番外編・ハウザーとユフィーラの間柄
ハウザー視点です。
現時点でハウザーの方がユフィーラとの関係が
長いので文も長くなりました的な(言い訳)
ユフィーラが来て二年が過ぎた。
薬師としての精製技術も着々と伸び、最近ではハウザーの診療所の他、ハウザー経由だが王都にも実は卸していたりする。他にも薬草を上手く使って保湿剤を開発しているらしく、試供品ができたら是非試してくれと言われた。
この頃になると、ユフィーラの生活も安定し、出世払いという名目で借りていたお金をハウザーに毎月返していた。様々なことを覚え、街の住人とも仲良くしたり、初めて出逢ったトリュスの森が彼女も気に入っているらしく、良く採取に出掛けていた。
ユフィーラが薬の納品に訪れた日のことだ。
最近体調不良が続いているとぼやいていたので、詳しく症状を聞いてみると、ここ一月ほど微熱と倦怠感が治らずふらつきもあるという。
症状から幾つか候補を予想したが、一月以上状態が続くとなると様子見だという結論には些か不安が残るので、血液と魔力の検査をしておくことにした。
「血を採る。少しちくっとするぞ」
「そんな細い針の中に空洞があるんですねぇ」
「お前の興味はそっちか」
ハウザーは採血した細長いガラス瓶を専用の検査器に入れる。
「魔力の織を確認する。手を出せ」
「はい」
ユフィーラの手を握ってハウザーは目を瞑り手から魔力異常鑑定魔術を施す。
(ん…?)
魔力の織の中に通常見られない乱れを感じた。ちょっと拗らせた病などでもこの乱れは滅多に見られない。
(ちょっと…待ってくれ、これは…)
織の乱れに集中すると、更にその乱れに濁りと凝る感覚も加わる。これは明らかに拗れた風邪などではない動きと淀みだ。
ゆっくり深呼吸してから目を開けて「もういいぞ」と声を掛けて手を離す。いつもの不遜な態度のハウザーには珍しく鼓動が速なっている。
魔力の織はあくまでも病の軽重を測ることしかできない。まだわからない。決まったわけではない。
ハウザーは検査器に入っている血液を取り出し、検査により変化した血液の色を視認して戦慄した。
(嘘…だろ)
細長いガラス瓶に入ったユフィーラの血液の色は黒と白の二色に変化していた。この検査の色の変化による病とは。心臓が痛いほど脈打つ。
(これを伝えるのか…でも俺は医師だ。伝えないわけにはいかない)
そう決断してユフィーラの方に目を向ける。
「ユフィーラ、落ち着いて聞け。お前の体調不良の原因がわかった」
「はい。それは何でしょうか」
「……不治の病と言われる『天使と悪魔の天秤』だ」
ユフィーラはそのままの表情で固まる。数秒してから片手を頬に添えて首を傾げた。
「あらまあ」
その表情はいつも通りだった。こんな状況で。こんな状況なのに。
(何故お前はいつも全てを受け入れてしまう)
ハウザーはやるせない気持ちになる。どうしてユフィーラにこの病が罹るんだと思わずにはいられない。
ユフィーラも天使と悪魔の天秤の病そのものは知っていたらしく、お互いの症状の情報を照らし合わせる。その後も彼女の表情はいつも通りで焦る様子も恐怖に震える様子もない。聞くと、少し困ったなくらいな答えが返ってきた。
これからだ。
ようやく道を整えて、これから人生を謳歌するはずだったのに。
しかも人に移るのではないかと懸念して青褪めるユフィーラに、そうじゃないと怒鳴りたくなってしまったハウザーは耐える。自分のことを心配して欲しいのに。こんな時なのに人の心配をするのか。
天使と悪魔の天秤は特効薬がない。研究が未だに続けられてはいるが成果は出ていない。出所が人外者の呪いからだと謳われているので、解呪という方法で治すことはできる。その術者の命を削って。
