無謀な交渉
「今日はちょっと早めに帰ろうかしら…」
あれから保湿剤が思った以上に好評だったので、それに合う花や薬草、痛み止めの薬草も併せて森に採取しに訪れていたのだが、森に入って少し経った頃、倦怠感とふらつきの症状がでた。最近はそこまで症状がなかったので、油断していた。
それでも少し森の中心に近い場所に進み、痛み止めのデスパの薬草が生えていたので夢中で採取して立ち上がった時にぐらっと体が傾いて座り込んでしまった。
森の浅い場所なら問題ないが、中心に近いこの場所は魔素が少し濃くなり今の体調には少々きつい。ぐらぐらと頭が回るように目がまわり、額を押さえながら懐から有事用にいつも持ち歩いている対初期症状の緩和剤を取り出し、口にいれてから水筒を出し薬を流す。いつかくる中期の激痛に備え、極力薬は服薬しないようにしていた。どんな薬も慣れれば効きは悪く確率があるかもしれないからだが、出かける時に限っては飲んでおいた方が良かったと後悔していた。
膝を抱えて頭を埋めてゆっくり深呼吸して効果がでるのを待つ。暫く経って目眩が止みようやく効き始めたかと思った時、さくさくと草を踏む音が聞こえた。
(魔素が濃いめのこの辺りに人が来るのは珍しいな。でも認識阻害の魔術をかけてるから気づかれないはず…)
荒かった呼吸も治まり、ユフィーラはゆっくりと膝から頭を上げた。
目の前に見えるのは黒いブーツと濃紺のローブ。更に顔を上げていくと、ローブの隙間から漆黒の軍服のような服装が目に入り、肩にかかるくらいの藍色の癖のない髪がフードから僅かに覗く。何の感情も見えない無機質な漆黒の瞳がユフィーラを見ていた。
(―――あれ?こっちを見ている?だって認識阻害…)
後ろを向いて確認するが、人も生き物も見当たらない。
「見えてる」
抑揚のない低い声が耳朶に響き、ユフィーラはぎぎぎと首を元に戻す。
「見えてる…?」
「見えてる」
呟いた声に同じ台詞が返る。
何故見えているのだろうか。数少ないユフィーラの安定した魔術なのに。
(体調が悪くなったから?それとも相手が凄い魔術師だから見破れる、とか―――あ)
今の自分は座り込んだままの状態だ。急いで立ち上がると、まだ残っていたのか、目眩で視界がぐわんと歪み足元が縺れて後ろにひっくり返りそうになる。
(あ、ぶな…―――――!)
思わず目を瞑って倒れる衝撃に身を強張らせた瞬間、手を引っ張られ、とすんと頬に弾力のある何かが触れた。恐る恐る目を開くと、触れているのは紺色の布、見えるのは人の腕。
(―――え――――ん?)
その布は先ほど目の前でみた濃紺のローブだと理解し、自分が居る場所が魔術師の腕の中だとやっと認識する。ユフィーラは目をぱちぱちと瞬きして口をパクパクさせた。
同時に胸がとくとく忙しなく鳴り、きゅうっと苦しくなった。ちょっと息苦しいような、でも心がふわふわと満たされたような。
「具合が悪いのか」
上から落ちてきた声にふわふわしていた気持ちが霧散し我に返る。
今の状況がようやく頭に入ってきたユフィーラはぱっと体を離してささっと数歩後ろに下がった。
「し、失礼致しました…もう大丈夫です、ありがとうございました」
またふらついて支えられるわけにはいかない。足を気張りながら深く頭を下げた。
彼からは声がかからない。もしや不可抗力とはいえ抱きついたことに不快な気分になっているのではないか。とりあえず声がかかるまではと頭を下げ続けていると、少し間をおいてから声が落ちる。
「認識阻害をいつも使っている理由は」
魔術師から尋ねられた内容を頭の中で反復してふと疑問に思った。
(いつも?…今回だけでなく今までも彼は気づいていたのかしら)
ユフィーラが知る限り彼に遭遇したのは森を癒やした時と、ブロンドの魔術師と共に居た時の二回だ。今思うと、二度ともこちらを向いたような気がしたことを思い出す。彼のことを知らなかったとはいえ、覗いていたも同然ならば、鬱陶しいとぼやいていた異性と同類の枠なのかもしれない。
無表情で何も考えていないような平淡な表情。その中に僅かな嫌悪感が浮かんで見えた。以前会ったのは偶然だし、ふらついて手を引いてもらったとはいえ、抱きついてしまったのは事実。
廃れた森に魔術を施した時の彼の惹きつけられそうな瞳と今のユフィーラを見据える瞳はあまりにも違う。もうあの表情を見れることはないのだろう状況に些かしょんぼりとなる。それ以前に会うことすらないかもしれない。
とはいえ、どちらにしろここは正直に話しておこうと顔を上げて、彼に視線を合わせた。
「私は薬師なのですが、この森へは薬草や花を採取しに訪れています。特に中心付近にはデスパという痛み止めの薬草や生えていることが多いのです。認識阻害の魔術は森に入る際に人や生き物に出会わない為でした」
何の感情も入っていない瞳を見つめながら話す。
「巧みな魔術は得意ではないのですが、認識阻害だけは慣れていたので気付かれないかと思っていました。でも結果的に貴方を盗み見ていたのは変わりないので、不快な思いをさせてしまってごめんなさい」
そう言ってもう一度頭を下げた。
彼から何も反応はない。言うべきことは言ったので、不快な人物はすぐに去ったほうが良いだろう。
「では失れ―――」
「俺以外は気づいていない」
言葉が重なった。
俺以外?認識阻害のことだろうか。ユフィーラが微かに首を傾げると、彼は「二人で来た時の相手は気づいていない」と付け加えた言葉で、どうやら予想は合っていたらしい。
