漆黒の瞳
病を知ってからは、痛み止めの薬をメインに作るようにしたが、それ以外は特にこれといって生活リズムが変わることもなかった。今日はいつもより、倦怠感もそこまで酷くなかったのでトリュスの森へ薬草探しに出かけることにした。
薄いグレーのローブを羽織り、黒のブーツを履いて、森に入る前に認識阻害の魔術をかける。この魔術だけはかなり上達したと思う。
ユフィーラは薬草から薬を精製する際にも魔術を使うが、それ以外の魔術は得意ではない。勉強すれば多少なりともできるかもしれないが、自力で生活するために薬の精製魔術をひたすら学んだのだ。
昨夜に雨が降ったからか、水々しさ纏った木々がそよそよと風に靡いていて、いつもより活き活きとしているように感じる。
「デスパの為に少しだけ中心に近い場所に行ってみようかしら」
デスパの薬草は鎮痛剤の最上級の薬草だが、希少の部類に入る。森の中心部に近づくにつれて自生率は高いそうだが、生い茂って昏くなった森は魔素が濃く、どんな生き物がいるかもわからず危険なので、ぎりぎり手前で見つかなければまた後日にしようと気楽な気持ちで足を進める。
休息を摂りながら歩いていくと、森の空気が微かに変わった。少しだけ空気が重くなるような感じがする。
(これを感じて、皆危険だと言うのだけど…)
少しずしんと全体が重くなるような、周りの木や植物がとても成長していて威圧感があるようなのは確かなのだが、防衛というか、守っているような気配を感じるのだ。
(森の魔力というか…森のそのものの力という表現がぴったりね)
上手く説明できないのだが、そこまで恐ろしいものだろうかと思うのだ。
そんなことを考えていると、涼やかな風に流れて人の声が聞こえてきた。
森の浅い場所では人に会うこともあるが、中心部近辺では魔素の濃さと、噂の影響もあるのか人に会ったことは殆どない。
(珍しい。このあたりで人に会うことは滅多にないのに―――あの人以外は)
そう思いながら慎重に声が聞こえる方へ足を進めていく。
「やっぱりこのあたりは、かなり魔素が濃いな。一般人にはきついだろうな」
生い茂る木々の奥から、良く通る男性の声がはっきりと聞こえた。
ユフィーラは立ち止まり、数多の木々に身を隠しながら覗くように体を傾ける。そこには濃紺のローブを羽織った背の高い魔術師らしき人物が二人佇んでいた。
「ああ」
相手の言葉に対しそっけない返答をした声が心地良い低音だったのだが、何故か聞き覚えがある。そして二人が纏っているローブにも見覚えがあることに気づき、目を瞬く。
二人共にユフィーラに背を向けてはいるが、一言だけ発した声は、恐らく以前にこの辺りで見かけたことがあった男性の声にそっくりだった。
「この辺りの森の成長っぷりはお前の魔術の影響もあるだろうが、それでもちょっと異常だなぁ。元々中心部に凝った魔素の根源があるのかもしれないな」
そう言いながら普通の森には有り得ない程、成長している木々を見上げている人物の顔が見えた。フードを被ってはいるが、そこから覗くのは輝くようなブロンドと、浅緑の鮮やかな瞳に素晴らしく整った顔立ちと精悍で男性らしい体躯をしている。
そしてその男性の隣にいた人物も上を見渡したので顔が見えた。
(―――あ…!やっぱりあの時の人だわ)
同じくフードを被っているその人物は濃紺のローブよりも少し明るめの藍色の髪がフードからさらりとはみ出ていて、漆黒の瞳は無機質で冷淡にも見える。
とくとくと胸が鳴る。
「ここはこのままでいい」
「まあそうだな。要は相手がこちらに侵攻できなければ、というかそんな力はもう残ってないだろうがな。ここも人に害さえ与えなければ問題ない」
「人間が害を成そうとしなければ問題はない」
そんな会話をしながら話す彼の瞳は何の感情も灯っていなく真っ黒だ。
(こっちが素なのかな。でもあの時は―――)
ユフィーラは彼との邂逅を思い出す。
**********
ユフィーラがトリュセンティア国に住みはじめて暫くした頃のことだった。
いつものように薬草採取に勤しんでいるうちに、思ったより奥まで進んでしまっていたらしい。空は雲が厚く陽の光の向きが定かではない。迷って歩いていると、森の一面が焦土と化した場所に辿り着いた。
ハウザーからユフィーラの母国、イグラス国とトリュセンティア国との争いを聞いていたので、ここが戦争によって犠牲になった場所なのだとわかって眉を寄せた。
(自然が育つには途方もなく長い時間を経て作られるのに、消え去るのは一瞬なんて)
それをしたのが、自然の恩恵を受けている人間なのだと思うとなんともやるせなくて、憂鬱な気持ちになっていると、ふと近くに人の気配を察知した。
荒れ果てた森の残骸の中心に一人の濃紺のローブ姿があった。
その人物はその場に暫く佇んで周りを見渡し、フードを下ろした。
すらっとした背の高い男性で、ローブに隠れてはいるが、フードを下ろした腕は引き締まっている。肩辺りまでの藍色の癖のない髪に、漆黒の切れ長な瞳。精巧な人形のように美しく端正な顔。
周りを見渡す表情は、無表情なのに廃れた森を見る眼差しは、少し寂しそうだ。
ユフィーラはその男性から目が離せなかった。
瞬きも忘れて見ていると、彼から魔力が膨れ上がるのを感じた。そしてそれに対して荒れ果てた森が呼応するようにざわめき始める。あまりの膨大な魔力に程々に離れているのにユフィーラの肌がざわざわと鳥肌が立った。