ハウザーは壁を見つめながら、この国で解呪ができる一人、リカルドを思い浮かべた。彼の妻がユフィーラと同じ病に罹ったことがあった。それを彼は己の数年分の命と引き換えに治している。その妻は泣き喚いて拒否したが、何とか説得して解呪したと聞いていた。
ユフィーラは研究の試験者になるのは嫌だと言った。それはそうだろう。今まで閉鎖的な場所で散々人から奪われてきたのだ。
ユフィーラは中期の症状に効く薬の素材を聞いてきた。自分で精製してどうにかやり過ごすつもりらしい。リカルドから聞いた激痛の症状を伝えても彼女は耐えられるだろうとへらっと笑う。そしてどうせなら残りの時間を精一杯楽しく生き切るとまで宣った。
「―――お前はぶれないな」
ユフィーラの達観した強靭な精神。受け入れて前向きに考える思考。終わる時間がわかったからこそ残りを楽しむことに費やせることが幸せだという。
(どうしてユフィーラがこんな目に合う)
ハウザーは胸が引き絞られるように痛む。ようやくこれから生きる道を拓くところだった。
(でも、俺はお前の好きなようにさせると、あの時に誓った)
それならばハウザーは彼女のやりたいことの全てを賛成してやろう。
(そのうち腕も…背中の傷も治してやりたかったのに)
ハウザーが治せないこともないのだが、古い傷は魔術で直接長時間触れ、何度も施さないと治癒できない。流石にそれはできないので服の上からでも、ある程度効くように考えていたところだったのだ。
その後、誰にも言わないように誓約魔術までちゃっかり結んだ用意周到なユフィーラに若干腹が立った。
(これではリカルドに直接聞けないな)
だが、やりようはある。どうにかユフィーラが生き残れる僅かな方法でも探さなければとハウザーは目の前でにこにこ笑う娘を見ながら思った。
暫くは今まで通りの生活をしていたが、ある日、突如契約結婚を決めてきたというのだから、流石のハウザーも驚いた。しかも相手があのテオルドだと知った時には内心どんな因果かと思い、何とも言えない気持ちになった。
ユフィーラは森で会った彼しか知らず、瞳と魔術の展開に魅入られたのだという。それがどういう気持ちなのかは本人もまだはっきりとしていないらしい。
そしてテオルドが病を解呪できるもう一人だということも勿論知らなかった。
(それでも俺はユフィーラがやりたいことに寄り添うのみだ)
翌週ユフィーラが旅立った。はにかんだ笑みでハグをお願いするユフィーラにハウザーは心が温かくなり同時に少し寂しくもあった。見送った後に自室でユフィーラから貰った手用保湿剤を塗って匂いを嗅ぐ。ハウザー好みの清涼な香りだ。
気配を感じ、少ししてから扉付近から音もさせずにギルが入って来た。
「寂しくないの?」
「寂しいな」
考えずに言葉が出た。
毎日一緒に居たわけではないが、森で出逢ってから二年が過ぎていた。それなりに共に食事をしたり買い物をしたり、診療所で関わってきた。
父親が殆ど居ない屋敷と屋敷の主の如く忙しい母親。ハウザーに兄弟は居ない。こんな風に同じ人物と長く関わったことはなかったことに気づく。
「テオルドが相手とかどんな神の悪戯なんだろうね」
そう思うよな。俺もだ。
「隣国の薬はどうだった?」
「全然駄目。うちの国が最先端。解呪の類も」
「そうか」
ならば約一年がむしゃらに研究するしかないな。
「この匂い良いね」
ギルが机の上に置いてあった小さな器を開けて鼻を近づける。
「ああ。色気ダダ漏れを抑える為の俺専用だそうだ」
「ふはっそれで治まるの?」
それでもユフィーラが作ってくれたものだ。
「お前にはやらん」
「今度同じの頼んでおいてよ」
「断る」
ハウザーは手を近づけてもう一度匂いを嗅いだ。
ユフィーラからは一月に数度手紙が届いた。
