーラ止まれ!落ち着け!!」
後ろから何かに抱え込まれる。それでも歩みは止めない。
(テオ様の元に行かないと。私の唯一。私を救ってくれた、私の、ワタシ、ノ………)
心臓の奥底から何かが湧き出てくるようだ。それが自分自身を覆うような感覚に陥る。
その時。
「ユフィーラ戻ってこい!!!テオルドは無事だ、よく見ろ!!!」
ユフィーラはぴたりと歩みを止め、瞬きを一つした。
後ろから抱えるように抱き込んでいる人間の声がハウザーだとようやく理解する。
「見ろ。テオルドの位置は中心ではない。あの場に行くのは少し待て。―――…!テオルドが起き上がる。ちゃんと見ていろ、無事だ」
ユフィーラはまた一つ瞬きをする。ハウザーはユフィーラをしっかり掴みながら何かを飛ばしているのがなんとなく分かる。
一番窪んでいる中心から少し離れて倒れていたテオルドの体がピクッと動き、肘をつきながらむくりと、ゆっくり起き上がる。
そして自分の手を見てから、その手が煌めく。
回復魔術だ。
そして立ち上がり、全身にもかけた。
そして煙が上がっている中心へテオルドがゆっくりと向かっていく。
煙が上がっている中心部に人が倒れていた。
漆黒のローブは見るも無残なほどぼろぼろだ。そこから見えている手足は傷だらけで血が流れている。
暗緑色の長い三つ編みに結った髪がぼろぼろのフードから覗いていた。
ネミルだった。
テオルドが手を翳し、同じ魔術の織を作りネミルに施している。
「もう大丈夫だ。足元に注意して行け。魔力薬はあるか?」
ユフィーラを抱き込んでいた腕が解かれた。一つ頷いて歩み始める。
「リカルドは呼んである。奴に伝えろ。俺はやることがあるから離れるぞ」
ユフィーラはまた頷きながら陥没した地面を進む。
まるでその場だけ焦土化したような光景だ。ネミルに回復魔術をかけ続けているテオルドがこちらに気づき瞠目するのをユフィーラは首を振りそのまま続けてという意思を示す。
そして、ローブから魔力薬を取り出してテオルドの元に辿り着いた。
「フィー…」
「まだ続けるのでしょう?魔力薬を飲んでください。先生から団長様は呼んであると。先生はやることがあると離れています。話は後で」
そう言って蓋を開けて渡した。テオルドは頷き魔力薬を一気に呷った。片手はそのまま回復魔術を継続している。
「テオルド!」
少し経ってから、魔術塔からリカルドが走ってきた。テオルドはリカルドに視線を向ける。
「広場程度で済んだ。ハウザーは恐らくここ以外から情報が漏れないように動いているはずだ。魔術塔に戻って全員に箝口令を」
「わかった。お前は大丈夫なんだな?」
「ああ。…ネミルも……多分何とかなる」
テオルドは言い終えると視線を戻し魔術に集中した。ユフィーラはもう一本魔力薬を取り出して、リカルドに頷く。リカルドも大体を把握してくれ、頷いて戻っていった。
暫くテオルドの回復魔術が続き、その間にハウザー、リカルドが戻り二人で話をしながら、数名の魔術師が周りを調べ始めていた。
ユフィーラが三本目の魔力薬を用意しようとローブから出す前にテオルドの手が下がった。
「ネミルを救護室に連れて行ってくれ。命は持ち堪えたが、魔力が枯渇寸前だ。点滴魔術で補充してくれ」
近くにいた魔術師に伝え数名が担架を持ってきてネミルは運ばれていった。
その様子を無言で見ていたユフィーラの頬にテオルドの少しだけ温かい手が触れたので、それを視線で追った。
先ほど、この手は手首部分まで真っ黒だった。
手に何かを受けたのだ。
ユフィーラは頬に当てられた手を自分のそれと重ね合わせる。
(温かい…生きて、る…)
ゆっくりと深呼吸をした瞬間、ガクンと足に力が入らなくなった。
「フィー…!」
テオルドがすぐに支えてくれ抱き上げた。
「大丈夫です…少し気が抜けただけで…」
「リカルド、フィーを少し休ませたい。ここはどれくらいで終わる?」
ハウザーと話していたリカルドが振り向いた。
「私の執務室へ。仮眠室でユフィーラさんを休ませてあげてくれ。お前も休んでおけ。一刻ほどで行く」
テオルドは頷き、ユフィーラを抱えて魔術塔へ歩き始めた。いつもなら歩かねばならないし申し訳ないと思うのに、今は上手く頭が回らない。
ユフィーラは頭の重みすら上手く支えられずにテオルドの肩に寄りかからせてもらう。耳飾りがシャリンと鳴った。
不定期更新です。