彼を特等だと言っていた上司であるブロンドの魔術師もそれなりに魔術に秀でているはず。即ち認識阻害の魔術はちゃんと効いているということだと少し安心した。
それでも彼から懐疑的な気配が消えていない。
幾ら疑われても、それが事実なのでどうしようもないのだが、信じてくださいと言ったところで余計に疑われそうだ。
「付き纏っていたのか」
その言葉に先程の説明は残念ながら効果がなかったようだ。首を逆に傾けて頬に手を添える。
恐らくどう答えたところで信じてもらえないような気がしたし、言えば言うほど墓穴を掘りそうなのでやめておこう。
そこでユフィーラは、ちらっと閃く。
ある欲がむくっと湧き上がる。
(――――もう会わないのなら…)
むくむくっと欲が溢れ出る。
きっと今後は遭遇することもないだろう。
目の前にある印象的な瞳をもう見られなくなるのは残念だと思う。
ならば、限られた時間で叶えてみたいと思ったことの一番壁が高そうなもの。それに挑戦してみてもいいのではないかと自分の良いように考えてみる。可能性は極僅かにも満たないだろうが。内容も本来実現してみたいものとはほど遠いものなのだが、こんなに機会は二度とないだろう。
人生とはいつ何時何が起こるかわからなくて、不思議なものだなぁと思いながら、頬に添えていた手を外し人差し指を立てた。
「提案があります」
「…」
質問を華麗に流し、不快そうな漆黒の瞳を見ながら口を開いた。
「私と契約結婚してくださいな」
「―――――は?」
彼は瞠目した。それはそうだろう。
数言会話しただけのほぼ知らない怪しい女から契約結婚を持ちかけられたのだから。
だが、そんなことは百も万も承知である。
でも万が一ということがもしかしたらあるかもしれないではないか。ないかもしれないが。
「私はユフィーラと申します。平民ですが国家試験で薬師の資格を取っております」
一度言葉を止めて、微笑みながら礼をする。一応男爵家で生まれたのだが、国籍もなく、貴族作法なんて知らないしカーテシーもできない。
「以前お二方の話を盗み聞…耳にしまして、女性から言い寄られていてお困りとのこと。ならば、双方利があれば一考してもらえるかもしれないと考え、一年半…いえ、一年間の契約結婚は如何でしょうか!」
「…契約結婚」
「はい!挙式や披露宴などは皆無、署名のみで済ませ、生活を共にしても夫婦としての役割は外面だけ。実際は同居的なものにしては…あ、残念ながら私は現在ご厚意で部屋を借りている身で、直ぐに家を購入する程のお金を持ち合わせておりませんので、うーん…通い婚になってしまうと女避けの意味がないですかねぇ」
「…おい」
「でも噂を聞きつけて私に物申しにくるご令嬢に対しては、過去の経験から上手く流したり躱せる自信はあります」
過去の経験とは言わずもがな、あの男爵での継母と異母姉のいびりだ。こんなところで役に立つとは、人生何があるかわからないものだと思いつつ、契約結婚の条件を頭の中で高速で捻り出しているので、魔術師の呟きは都合良く耳に届いていない。
「仮初の夫婦なので贈り物も要りません。あ、それと私は薬師として王都の端にある診療所に薬を卸しているので、薬の融通もできますよ!」
「おい」
「一年間でお願いしたいのですが、もし心から想う方ができたら、適宜要相談ということで―――」
「おい!」
「はい?」
なかなかに良い条件を出したと満足気なユフィーラは首を傾げる。
魔術師は少し眉を寄せながら溜息を吐く。
「俺が誰だか知っているのか」
「お二方が魔術師団とお話されていたので魔術師であるということだけ」
そう答えると、彼の眉が僅かに上がる。
「他には」
「あの場でお話していたこと以外は何も」
「…そんな状況で俺が頷くとでも?」
突拍子もない話だが、ユフィーラはふざけてはいないし至って本気だったのだが、理解し難いように返された。やっぱり万が一の一にはならないかぁと、半ば予想通りではあったので、ふすんと息を吐いた。敗退高確率の交渉は上手くいかなかった。ここは潔く退こう。
「以前に貴方が森に魔術を放つのを目撃したことがあります。癒しや守りのあんなに心揺さぶられる幻想的な魔術があるなんて思いませんでした。その時の貴方の瞳がとても印象的で、胸が高鳴って忙しなかったのは生まれて初めてで。この鼓動と連動する感情がどういうものなのかを追求してみたくて、この機会を逃せませんでした」
へらっと笑いかける。
男爵時代に全てを貶されて見下されて生きてきたが、自分の中の何かが動いた相手に拒否されるのは、今までにない切ないような寂しく心臓が縮こまるような気持ちを味わう。
良い思いではないが、それも経験として良しとしよう。
「ですが、貴方からしてみれば、突然こんなことを言われたら気味が悪く思ってしまうのも当然でしたね。不愉快な思いをさせてしまいごめんなさい。失礼致しますね―――あ」
そう言って去ろうとして、もう一つだけと話しかける。
「私の仕事上、ここの森には今後も来ます。貴方を見かけても避けるようにはしますが、それも不快ならば認識阻害などで私が気づかないようにしてもらえると助かります」
そう言って、ぺこりと頭を下げてから踵を返して走り出した。
(もうあの瞳を見ることはないのだろう。少し悲しいけど仕方ない)
振り返ることもなくユフィーラはその場から去った。