無事婚姻届と離縁届に署名したという意味の分からないものから、料理人のご飯がとても美味しいこと、薬草を育てる一画を借りられたこと。沢山の馬が居てとても癒やされていること、令嬢との兼ね合いがなかなか刺激的なこと、テオルドと一日5秒だけハグの契約ができたことなど、多彩な内容を書き連ねてくる。
そしていつも最後に病の症状を書いてから締められていた。それに対しハウザーも、最後の文にはいつでも好きな時に戻ってこいと記していた。
「あとこれ。先生専用の保湿剤です」
この日はかなりの薬と保湿剤を納入しにきていたユフィーラが、更にハウザー用の保湿剤も持ってきた。そして要らないといっていたのに、払いきってから初めて貯蓄に専念できるんだと、出世払いの最後のお金も渡してきたのだ。
「ああ。これは日常使いしているんだ…二つもか?」
ことんと机に置かれた保湿剤の器は二つだ。
「これは先生の分と天井に住んでいる?方の分です。いつも先生を見守っているような気がするので、ご苦労さまですの一品ですね!」
口に手を当ててふふと笑うユフィーラに相変わらず敏い奴だと苦笑する。
ユフィーラがここを出て行くまでに何度か酒を飲んだが、そういう日に限ってギルが降りてきて堂々と晩酌に参加していた。そして相変わらずユフィーラはそれを覚えていないが、それでも天井に誰かが居着いていて、ハウザーが何も言わないことから問題ない相手なのだと認識しているらしい。
「そうか。渡しておく」
「お願いします。帰りにお肉屋さんでお薦めの惣菜を買って帰るんです。両手一杯に買うんですよ」
「そうか。胃もたれするなよ」
そう言いながらユフィーラの頭をぐりぐりと撫でる。
柔らかい表情をして「私が小柄な原因の一つの筈なのに、心が温かくなるので止められないんですよねぇ」と嬉しそうに微笑む姿に、それがもしかしたらあと半年くらいかもしれない未来が過り、胸が苦しくなるのを意地で隠して苦笑しながら、ぐりぐりと撫で続けた。
「うれしー」
ユフィーラが帰ったすぐ後にギルが降りてきた。
「あの子の勘?直感?なんか凄いね。僕もびっくり」
蓋を開けて香りを嗅ぎながらギルが呟く。
「過去の産物なんだろうが、元々そういう素質があるのかもな」
「そうだね。居なくなってほしくないね」
「―――そうだな」
あれから様々な本を漁り、父親の研究室にも足を運び色々とやってみたが、成果は芳しくない。デスパ以上に鎮痛に効くものもなく、手詰まりな状態だった。
医師としては人の命を削って誰かを助けるということを認めるべきではないのに、テオルドがもしユフィーラに心を寄らせた時、どうにかしてもらえないかと藁にも縋る思いについ駆られてしまう自分もいた。
翌週過ぎた頃、ユフィーラから手紙が届いた。
手紙はいつもより分厚い。ハウザーは嫌な予想が駆け巡る。
予想通り、中期に突入したことと今後のことを考えて今までユフィーラが作成したレシピの伝授の内容だった。痛みは彼女の予想以上だったとはいえ、何とかなりそうだと書いてあった。そして最期の時に部屋で終わりにしていいかのお願いだ。
(またお前は我慢して痛みを流して耐えるのか)
ハウザーは信じてはいないのだが、神を呪いたくなった。余計信じられなくなりそうだ。
何故ユフィーラだったのか。
何故彼女が選ばれた。
何故彼女だけがあんなに耐えなければならない。
今に始まったことではない心から湧き上がる思いにハウザーは眉を寄せて目を瞑る。
数日後、暫く見ていなかったギルが顔を出す。
「人手が足りないとかでちょっと王家の応援に行っていたんだけどさ。テオルドが妙に団舎に居残っているんだよね。団長が口煩く帰れと言っているのにきかないの」