その男が腕を上げ虹を描くように横に一振りすると、膨れ上がった魔力が、一斉に拡散されたように周囲に舞い散っていくような感覚にユフィーラは瞠目した。
そしてそれに応えるかのように森が更にざわめき風を起こし、彼の周辺から焼け爛れた木や灰と化した植物が息を吹き返したように芽吹く様に、更に目を見開き固まってしまった。
ユフィーラは声を上げそうになり咄嗟に口を両手で覆う。
ユフィーラは薬師に役立つ魔術は多少覚えたが、他の魔術はまだまだ未経験に近い。
先の戦いもそうだが、強力な魔術というのは攻撃に特化しているものだというイメージがいつのまにかついていて、まさかこんなにも強大な癒やす魔術があるのだとは想像できていなかったのだ。
それは荒れた森の、まだ僅かに残っている本来の生命力を彼の魔術によって活性化されたかのように、少しずつ生気を、色を取り戻していく。異常な力で無理矢理という感じではなく、自然に近い、でも少しだけ手助けしてあげるような優しい治癒力のように、眩いきらきらとした粒子が舞い、朝露が煌めくような輝きが森全体を覆っている。
魔術師の髪とローブが靡き、彼の瞳は漆黒の筈なのに様々な色合いが混ざっているような、えもいわれない美しさにユフィーラは息を呑んだ。今までに見たこともない幻想的な空間、そしてその中心にいる一人の魔術師を見て、胸がとくとくと高鳴る。
(なんて…なんて幻想的で…不思議で…美しいの)
それは森のことなのか彼のことなのか、それとも両方か。
どこからか七色を纏ったような色合いの蝶がひらひらと舞っている。
まるで森が息を吹き返したのを喜ぶかのように。
「これが限界か。あとはなんとか頑張ってくれるか。人間のせいですまないな」
そう呟いた男性は無表情のまま。
先程までの例えようもない漆黒の瞳の煌めきはなくなっていたが、僅かに目元が和らいでいる姿を見て、ユフィーラの鼓動は忙しなく速さを増した。
焦土化していた森は元の状態まではいかないが、新しく芽吹いている植物や生き生きとした土の色、そして木々からは新しい芽や枝が生えていた。
魔術の在り方の根底を覆した男性はゆっくりと見渡し、ふとこちらに目を向けたように見えて、びくっと体が強張り、先ほどは違う鼓動の忙しなさを感じたが、彼はその場から離れていった。
ユフィーラは去る姿を見つつも体は動かずに放心状態になっていた。
「す…ごい。こんな魔術の使い方があるなんて」
暫くその場から動けなかったが、そういえば迷っていたのだとはっと気づき、ようやく雲から少し差してきた陽の向きを頼りに帰路に着いたのだった。
**********
「そういえば、この戦いで今まで以上に活躍しちゃったもんだから、縁談が半端ないんだって?」
そんな言葉が聞こえてきて、彼とのことを思い出していたユフィーラははっと我に返る。
「日々鬱陶しい」
「あー、お前は基本人嫌いだからなぁ。まともに関わるのは私と屋敷にいる奴等くらいか。でも少しくらい良いと思えるご令嬢はいなかったのか?」
「香水臭い。化け顔気持ち悪い。服が邪魔」
「ははっ!頑張って着飾っている彼女たちもお前にとっては逆効果か!」
ブロンドの男性は精悍な顔で豪快に笑う。どうやら彼はとてももてるようだ。
「まあ、その顔と魔術師としての実力に、あの戦いで更に拍車かけたようなもんだからなぁ」
「爵位なんて貰うんじゃなかった」
「それは役職を拝命するには必要だったからな」
「なるんじゃなかった」
「いやいや、俺の右腕となるからにはそれなりの地位にいないと色々と面倒でなぁ」
「俺の方が面倒」
ブロンドの男性は上司らしいが、その人に対して彼は無表情で容赦ない言葉を返している。
「まぁそう言うな。本当は養子にしたかったのに、お前が嫌がるから後見人扱いでなんとか手を打ったんだろうが」
「どっちもどっち。」
「とはいえ、逃げ続けても付き纏われるのは変わらんぞ」
「………」
彼は嫌そうに溜息を吐く。
「とはいえ、確かにお前には難題かもなぁ。うーん…期間限定とか上辺だけの婚約…だとあんまり効果ないか。双方に利がある契約結婚みたいなのができれば、少しは周りも静かになるのかも…ってそんな奇特な令嬢はいないか」
「なにそれ」
「要はさ。お互いに利益があって、決められた期間だけの契約結婚、みたいな?―――俺を通して紹介してくれとか何件もくるんだが、こんなことを勧めていると知れたら総叩きに遭うな」
そう言いながらブロンドの男性は苦笑している。
「お前の魔術の能力は特等だ。だからこそ魔術爵位の叙爵が必要だった。普段も国の有事にも権力に寄る圧力に潰されないようにな。我が国は能力重視だ。特に魔術師はな。貴族でも平民でも。それでも権力や爵位を掲げて物を言う人間はいるんだよ」
「いつでも逃げれる」
「はは、お前ならそうだな。でも俺が寂しくなるから、それはしないでもらえると嬉しい。その代わりお前が本当に嫌なことは俺がなんとしても食い止める」
「―――もうこの辺は問題ない。このままで良い」
「そうか。じゃあそろそろ戻るか」
そう言いながら踵を返すブロンドの魔術師に、彼も向きを変える前、ふと立ち止まって首だけこちらを振り向いた。
(!…目が合った?)
彼の目線がユフィーラと重なったような気がして、心臓の音が早鐘を打つ。その何を思っているかわからない、静謐な漆黒な瞳に思わず胸元を両手で押さえる。
彼はすっと目線を外し去っていった。