その話を聞いてハウザーはテオルドをぶっ飛ばしてやりたくなる。だが、リカルドから聞いたことのある彼は人を信用せず寄せ付けない、どちらかというとハウザー寄りの人間だ。その彼が今まではちゃんと帰っていて、ここ最近避けるように家に帰っていないのなら。
もしそれがユフィーラに対して情が入り、それに気づき、認めることがまだできないのだとしたら。
(ユフィーラの命の期限までにもしも…)
心から愛しいと思っていたならば、ユフィーラを救ってくれるかもしれない。己の命を削ったとしても。
(神よりあいつに願ったほうがまだ建設的だな。でもその前に―――)
ハウザーは連絡用の紙を取り出してある人物に送った。
数日後、ハウザーは久しぶりに髭をすっきり剃ってから白衣を脱いだ正装姿で王宮の研究室に訪れていた。
「おう、ハウザーか。ここに直接来るのは珍しいな」
「ほうっておけ」
その場には丁度休憩していたのか、ハウザーの父、ゼルザがやけに黒い濃そうな珈琲を飲んでいた。
ゼルザの横を素通り、資料室に入り魔術師団の入団に関わる書類を探して読む。
今では廃止され任意になっているが、数年前まで魔術師団に入団した際に呪いや不治の病の解呪の適性魔力診断が強制されていた。その中には天使と悪魔の天秤の名もある。ハウザーは一通り目を通し、それを仕舞う。
「なんだ。何か困っているのか」
ゼルザが研究の書類と書物を目にしながらこちらを見ずに聞いてくる。
「ちょっと気にかかったことがあっただけだ。邪魔したな」
「お前がここに来るということは相当なんだろう。周りを上手く使え。いざという時に動けないと、必ず後悔するぞ」
「―――ああ」
だからこそ動いている。でもあの病は未だに解明の糸口すら見つからない。
ハウザーは研究室から出て廊下を歩いていると、向かい側から日差しによって更に輝くブロンドの髪に浅緑の瞳をしたローブ姿を発見する。
「ハウザー」
濃紺のローブを羽織った、ハウザーの叔父リカルドが手を挙げて声をかけてきた。
ハウザーは色味の違うブロンドに深さの違う緑色の瞳。これらの色合いは王族特有の色だ。
「お前が連絡するなんて珍しいな。どうした?」
「リカルド。解呪に関する適性診断は今はどうなっている?」
リカルドは瞬きを一つする。
「あれはもう任意でないと受けられなくなっているぞ?そもそも命や膨大な魔力を費やすあれは、今では殆どの者が受けない」
「分かっている。俺も昔やっているからな」
「それ意味わからないよな。お前その時王族だったのにさ。王族が誰に命かけるっていうんだ」
「お前もだろう。そのおかげでビビアンが助かった」
「…まあな」
二人で廊下を歩きながら話す。
「あれから数年以上経っている。もう一度適性検査をしてみたくてな」
「え?なんでまた」
「同じ治療でも昔は効かなかったのに今は効くようになったとかいう事例もあるからな」
「うーん、あまり聞かないけど絶対無いとは言えないけどな」
「ああ」
「そういえばさ、お前テオルドの奥さんの後見人だったんだな。知らなかったよ」
「言ってなかったからな」
「私もテオルドの後見人なんだぞ?お互い親同士的な―――」
「だから言わなかったんだ」
「相変わらず諸々興味ない男だなぁ」
そう。元より興味の大半が医学の研究で、今まではそうだった。誰かが何か遭ってもだから何だといつもそう思っていた。なのに俺はこうしてユフィーラの為に動いている。そのことが不愉快でもない。
ハウザーはリカルドに連れられて魔術師団の塔に訪れた。適性検査室に入り再度検査を行った。
「んー前と殆ど変わらないな。それにしても相変わらずの魔力量だな。本当に魔術師団に欲しいよ」
「興味ないな。それよりも適性がない場合でも無理に解呪を行うと魔力枯渇等で命は無くなるか?」
「そりゃあな。ただでさえ解呪は代償が大きいものが多い。相手が大切なら大切な程、相手の立場に立ってみろ、ていうことだ。…ビビアンから言われたことだけど」
それでもとリカルドは思ったのだろう。それでも生きていて欲しいと。
でも己が逆の立場なら、とてもではないが耐えられないかもしれないことも理解はできる。
(俺がもし命の代償で助けたとしたら…ユフィーラは絶対許さないだろうな、自分自身を)
虚無感が襲ってくる。
どうすれば良いと。
医師のくせに何一つ助けてやれない。
何もできない。
解呪で助けても相手の心を酷く傷つける。
リカルドと別れ、帰り道の団舎近くでテオルドを見かけ、目が合う。今日も奴は家に帰らないつもりだろうか。様々な思いが込み上げ拳を握り締める。
(それでも俺は、ユフィーラの好きにさせると誓った。それは変わらん)
ハウザーは拳を緩め、視線を外しその場を去った。
厳しい寒さが緩和された頃、ユフィーラからの手紙が届く。
椅子に座って中身を確認したハウザーは目を閉じて天を仰いだ。
暫くそうしていると背後に気配を感じた。
「後期?」
「ああ」
ハウザーは目を開き虚ろな瞳をギルに向ける。
「ここに戻ってくるんだっけ」
「いや、ここには立ち寄るだけになった」
ユフィーラからの手紙には最期に行きたい場所ができたと書いてあった。恐らくテオルドとの縁の場所だろう。
(俺に解呪の適性があれば。ないものねだりなのはわかっているが、そう思わずにはいられん)
手紙には相変わらず悲観的な言葉は一つもない。ハウザーに渡す薬が大量に用意できているので楽しみに、とか毎日をとても充実させて幸せだったとか。
それならば。
ハウザーは最期までユフィーラのやりたいようにさせることを選ぶ。情けないことだがそれしかしてやれないのなら、それを遂行させるまでだ。
(あいつが前向きなのに俺がそうしないわけにはいかないからな)
ハウザーはもう一度強く目を閉じた。
診療所の机に薬や保湿剤などを置きながら、なかなかに重労働でしたと言い、にこにこしながら最後に大瓶を置く。
中期の症状により食欲が減退し痩せたが、後期に美味しいものをこれでもかと食べたらしい。今はもう空腹感がないのだそうだ。
テオルドの様子から少し懸念していたが、ユフィーラは本当にこの一年のことを嬉しそうに話す。
(幸せだったんだな。それならば、良い)
ユフィーラが精一杯生き抜いてきたのならそれで、良い。
「精一杯生きたのではないかなと思います」
ああ、そうだな。その表情を見れば一目瞭然だ。
ハウザーはユフィーラの頭を撫でる。先生のおかげで手が怖くないといつも、今日も嬉しそうに言う。
特効薬や解呪のことを結局何も進展がなかったことを謝ると、ユフィーラは穏やかで溢れる感情を藍色の瞳に湛えて頭を撫でているハウザーの手に触れる。
「私は私の思うように叶えたいことをやりきりました。先生の命を削るなんて言語道断、問答無用でお断りです。でもその気持ちはとても温かく染み込んで嬉しいです」
そうか。お前が喜ぶことは慮る心と寄り添うことなんだな。
「誰かが解呪が出来る状況だったとしても、人の命を人の命で救う方法なんて私は望みません」
「お前は…ぶれないな」
お前の生き方は本当に変わらず揺るぎもせず、邁進していく姿は美しい。
本当に……本当に、敵わないな。
胸の中が温かいのに苦しくて切なくなる。両手を広げてやると、年相応の笑顔でハウザーの胸に飛び込んできた。背中に腕を回して抱き締める。温かくて満たされる。
「先生の抱擁は安心できて、温かいですね。――――本当に好きにさせてくれて、それを見守っていてくれてありがとうございました」
そうか。お前は何もできなかった俺なのにそう思ってくれるのか。
お前は終わってしまうかもしれないのに、俺の心は救ってくれるのか。
日が変わった夜半。ハウザーはユフィーラの部屋に居た。ベッドで規則的な呼吸が聞こえることに安堵する。戻ろうとするが、規則的な呼吸が急に緩やかにならないかという懸念もあって、なかなか去れない。
ベッドの端にゆっくりと腰掛ける。眠るユフィーラの寝顔は幼い。まだ18年しか生きていない。ハウザーはユフィーラの頬に触れ指先を首元に当てる。脈動は安定している。
そのまま親指で頬を撫でる。
(俺は解呪に適性がなかった)
ハウザーは五属性と闇属性を使えるが光属性だけが使えない。解呪には光属性が必要だった。
(それでも…願掛けくらいは許してくれるだろうよ)
ハウザーは己の中で魔力を操作して魔術を織り込む。
水と土、そして少しの闇。闇を反転させる効果を付与させて水と土で織り込む。ハウザーだけができる唯一の術だ。
(どうか…繋いでくれ)
闇の典型的な死の部分を反転させた生命の源。水と土でそれを増幅させ育成させて、闇属性なのに七色に淡く光る無二の術。ユフィーラの額にかかる髪を手で払い、ハウザーはそこに口を落とし念じる。
「…どうか」
繋いでくれ―――――――ユフィーラの命を
結局そのまま眠ることも出来ずに朝を迎えた。階段を降りる音が聴こえ、ハウザーは透視の魔術を編む。診療所の前で深くお辞儀をするユフィーラを何の感情もない瞳で見送った。
扉の看板はクローズのままにしてハウザーは自室に入って椅子に凭れた。そして後方に気配が近づく。
「追う?遠隔索敵でできるけど」
「…好きにしろ」
ハウザーはここに居なければならない。
ギルの気配が消え、ハウザーはそのままの状態で天を仰いだ。
それから数刻後、診療所の扉が破壊される勢いで叩かれた。開けた先に居たテオルドの覚悟した瞳の強さに、ここで奴を待っていた甲斐があったとハウザーは一縷の望みを賭けた。
「主。何とかなったみたいだよ」
椅子に凭れたままのハウザーの耳から脳髄までにその言葉は響き渡った。
ギルから伝えられる言葉にこんなに歓喜したのは初めてだった。
「そうか」
「うん。またあの保湿剤作ってくれるかな?」
「言っておいてやる」
「うん。主に人を慮る感情をくれたあの子は大事にしないとね」
「―――ああ」
気配が消え、ハウザーは洗面台に行き顔を洗うがすっきりしきれない。
布を濡らして絞り、それを魔術で冷たくする。
ベッドに寝転がり、目元に布を被せる。
ひんやりとして気持ち良い。
じわりと冷たさが目元に染み渡る。
それなのに目の裏だけが何故か熱い。
熱い理由なんかわからないからそのままにしておくことにした。
ハウザーは心地よい睡魔に身を任せた。
**********
ユフィーラが薬類と保湿剤の瓶を薄茶色の簡素な机に綺麗に連ねて並べていく。
その次にハウザー専用のいつもの物と新しい爽やかな香りの保湿剤、明らかにギル用のものまで別で並べた。にっこりしながら「何だか実家に帰って来てるような気分で落ち着いてしまうんですよねぇ。これはお礼も兼ねているので、所謂贈答品ですね!」と言いながら上を見上げていたので、奴も天井裏で喜んでいることだろう。
先日、ちょっとした王族の奴に呼び出されたので、手間賃でカード勝負を仕掛けて王族御用達の酒を拝借してきたうちの一本を帰り際ユフィーラに持たせた。
ついでにちょっとした手紙を持たせた。葡萄酒は屋敷の皆が好きだと満面の笑みでユフィーラは帰って行った。
翌日の昼過ぎ。ハウザーが午前中の診療を終えて休憩していると、診療所前に魔術師の気配を感じた。
扉を開けるとそこに居たのはテオルドだ。
無言で顎をしゃくり、中へ入れる。
ハウザーは休憩していた椅子に座りテオルドに視線を移した。
「何の用だ」
テオルドは相変わらず何を考えているか分からない無表情でハウザーを見据えている。これがユフィーラの前だと表情を緩めると言うのだから未だに信じられん。
「膝に乗せたのか」
「は?」
想像していなかった言葉につい疑問一文字で返してしまう。
「膝の上に乗せたのか」
再度聞いてくる質問に昨日渡した手紙の内容だと気づく。
(…それを聞きにわざわざ来たのか)
執着というものを持たない彼からは考えられない言動だ。ほんのちょっとした嫌がらせのつもりが、ここまで踊らされていることに意味不明の充足感を得る。
「膝の上には乗ったが、あいつ自らだぞ?」
その言葉にテオルドは眉を寄せる。今までにない人間らしい仕草にハウザーはつい追撃を放ってみる。
「下から見上げられると可愛いよな」
テオルドから魔力の蠢きを感じたので、ハウザーは口を開いた。
「問題ない」
近くにギルの迎撃態勢の気配を感じたので鎮めておく。
それを聞いたテオルドは瞬きを一つして蠢きを封じ、天井に視線を移しまた戻した。
「酒を飲ませた時か」
「ああ。そっちに行くまで何度も一緒に食事をしているからな。普段ならあいつがまずしない行動だろ?」
テオルド本人がユフィーラに心を寄せていると認識したのは最近だ。
「人の機微に敏いあいつが唯一心の声を漏らすのがあの時だ。今まではずっといつも誰にも漏らさないように生きてきたんだ。それは今になってもすぐに変えられるものではない」
強固な蓋とその蓋を更に動かさない為の重しを厳重に積み重ねてきたユフィーラにはなかなか難しいことだろう。
「それが酒というきっかけで少し溢れるくらい良いだろうよ。記憶が無くなろうが唯一の無意識の捌け口だ」
「それは構わないし俺もそれを望む。だが、俺が側に居る時だけで良い」
リカルドがあまりに無頓着なこの男を心配していたから相当安心したのではないだろうか。だがここまで執着させて変えてしまう、その偉業を成したことを理解していないユフィーラも流石だ。
「それを決めるのはユフィーラだろう。お前がそれを制限するのか?」
そう言うと、テオルドは黙る。単に俺への嫉妬なのだろう。
「あんたはフ…ユフィーラに情を持っている。それは俺と同じものか」
前にギルに聞かれた内容をもう一度反芻してみる。
「彼女にとって俺は家族のようなものだろうよ。後見人だしな。俺もそれで良い」
「…それで良い?」
テオルドが訝しげな様子で見てくる。
「ああ。あいつが幸せで毎日楽しく暮らしているならそれで良い。薬の納品で会えるしな」
「…」
テオルドがハウザーの言葉を疑っているのか知らんが、ちゃんと釘は刺しておく。
「だが、幸せでないなら、憂いが積まれるなら、いつでも帰ってこいというのは俺の本音だ。忘れるな。俺はユフィーラの全てを受け止められるからな」
それを聞いたテオルドの目が僅かに見開く。今の感情は家族間だが、いつでも変えられると諭した言葉に気づいただろう。
「そこは問題ない。ユフィーラの存在で俺は感情の動かし方が分かったからな」
どんなに高貴の人物や美しい令嬢に対しても一貫して態度が変わらなかったテオルド。
常に無機質な無表情で心配していたリカルドから相談されたことがあった。無視して帰ったが。
そのテオルドをここまで変え、そして自らの力で幸せを獲りにいったユフィーラを、ハウザーは誇りに思う。
「それなら俺はユフィーラの幸せを願うのみだ」
視線を逸らさずにテオルドを見据える。
テオルドは僅かに頷いて軽く頭を下げてから転移で消えた。
ハウザーは椅子の背凭れに寄りかかりながら目を閉じる。
「まあ…家族の方が別れて終わるってことがないからな」
ユフィーラの満面の笑みと頭を撫でられた時の滲み出る嬉しそうな顔を思い浮かべてハウザーは口元を緩めた。
不定期で後日談を投稿していきます。
誤字報告ありがとうございます。
助かってます。